第45話三日目、夜ー9
【完本ヌース=ホルフ】。
ずいぶんと仰々しい名前である。しかも、始まりにして終わりの書物ときた。
もし魔術師の間でそんな冠の本があったとしたら、誰もがこぞって奪い合うだろう。間違っても二十年間、手付かずのまま埃を被っているようなことは無い筈だ。
それに、とシンジは表紙を軽く撫でて、指を見詰めながらため息を吐いた。
「この装丁は、そう古いものではなさそうだ」
ルカリオが差し出した本の表紙は獣皮を用いた一般的なハードカバーであり、とすると百年もすれば表面は劣化してしまう。亀裂が入ったり、赤茶けた粉のような状態になってしまうのだ。
しかしこの本の場合、撫でた指には埃しか付かなかった。深みのある赤い表紙には、シワの一つも寄っていない。
状態が、良すぎるのだ。
錬金術師に古くから伝わる書物にしては、これは少々新しい。専門家ではないシンジがざっと見た限りではあるが、作成されて精々が十数年といったところだろう。
これが魔導書なら、一切変質していなくても問題はない。特に本物の場合、魔力が僅かにでも存在する空間ならば、魔導書は自らを修繕・強化し続ける。
シンジの分析に、ネロが眉を寄せる。
「詰まり、偽物ですか?」
「
とはいえ魔術師はあまり、過去の魔導書の写本を作ったりはしない。
模倣は力の純粋さを損なう――それをわざと狙った、意図的な
「確かに。聖典は幾度となく写本が作られています。印刷技術の発展の歴史はそのまま秩序神教会の拡大の歴史ですが、その結果信仰の純度が下がったと言われたら、えぇ、頷くしかないでしょうね」
「覚えておいた方が良いことなんだが、ネロ、宗教家はこの場合頷かないものだ」
「しかし、仕方の無いことです。我々の先達は信仰を強固に保つより、領地を広げることを選んだ。神父が聖典を諳じることが出来ずとも、神の名を知る者が増えさえすれば良い、そう思っていた、そうでしょう?」
「人々の求めに応じた、とも言えるがね」
各地に点在する教会が、地域の住人にとって医療や教育を安価に受けられる場所であったことは否定できない。
どれ程金がなくとも神の名を唱えれば救いの手が差し出されるというのは、持たざる者にとっては奇跡そのものだろう。そして歴史は、得てして持たざる者がつくる。
「流石ですね、教授!」
発見を模造品と断じられたルカリオが、何故だか嬉しそうに何度も頷いた。「そうです。それは当然写本です」
「……詰まり、君のお父さんが書いたもの、ということか」
だとすると。
シンジはもう一度、手元の本に視線を落とした。彼女の言う通り、これは正に探していたものかもしれない。
「今回の事件、中心にあるのは間違いなく【
「るみあれす?」
「……錬金術の秘奥らしい。その様子だと、君は聞いたことがないのか?」
んー、とルカリオは首を捻る。
「錬金術の秘奥なんて、入り口と同じくらい沢山ありますから。多分それも、どこかの流派の秘奥、ということだと思います」
「まあ、確かに。師に応じて研究の終着点は違うものだ。但しここで問題なのは、イカロス氏は知っているということだ」
「イカロス氏たちですね」
ネロが淡々と補足する。「彼と友人の四人は知っているようです……あぁ、成る程」
そこでネロは気が付いたらしかった――彼らの美しい友情は、元々は五人だったということに。
「彼らは同一の派閥ではあるだろうが、流派ではないだろう。現にウルカ氏は薬草学を、そして話に聞くと、オズマン氏は蒸気工学を修めている。ドクター・フォーシーズンスじゃあるまいし、一流派でそこまで幅広くフォローは出来ないだろう」
「ドクター・フォーシーズンス?」
「あらゆる属性の魔術を使いこなす、天災的な天才だよ。それより、良いか? 問題は【
友人たちの内四人は知っていた。
なら、残り一人は?
「お父さんも、知っていた……?」
「可能性はある。だから、彼の研究日誌が欲しかった。この中に何か、ヒントがあるといいがね」
「成る程です……けど、だとしたら、ちょっと時間がかかるかもです」
「速読は魔術師の基本教養だよ。暗号が隠されているかもしれないから、あまり流し読みは出来ないがね」
「いいえ」
ルカリオの否定に、シンジは眉を寄せる。
「……いいえとは? どういう意味だい、ルカリオ?」
「暗号は、隠されてはいないんです」
問い質そうとしたシンジはしかし、ふと何かを思い付いて、口を閉ざした。ルカリオの思わせ振りな口振りには、何か嫌な予感がする。
まさか、とシンジは本を手に取った。必要以上に重厚感のある表紙を捲り、パラパラと数ページ読み進め、唸り声を上げる。
ルカリオが、ため息を吐いた。
「隠されてはいません、教授。【完本ヌース=ホルフ】は、内容の全てが暗号なのです」
「【完本ヌース=ホルフ】が錬金術師にとって始まりにして終わり、とまで言われる理由は、この本を読み解くことが錬金術師としての第一歩だからです」
開いた一頁目。
乱雑に並んだアルファベットは、幼子が自分の知る文字を思い付くままに書き並べたように規則性が無く、『兎に角このページを埋めよう』という強迫観念さえ感じ取れるほど、悪い意味での適当さが目立っている。
「錬金術師にとって卒業試験というか、一人前と証明するためには、この本を読み解き、自らの手で書き記す必要があるのです」
「書き記す?」
ネロが疑問を差し挟む。「書き写すではなくて?」
「えぇ」
当然の疑問を、ルカリオは力強く否定した。「そこで先程の、暗号云々が問題となってくるのです」
「鍵の問題だな」
シンジは文字列を読み進めながら、軽く舌打ちした。
「どういう意味でしょうか、教授?」
「この暗号は恐らく、本当の意味でランダムだ。一切の規則性が無く、それ故に規則性を持っている。
錬金術の基礎にして秘奥。成る程納得だよ、この矛盾は、実に錬金術師らしい」
「もう一度、お聞きしますけれど。どういう意味でしょうか、教授?」
「……要するに、この暗号で真に重要なのはこれを読み解くための鍵なんだ」
「では、暗号を解読出来るのですね?」
「あぁ。それが問題なんだ」
理解できない様子のネロを一瞥し、シンジはもう一度、舌打ちした。
暗号文そのものには、大した意味はない。しかしこれは、読み方によって幾通りにも読み解けるのだ。
「鍵を【二】と定めると」
シンジは文字列をなぞりながら、そのアルファベットを後ろに二つずらして、二つ置きに読む。「こう読める。『金を巨人の血で融かせ。そこに沸騰する鉄を注ぎ、万物の母たる水銀を注ぎ入れよ。さすれば金は眠りに就き、再び目覚めると、その身体は二倍に膨れ上がるであろう』。これは、金の錬成方法だな。
更に、今度は【三】だ。
『硫黄は父である。母たる水銀を囲い、己の血筋を満たす。やがて産まれた子を父は喰らい、腹の中で肥えるまで育てるであろう』。更に……」
「もう結構です、教授。どうか結論をお聞かせ願いたい」
「答えが在り過ぎる」
シンジは呻き声を上げた。「最も単純な、文字をずらす解読法だけで八通りはある。文字列自体の入れ替えや変形まで含めたら、どれ程になるか……」
「【千の顔を持つ本】と、それは呼ばれています。一つ一つ神経を磨り減らしながらしらみ潰しに全ての顔を見ようとすれば、それだけで人生は終わってしまいますよ、教授」
渋々と、シンジはルカリオの言葉を認めた。
解読の安易さが、何より強固な防壁となっている。正しい読み方を知らなければ、導きだした答えが正解か不正解かさえ解るまい。
問題は、もう一つ。
「ネロ。これ、何に読める?」
「……小文字のエルですか?」
「僕にはアイに読める」
「……まさか」
「あぁ。どちらでも解読はできる」
癖字。
立ち並ぶ文字列は崩した筆記体で書かれており、見る者によって容易くその形を変える。そしてどんな文字だと認識しても、文章自体は通じてしまうのだ。
「……全ての錬金術師は、自分の師匠が書き記した【完本ヌース=ホルフ】を先ずは読み解きます。師匠は自分の読み方に合うように文字を把握して書きますし、弟子は師匠の癖を理解しているから間違えません。そうして代を重ねる毎に、文字は変質し、暗号は複雑になっていくのです」
「それが【書き記す】と【書き写す】の違い、というわけか……」
「そうです。読む者によって姿を変え、書く者によって意味を変える。【完本ヌース=ホルフ】は世界に無限に存在しますが、同じものは一つとして無いのです」
始まりにして終わり、成る程確かに、その在り方は『入り口の数だけ秘奥がある』と言われる錬金術師に相応しい本だ。
機会があれば、是非ともじっくり研究したいところだ。しかし。
「じゃあ、どうする」
沸き上がる好奇心は、焦りに踏み潰された。「死ぬまでに答えを見付ければ良いわけじゃない、殺すまでに見付けなければ」
「鍵を探すしかありません」
「しかし、どうやって……」
ドスン、という大きな音。舞い上がる埃。
テーブルに置かれたのは、大きな木箱。音といい振動といい、中身は恐らく満載だろう。
「父の遺品箱です、さっき見付けました!」
唖然とするシンジとネロに弾けるような笑顔を向けながら、ルカリオは明るく力強い声で宣言した。「鍵はこの中にある筈です!」
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