第46話三日目、夜ー10
寝室のベッド脇、家具に紛れるようにしてひっそりと置かれていたという木箱の来歴には、確かに引っ掛かるものがあった。
意気揚々、とまではいかないものの、だからそれなりには期待をもって、シンジは木箱の中身を調べ始めた。
しかし……。
「三角フラスコ、試験管立て、アルコールランプ。これは……塩が結晶化しているな」
それこそ魔法のように次々取り出される器具を調べながら、シンジはとうとう大声を上げた。「無いぞ、それらしいものが、何も!」
「私からすれば、充分にそれらしく思えるものの
「だが鍵じゃない」
フラスコの底を丹念に眺めながら、シンジは舌打ちする。「高価ではあるが、既製品だ。特別な加工の痕跡もない」
トン、という軽い音に、視線を向ける。
テーブルの隙間には、湯気を立てるコーヒカップ。
「一息入れましょう、教授」
「……ありがとう、ネロ」
漆黒の水面を吹いて冷ましながら、シンジは軽く背筋を伸ばした。「ルカリオは?」
「寝室の方で、他に何か無いか探してみるそうです。先ほど飲み物も持っていきましたが……相当集中なされてましたね、教授」
「そうか、すまない、少し夢中になってしまったようだ……ん?」
差し出された飲み物を一口含み、それからシンジはなんとも不審そうに、じっくりと水面を見つめた。
漆黒の水鏡に映る自分自身との対話を数秒経て、ようやくシンジは、その水分を飲み込んだ。
顔をしかめたままで、シンジは暫く沈黙してから、いかにも恐る恐るといった風体で口を開いた。
「……何だ、これは」
「飲み物ですよ、教授。分類としては嗜好品に属しますかね、水分補給のためというよりは味わうために摂取されるものです」
「質問の仕方が悪かったと認めるよ。こう、尋ねるべきだった――これは珈琲か?」
「もっと独特なものですよ、教授。この地方で飲まれている少々個性的なお茶です」
「少々?」
未だに残る口内の苦味に正しく苦虫を噛み潰しながら、シンジはうらめしそうにネロを睨んだ。「この味から個性以外の何かを発見できるのなら、君はクロウリー賞を獲れるぞ」
ネロは不思議そうに首をかしげた。「烏麦を煎って抽出したものです。製法に関しては、珈琲と大差ありませんよ?」
「味に大差があるんだ、ネロ」
ネロは微笑んだ。「慣れるんです、教授。経験に順応することこそ、神からヒトに与えられた最優の鎧です」
「我慢をして飲む嗜好品に、何の価値があるんだ……」
「それより教授。その【鍵】というのは、いったいどういう形状のものなのですか? それが解らないと、私は延々お茶を淹れ続ける羽目になります」
目新しい脅し文句に瞬きすると、シンジは悩むような素振りを見せながらすっと、胸元から万年筆を取り出した。
「探しているのは、文字だ。それも、たった一文字。暗号を解読するには何らかの規則性を見いださなくてはならないが、今回その役目を担うのは恐らく、ただひとつの文字だろう」
「文字、ですか? しかしそれにしては教授。先ほどから実験器具や装飾品ばかりを気にしておられるようですが……文字ならば、それが書かれているものから探すべきでは?」
ネロが示したのは、木箱の中に納められていた数冊の書物だ。
洒落た金刺繍のタイトルを一瞥し、シンジは鼻を鳴らす。
「あれらはダミーだ」
「ダミー?」
「偽物、罠、囮。いわゆるミスリードだよ、門外漢に鍵を渡さないためのね」
箱を開け、鍵を探す人物が錬金術師でない場合、文字と言えば確かに本の中を優先して探すだろう。
誰だってそうする。だから、そこじゃあない。
「錬金術師は、魔術師以上に偏屈ではないが、魔術師以上に享楽的だ。彼らの謎解きはどちらかというなら、子供の【宝探しゲーム】というところでね、『こうしたら面白そうだ』とか、『多分ここを探すだろうから見落としがちなこっちに隠そう』とか、そういう発想なんだ」
「だから、本ではないということですか」
「加えて言えば、錬金術師の基本理念にはこうある――『水銀、硫黄を一滴。一つの釜に一つの器。それだけあれば、真理は無限に手に入る』。実験器具と素材を用いた実験こそが肝要なのであって、書物は二の次というわけだ」
厄介な性質だと、多くの錬金術研究家は思っている。
明快な文章で解りやすく真理を伝えようという気遣いが、錬金術師には押し並べて足りていない――まあ、当の錬金術師には伝わるのだから、ある意味で適切な管理とも言えるが。
「大事なのは、書物よりも道具だ。それは間違いない。だが……」
「それは、錬金術師ならば常識、ということですね? ということは詰まり、ここには鍵はないということですか?」
シンジは片頬を軽くひきつらせる。「鋭いな」
「どうして、そう思う?」
「少なくとも、教授はそう考えているのでしょう?」
ネロは、微笑みながら首をかしげた。「同胞を疑わざるを得ないというのは、悲しい話ですが。教授はどうも、イカロス氏以下の錬金術師を疑っておられる」
見事な観察眼だ、シンジは低く唸り声を上げた。
ネロの言う、正にその通りだ。
彼らは疑わしい、少なくとも、何かを隠してはいる。それも、彼らが事件に関係があるであろうと考える、何かをだ。
知られたくないことがあるのは、仕方がないが。
彼らの隠匿行為はどうやら、犯人の身を覆い隠す役目も果たしてしまっている。
だから、彼らが隠している何かを探り出すことができれば、犯人にも近付けるのだが。
「隠す側の彼らが、この部屋を捜索していない筈がない。だから、ここに残された物の中に、重要なものがあるとは考えにくいんだ」
「それでも、無視するわけにはいかないというわけですか……」
「少なくとも、例の【完本ヌース=ホルフ】は残っていた。見逃しという可能性はやはり、否定できないよ」
「不毛ですね」
自分のカップに注いだお茶を飲みながら、ネロがため息を吐いた。
その瞳に、剣呑な光が宿る。
「どうにかするのなら、彼ら自身に訪ねた方が早いのでは?」
「質問の仕方にもよるだろうが、ネロ、君の流儀に従うのは、最終手段だな」
そしてできれば、避けたい手段でもある。
絶対に、どう考えてもこいつは、暴力によって真実を暴き出そうとする。神の僕にしては物騒な男なのだ、こいつは。
「……そういえば」
シンジはふと、友人の特殊な性質を思い出した。「君の神さまは何と言っているんだ? 確か、為すべきことを教えてくれるんだろう?」
心に神は居ると語るネロの言葉がどこまで正確なのかは解らないが、その直感はかなりの精度を誇っている。神の言葉が聞こえているかはともかく、彼の勘はまあまあ当てにできる。
ネロは静かに頷いた。
「問題は、ないと思います。ここにいることが間違いではないという確信が、私の心に満ちていますから」
「そうか」
シンジにとって勘というものは、ある種の未来予測だ。
それまでに体験し収集してきた情報、それも意識無意識を問わず得た情報をまとめた結果、可能性が高い未来を予測するものだと、考えている。
そう考えると、ネロの【神の声】もある程度までなら信用できるというものだ。
「えぇ、その通り。信頼していただいて構いませんよ」
ネロは笑みを深めた。「ここで教授と、それからルカリオ嬢と過ごすことは、神の意思にそぐうものなのです」
「なるほどね、僕と……ルカリオ、と……?」
ふと。
その言葉に、シンジは眉を寄せた。
「【完本ヌース=ホルフ】が残されていたのは、彼らにとっては興味を引く内容ではなかったからだと思ったが……もしかしたら、イカロスたちも読めなかったからか……?」
「教授?」
「……鍵を見付けられなかった……かつて五光とまで呼ばれた錬金術師が残す書物が、誰にも、娘にも読めないという事態を良しとするか……?」
「教授、どうかしたのですか、教授?」
ただ開いているだけの視界は意味を無くし。
記憶の中の情報が嵐のように加速して甦る。
笑うルカリオ、泣くルカリオ、照れて食べて畏まって、色々な表情で踊る少女の映像。
その胸元で揺れる、父親から受け継いだ手製のロザリオ。
「ルカリオ、ルカリオ!!」
叫びながら、シンジは立ち上がる。
間違いないと、勘が告げている。鍵は、あそこだ。
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