第43話三日目、夜ー7

 控えめなノックの音。

 返事をするより早く来訪者の意図を察し、シンジは机の上を手早く片付けた。

 どうぞ、と言うよりも早くドアは開いた。


研究馬鹿魔術師の扱いを大分心得てきたようだな、ネロ」

「どうも。夜食をお持ちしましたよ、教授」

「そのようだ」


 実のところ香りだけでそれは理解していた。料理に縁遠いシンジには数さえ解らなかったが、とにかく多数の香辛料を混ぜて加熱したらしい匂いは、ドアの隙間を易々と侵入していたのだ。

 とはいえ顔を上げてネロの運んできた料理を見るなり、シンジは眉を寄せた。

 片手でドアを引き開けた彼の左手には、小振りの鍋と重ねられた椀が載せられた、木製のトレーが握られていた。


 鍋は鉄、器は陶器。スプーンは木製だが、あまり慰めにはならないくらいの大荷物である。


「夜食にしては大荷物だな、夜逃げでもしてきたのか? 言ってくれればドアを開けるくらいはしたのに」

「祭りの最中です、サンドイッチも無いくらい、厨房の残り物も限られてしまいますからね。それにお気遣いいただかなくても、私は片手でヒトくらいまでの重さなら持てますよ」

「実演の必要はないからそう思ってくれ」


 ネロは軽く笑うと、慎重な仕草でテーブルに盆を置いた。

 それから、感心した様子で部屋を見回す。


「随分と綺麗ですね、教授の部屋とは思えません」

「借り物だからな、散らかすわけにもいかない」

「そうしたら、今度こそイカロスさんに追い出されてしまいますね」


 そう、ここはホテルの部屋ではない。

 ルミアレス商会宿舎、最上階、通称『赤の間』。

 スフレ司教を追い返したイカロス氏は、同様に退出しようとしていたシンジたちを呼び止め、部屋を都合してくれたのである。


「しかし、どうして僕らだけ?」

「さあ。案外、スフレ司教への当て付けかもしれませんよ?」

「なるほど」

 去り際のスフレ司教の顔を思いだし、シンジは憂鬱に頷いた。「だとしたら、見事に使われた形になるな」

「地元の捜査機関との軋轢は、出来ることなら避けたいですがね」


 苦笑しながら、ネロが蓋を素手で取り去ると、途端に湯気と濃厚な香りが部屋に広がった。


「シチューか?」

火喰い鳥のシチューフレアード・フリッカッサです。今日は火神マチューバの夜ですから」

「火喰い鳥か……」


 名前くらいは聞いたことがあったが、会うのは初めてだ。

 確か、マチューバ大陸南部に生息する固有種で大型の、いや大型の猛禽類だ。子供どころか牛なども平気で襲い、爪で抱えて巣に持ち帰る強靭な翼を持っている。

 火喰い鳥、という名前の由来は燃えるように赤い羽根とくちばし、そして他の動物とは異なり、けして火を恐れないという習性。そして、調


 彼らの肉は砥の甘い剣なら弾き返してしまうほど筋肉質で、王が捕らえて騎士が捌き料理人が見てる、なんて諺もあるくらいだ。

 その固さを解すには、長時間の加熱が必要である。煮込んだり、炙ったり、とにかく長く加熱しなくてはならないのだ。

 そして、そこまでしても食生活の関係か肉はひどく生臭く、いわゆるゲテモノ扱いされることがほとんど。けして誕生日のご馳走にはならない食材だ。

 その分、羽根や爪はちょっとした素材になるので、魔術師からは肉だけが余分とまで言われている。


 湯気に阻まれる視界には、肉そのものは映らない。思いが顔に出たのか、ネロが苦笑する。


「ご安心下さい、魔術師の方には馴染みが薄いかもしれませんが、これは中々の代物ですよ」

「君は良く食べるのか?」

「肉の中では、その機会は多いですね」

 手際よく鍋の中身を取り分けながら、ネロは頷いた。「少なくとも、牛よりは」

「秩序神教徒には、食事の制限はなかったと思うが?」

「孤児には、食費の制限があるのですよ」


 差し出された椀を受け取りながら、シンジはネロの表情を鋭く観察した。

 切り揃えられた黒髪の下、淡く微笑む栗色の瞳からは、如何なる感情も読み解けない。赤子のそれのように大きいのに、夜半の井戸よりも底の見えない空洞が、シンジの瞳を見つめ返している。


「孤児だったのか?」

「有り触れた話でしょう?」

「事情によるだろうな」

「有り触れた事情ですよ。村を疫病が襲い、派遣された司教に私だけが救われた」

「そして同じ道を選んだ、か」

「そんな個性的な生い立ちが無くても、私は神を信じる道を選んだでしょうけれどね。私の中の神は、そう望んでいましたから」


 何とも言葉もなく、シンジは椀の中身を覗き込んだ。


 批判的な客観視をするのなら、ネロの境遇は自身の評価の通りありふれている。

 魔学が発達し、医療魔術や薬品が進歩し、治療を専門とする魔術師が世界中に散見されるようになっても、或いは神の名の下に奇跡をもって治療に当たる教会が増えたとしても。

 病は絶えず、死は絶えない。

 ヒトが一定以上集まって出来る社会において、病気というものが根絶されることなど、絶対にないのだ。

 ましてや、集団が全て聖都のように近代的な文化を持っている訳ではない。未だに病を悪霊の仕業と断じ、煙と呪文で解決を図る地方は珍しくもないのである。

 全てのが無価値とは言わないが、彼らは全ての医療を無価値と言いがちだ。


 ネロの故郷は、果たしてどうだったのだろうか。


 教会が異端と呼び、魔術師が野蛮と呼ぶような原生宗教の支配下にあったのか。それとも、両者のいずれかに属してはいたのだろうか。

 いずれにしろ、死神は冷酷にその鎌を振り下ろしたようだった。

 人々は死に絶え。

 幼い少年のみが残された。


「……魔術師にとって」


 同情も、共感も、安易に切れる手札を持たないシンジでは、結局、ひどく無粋に知識を語るより他無かった。


「孤児はありがちな出自だ。魔術の才覚は、一般的には捨てられる原因となるからね」

「そうでしょうね。魔術師の卵、いえ、それ以下の者は概ね、私などから見て狂気に侵されているようにしか思えませんから」

「血統がものをいうのは、そういう意味では極めて狭い範囲の話だ。多くの魔術師は日夜、研究に注ぐのと同じような情熱を、才能の発掘へと向けている」

「思ったよりも、博愛主義者なのですか?」

「もちろん違うさ。魔術師は才能でなる職業だからね、常に自分より優れた才能を自分の道に取り込みたいんだ」

「そこだけ聞くのなら、一般的な職人の人生観にも似ていますね」

「一般的な職人が、そうだろうね」


 魔術師の目的は、過去の再現だ。

 魔術、いや、神秘華やかなりし古の世界。

 呪文どころか単語一つで世界を変革できた、神々の時代。

 現代をその段階まで引き戻すこと。詰まり、神秘を神秘として復権させることが、魔術師全ての思い描く悲願なのだ。

 それを一人きりで、たかだか七十年ほどの寿命で達成できると思うほど、彼らは夢想家ではない。

 跡継ぎが要る。それも、自分より優秀な。

 跡継ぎが要る。


 ――魔術師という生き物は、諦めの権化だ。彼らの目指す先、人生の目標として掲げる御旗は、理想である。

 理論的に届かない。資質、技術、到達するためのあらゆるものが足りていない。その夢への、手の伸ばし方が解らない。

 

 目指せば目指すほど、歩けば歩くほど、積み上げてきた過去の全てが、到達は不可能と叫んでしまう。


 世界を歪める才覚を持ち合わせたが故に。

 けして歪まぬ、世界の本質を求めてしまう。


 錬金術師よりも、実のところ遥かに矛盾だらけの生き物なのだ、魔術師という輩は。


「届かない、ということが逆に安心するのかもしれないな。絶対に、この時代の誰にも不可能な偉業なら、挑戦してもノーリスクだ」

「まるで信仰のようですね」

「君たちは、何処かに届くことを期待しているのか?」

「それは勿論、神の御下へ」

「いずれ行けるよ、生きている者は皆そこへ行く」

「行き方が問題です。門番のラッパに出迎えらるのか、彼らへの差し入れになるのかでは、大きく違うでしょう?」


 かもしれない。

 そうではないかもしれない。

 賓客か手土産かは結局、受けとる側次第だ――獅子の檻に入ったのが聖人でも泥棒でも、主が空腹だったら同じ目に遭うだろう。

 大事なのは、行き方でも生き方でもなく、行き先だ。


「さあ、熱い内にどうぞ教授。冷めると固くなりますから」

「あぁ、少し待ってくれ。ルカリオの様子を見てくる」


 もし起きられるようなら、なにか食べた方が良いだろう。

 ネロも、大きく頷いた。


「それは良いですね。具合が悪いときは、とにかく沢山食べるに限ります」

「それで治るのは羨ましいな」


 何となく、簡単な病気どころか骨折などでさえ、ネロなら気合いで治しそうだ――異端審問官ならば勿論、治療用の秘績くらいは覚えがあるのだろうが。

 病は気から、という言葉を悪い方に使いそうなイメージがある。健全な肉体にこそ健全な魂は宿るのですから健全な魂の下には健全な肉体しかあり得ません、とか。


 少なくとも、理系の印象はない。


「……ルカリオ、起きているかな?」

 控えめな、声とノック。「夕食がある、良ければ……」


 ドサドサドサ、という音が返ってきた。

 それに、微かな呻き声も。


「ルカリオ?! どうした、ルカリオ! くそ、開かない!」

「退いてください、教授!」


 半歩避けると、素早く近付いてきたネロが高く足を上げていた。

 そのまま、前蹴りが炸裂した。細かい彫刻が施された上品な扉が、蝶番ごと部屋の中へ倒れ込む。

 それを踏み付けながらネロが入り、シンジも直ぐにあとに続く。


 脳内には、最悪の想像が渦巻いていた。

 血の海に沈んでいたオズマン氏の巨体が浮かぶ。背中にナイフを突き立てられたウルカ氏がバトンタッチし、そして最後に、ベッドに倒れたルカリオの真っ白な肌を幻視した。

 想像の中で、光を失った瞳が、シンジを見つめ返す。


 犯人が既に去ったと、何故思った。

 一晩に一人しか狙わないと、どうして信じていた。

 絶望の予感が荒れ狂う。

 自分の迂闊さを呪いながら、シンジはネロと勢い良く部屋へと駆け込んだ。


「ルカリオ……?」


 飛び込んだ、先では。


「きょ、教授ー! 崩れてきちゃって……助けてくださーい!!」


 大量の古書に押し潰されてバタバタと手足を動かすルカリオの、間の抜けた声が響いていた。

 その様子は、まるで。


「……虫みたいですね」

「言うな」


 僕もそう思うけど、という感想を飲み込んで、シンジは彼女を助け出すべく山に近付いた。

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