第44話三日目、夜ー8

「うわあ、美味しい!! 火喰い鳥が煮込むと柔らかくなるのは知ってましたけど、ここまでなるなんて! まるで焦がしプディングケーキみたいですね!」

「…………」

「ソースも凄い……こんなに濃いスパイス、味わったことありません。茶辛子マストの実を砕いてるんでしょうか……ジンジャー、それにガーリックも?」

「…………」

「付け合わせにパンがあれば良かったんですけど……あ、勿論使とは言いませんけど。あれはほら、高級品ですからね」

「…………」

「…………」

「…………」


 シンジたちの沈黙と視線に流石に耐えかねたのか、ルカリオはとうとう黙り、シチューの椀をそっとテーブルに置いた。

 湯気を立てる椀を俯いて覗き込む金髪には、大きい埃が幾つも付いている。


「……ごめんなさい」

「…………」

「本当に、ごめんなさい。ここがその、お父さんが使ってた部屋だって、解ったから。つい、気になってしまって……」

「誤解させたかもしれないが、怒っている訳じゃないんだ、ルカリオ」

 シンジはため息を吐きながら肩を落とす。「ただ、ちょっとその……」

「教授は心配だったのですよ、お嬢さん」


 和やかに割り込んだネロが、天使のように微笑んで言った。


「このところ、悲惨な事件が続いていましたからね。貴女を連れてきたのに、結局守れなかったのかと、ね」

「悲惨な……事件……?」

「……ウルカ・トゥシウムは死んだ」

「っ!?」


 シンジの言葉を聞いて、ルカリオの顔から血の気が引いた。

 伝えなければ良かったか、シンジはちらりとネロを見る。こうした感情の機微に関わることは、あまり得意ではない。

 そういうことはこの、童顔の異端審問官に任せるべきだったかもしれない。ヒトを信じさせるのが、彼らの仕事だ。


 とはいえ賽は投げられた。今更ネロにバトンタッチする訳にもいかず、シンジはとにかく話を続けることにした。


「大学でネロに撃退されたあと、犯人は急いでここに来たらしい。一晩一人、勤勉なやつだ」

「連続殺人犯は良くそうした、自分のルールを持っています。規則を守ることで、精神の安定を保つのです。自分は節制が出来ている、異常ではないと、言い聞かせるために」


 禁酒に失敗する奴の言い訳みたいだと、シンジは思った。一日一杯、夜の時間にだけ飲んでると自慢げに語る、酒乱の男だ。

 あまり良い例えとは思えず、シンジは言わないことにした。


「……ウルカ氏とは、面識はあったのかな?」

「はい……お父さんの同僚の中で、ウルカさんが一番気を使ってくれましたから……」

「そうか、じゃあ、その……辛いだろうね」


 それはそうだろう。

 言っていて空しくなる、空々しい感想だった。ルカリオとウルカ氏の間にどの程度の交流があったのかは不明だが、恐らく、父親を亡くした彼女の精神的・金銭的支えとなったのではないだろうか。

 ウルカ・トゥシウムという錬金術師は若者との茶会を欠かさず、優雅と気品を忘れなかった珍しいタイプの錬金術師だったようだ。そんな彼女が、五人しかいない友人の忘れ形見に対して親切を惜しむとは思えない。


 ウルカはルカリオに、出来る限りの愛情を注いだだろう。彼女は未婚だし、養子を取っていたわけでもない。きっと、本当の娘のように思っていたのではないだろうか。

 そしてきっと、ルカリオの方も。


「…………」


 そんな相手を失った少女に、果たして何が言えるというのか。

 解っている、本当は。

 

 思いやりを理性で振るうのは、無粋だ。


 言葉を無くしたテーブル。

 途方に暮れたシンジを見かねたのだろう。ネロが大袈裟にため息を吐いた。


「……とりあえず、食べましょうか」

「ネロ、その……」

「肉は冷めると固くなります、そもそも冷めたシチューなど、悪ですから」

「いやしかし、何て言うか、そんな場合じゃ」


 瞬間、シチューの湯気とスパイスの香りを前にただただお預けを食らっていた腹の虫が、今が好機とばかりに、高らかに叫んだ。


「どうやら、賛成いただけたようですね、教授?」

「……ふふ」

「あぁ、もう、解ったよ」


 半ば自棄になって、そして半ばは本気で、シンジは降参のポーズをとった。

 シンジの醜態も勿論あるだろうが、しかし少なくともネロの提案はルカリオを笑わせた。シンジがしたことと言えば、彼女を傷付けただけだというのに。

 やはり、敵わない。所詮魔術師には、ヒトの気持ちを癒すことは向いていないらしい。

 ネロは、嬉しそうに笑った。


「良かった、ではどうぞ。火喰い鳥とは初対面でしょう、教授?」


 そう言えば、そうだった。

 乳白色のソースに匙を差し込む。どろりとした手応えと共に、一口大に切られた肉が掬い上げられる。


「どうやら、少なくとも見た目は、普通の鶏肉と大差無いらしいな」

「……少々怯えすぎではありませんか?」

「未知に対して臆病であることは、魔術師には必要不可欠なことなんだよ」

「先人が既に、効率の良い扱い方を確立しているのに?」

「カサゴの毒を知らなかったのも、先人だよ。クロダケの笠の裏に白い斑点があることが特徴のクロダケモドキの存在を知らず食べ、村一つが体茸症ファンギフォーゼに陥ったのも、先人の時代だ。彼らが何故毒キノコを食べたと思う? 『先祖が食べていたから』、だ」

「解った、解りましたよ教授。どうぞお気の済むまでそちらをお調べください」


 お手上げ、と両手を挙げると、ネロは自分の椀に取りかかった。

 肉を掬うと、わざとらしく見せ付けるようにゆっくりと、口に運んでいく。


「カルヴァトス教授、もぐ、美味しいですよもぐもぐ」


 ルカリオは椀の中身を無邪気に消費している。

 目元にやや陰りはあるが、その顔に浮かんでいるのは確かな笑顔だった。

 悲しいだろうに、苦しいだろうに。

 自身の衝撃を、ルカリオは懸命に抑え込もうとしているように見えた。


「……未知への挑戦もまた、魔術師の定めだな」

「それほど大袈裟な話ではないと思いますが……」


 ネロの呟きを無視して、シンジは意を決して、肉を口に運んだ。


 口内に飛び込んだ瞬間、スパイスの刺激的な香りが鼻へと突き抜けた。

 この三日間の内、最も強い香りだった。恐らくは、普段のリシュノワールでは味わえない感覚だろう。例え聖都でも、これだけの風味を味わう機会は滅多にあるまい。


 香りに押されるように、肉を噛む。


 軽く噛んだだけで、歯は易々と肉を切り裂いた。その際、予期していたような生臭さは全く無い。

 それどころか、スパイスに負けないほどの風味が口の中一杯に膨らんだ。これは……ニンニクか?


「肉をニンニクに漬け込んでいるのでしょうね。昔は土に埋めて臭みを抜いたそうですが、今ではそうして、香辛料から香りを移すやり方が主流です」

「へえ、詳しいな」

「見習い時代には、料理も修行の一環でしたからね。中には、とにかく拘る凝り性な者も多く居ました」

「意外だったな、見直したよ」

「それはどうも。火喰い鳥の方も、見直していただけましたか?」


 シンジは、黙って椀を差し出した。

 あっという間に空になったそれを見て、ネロとルカリオは顔を見合わせると、声をあげて笑い出した。









「……助かったよ、ネロ」


 見せたいものがある、とルカリオが寝室に引っ込んだのを幸い、シンジは短く謝意を告げた。

 本当に、助かった。

 ネロがいなかったら、シンジはルカリオに何かしてやることは出来なかっただろう――料理を持ってきたのもネロだし、無理にでも食べさせたのも彼だ。


 ネロは意外そうに瞬きした。


「私の方こそ、貴方にそう言わなくてはならないと思っていましたよ、教授」

「君が、僕に?」


 自分のしたことを思い起こして、シンジは首を傾げた。

 今夜ルカリオにしたことと言えば、精々がおぶった程度だ。他には、事実という無機質な刃で、彼女の柔肌を切り裂いただけである。


「何事も、先触れが最高の名誉を負うものです、教授」

 シンジの戸惑いを、ネロは愉快そうに笑った。「貴方がルカリオ嬢に、最も辛い情報を伝えたのですよ? 私はそれを、補足したに過ぎません」

「機微に鈍感だっただけだよ。無策での突撃を最初にしたからといって、勇猛さの証明にはなり得ない」

「しかし、いつかは誰かが伝えなければならないことでした。そしてそれは、今である必要も、教授である必要も無かったでしょう。もっと適切なタイミングで、しかるべき人物が告げるべき話題だったかもしれませんが、教授、私は今、貴方が告げたことがルカリオ嬢にとって最善であったと確信しています」

「……そうかな」

「そうですとも」


 何の邪念もなさそうに、ネロは力強く頷いた。

 それこそ、時と場合によっては重荷かジョークにしかならない全幅の信頼という奴は、この場においては最善の夜食だった。


「もしそうだとしたら、それも君のフォローがあってこそだ。……本当に、いてくれて助かったよ」

「友人としては当たり前のことですが。そうですね、受け取らずに貴方に荷を負わせ続けるわけにもいきません。慎んでこう答えましょう――どういたしまして、教授」

「し、しかし。彼女、やけに遅いな?」


 ネロの笑顔を見るのが何となく気恥ずかしく、シンジは視線をルカリオの消えた寝室の方へと向けた。

 話を変えるという目的は勿論あったが、ちょっと物を取りに行く、という風体に割りには長く掛かっているのもまた確かだった。

 犯人は見当たらなかったが、流石に不安にもな

 る頃合いである。


 自分の呪いに掛かってにわかに不安を覚えたシンジを、ネロはやや呆れたような目付きで一瞥した。


「……本当に、そういったことには疎いですね、教授。宗教家わたしが言うのも何なのですが、少しは酒場などで一夜の夢にでも興じた方が良いですよ?」

「なんだ、どういう意味だ?」

「女性が寝室に入ったら、『良し』と言われるまで男性は入るべきではない、ということですよ。特に、傷付いているときには」


 解ったような、解らないような。

 どうにもピンと来ない言葉ではあったが、ついさっき、感情の問題に関してはネロの方が上手と認めたばかりである。ここは大人しく、物音一つしないドアを見守る方が良いだろう。

 とはいえ。

 何もかも解っているようなネロの顔は、なんだか少しだけ、不愉快ではあった。









「お、お待たせしましたっ!」


 テーブルの上、カップに注いだホットワインから湯気が消える頃。やがて開いたドアの向こうから、ルカリオは笑顔で登場した。

 本当に待ったよ、と言い掛けたところで、向かいに座ったネロの鋭い視線にシンジは渋々沈黙した。


「構いませんよ、お嬢さん。むしろ早いくらいです……ですよね、教授?」

「……あぁ。神話の研究者にとっては、些末な時間だったよ」


 ちょっとした皮肉だったが、ルカリオの顔、眼鏡の奥を見た瞬間、待たされたという気持ちは直ぐに消えた。


「飲み物は? 少し冷めてしまいましたが、ホットワインがありますよ」

「あ、ありがとうございます、神父様」

「ネロ・エリクィン。肩書きは司教です、お嬢さん」

「し、失礼しました!」

「気にすることはない、ルカリオ。こいつが神父服キャソックを着てるのが悪いんだ」

「司教服は少々儀礼的で、動き辛いのですよ。さて……」

「あ、司教様、ちょっと待ってください!」


 ルカリオの分のワインを注ぐべく腰を浮かせたネロを、彼女は慌てた様子で制止した。

 不思議そうに椅子に戻ったネロと、眉を寄せるシンジのことを赤く腫れぼったい目で順繰りに見て、ルカリオはその手に握ったものを二人にかざした。


 埃を被った、かび臭いそれは、一冊の本だった。

 魔術師としてのシンジの観察眼が、数十年ものの古書だと見抜く。そこに、一切の魔力が含まれていないことも。

 どうやらそれが、ルカリオが見せたかったもののようだが――何だ?


「【完本ヌース=ホルフ】。錬金術師にとって、始まりにして終わりの書物です」

「それは……」

「父のものです、教授」

 ルカリオが、挑むように微笑む。「、教授も、興味があるんじゃないですか?」

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