第42話三日目、夜ー6
ウルカ・トゥシウムはどうやら、珈琲派ではなかったらしい。
紅茶の香りの出迎えを蹴散らすように、シンジは伏すウルカ氏の遺体に近付いた。
「教授。ルカリオ嬢は?」
「ベッドルームに寝かしてきたよ。鍵も掛けたから、一先ずは安全だろう」
「一人きりでは危険では? 鍵一つくらい、こそ泥だってこじ開けてしまいます」
「大丈夫だ、僕も鍵を掛けた」
世界的な嫌われ者、魔術師の防犯を甘く見られては困る。正当な手順で開けない場合、多少焦げ付くことになるだろう。
「……先程の言葉は、どういう意味だ」
何か言いたそうなネロを制するように、遺体の側でスフレ司教が立ち上がった。「逆、と言っていたな」
「言葉通りの意味ですよ、犯人は別に、散らかったことを誤魔化したかった訳じゃありません。寧ろその正反対を狙っていたのでしょう」
「錬金術師に鞍替えでもしたのかね、教授殿?」
イカロス氏が端正な眉を寄せる。「我が同胞のような、不可思議な言葉にも思えるが?」
「そんなことはありませんよ、ひどく単純な話です。犯人は、現場が荒れていないことを誤魔化そうとしたのです」
シンジの言葉に一同は不思議そうに首を捻った――いや、唯一ネロだけは、いつもの笑顔を浮かべている。
付き合いも長いためだろうか、それとも元から優秀なのか、どうやらネロも閃いたらしい。
とはいえ、言い出したのは自分なのだから解説する義務も自分にあるだろう。シンジは頷き、話を続ける。
「オズマン氏の遺体は、酷く傷つけられていました」
エングレオ氏が顔をしかめた。シンジは慎重に、言葉を選ぶ。「クォーツ夫婦の遺体も、良い状態とは言えません」
「それも当然だろう……オズマンは、拷問を受けたのだろう? 傷が無い訳があるまい」
「当然現場も滅茶苦茶でした。こんな、紅茶の香りを味わう余裕などありませんでした」
「ウルカは背中から一突きにされている。犯人はその特性を活かし、彼女を油断させたのだろうな。凶器を抜くときに多少の出血はあったかもしれないが、血の海にはならなかった筈だ」
「自然、机の上も散らかりようがない。それだけのことではないのかね?」
「いいえ」
シンジは首を振った。
ウルカ・トゥシウムが何を研究していたのかは知らないが、この香りを嗅げば解る。
「彼女は確かに油断した。犯人は変装……いえ、変身できるのですからね、部屋にあげて背中を見せるのもあり得る話です」
「なら……」
「だったら彼女は、紅茶くらい淹れるのではないですか?」
顔色を変えた錬金術師たちを尻目に、シンジはウルカ氏の遺体をざっと調べた。
簡単な調査で、答えは手に入った。本格的な調査は、後日教会が行うだろうし。
「……貴殿の言う通りであろうな、教授。ウルカは来客には、相手が例え拒否しようとも紅茶を出していた」
「カップに使用の痕跡は無い、湯を沸かした痕跡もな。ということは……犯人が片付けたのか。そしてそれを隠すために、机の上を整理したというわけか」
「そうではないと、教授は仰いましたよね?」
ネロが首を傾げる。「だとすると、どうだというのですか?」
さっきあれだけ訳知り顔していたのに解ってなかったのか、とシンジは呆れながらネロを睨んだ。
ネロはキョトンとしている。響いた様子はない。
「……オズマン氏の時には、犯人には幾つかの目的がありました。内蔵を奪うこと、そして情報を聞き出すことです。自分の目的のために何が必要か、それを知らなくてはならなかった。だが――今回は、その必要は無かった」
「情報を得た後だから、荒らす必要がなかった?」
そうだと、シンジは頷いた。
そして、それを残った錬金術師たちには知られたくなかったのだ。
「秘密を知られたと解れば、対策されてしまう。鍵を隠されてしまう」
「鍵だと?」
スフレ司教が唸り、イカロス氏とエングレオ氏を睨み付けた。
イカロス氏は流石の無反応だったが――細身の老錬金術師は、彼ほど豪胆では居られなかったようだ。
「……やはり、そうですか」
咄嗟に胸元を押さえたエングレオ氏を冷ややかに見ながら、シンジは頷いた。
脳裏に甦るのは、オズマン氏を悼む彼ら三人の手元。そして、ルカリオが自慢げに見せてくれた父親の遺品。
かつて商会を率いた五人が共通して持つ、とあるもの。
「その秩序十字が、【啓蒙の光】を使うための鍵なんですね?」
沈黙は、同意と一緒だった。
イカロス氏の無機質な顔の、凪いだ水面のように穏やかだった瞳には、沈痛な波が押しては引き、寄せては返している。
「……だとすると、教授。事態は思ったよりも不味いのでは?」
「君がどの程度の事態だと思っていたのかにも依るだろうが、そうだな。僕が思うよりは少なくとも悪い状況だよ」
何しろ、とシンジはため息を吐いた。
犯人は財宝の地図の読み方を知り、怪しげな儀式に必要な道具を知った。それを隠そうとする知恵もある。
対してこちらは、地図に記された財宝が何なのかさえ未だ知らないのだから。
「……それにしては、ネロ。君はずいぶんと嬉しそうだが」
「え?」
シンジが指摘すると、ネロは驚いたように自らの頬を撫でた。
それから、観念したように弱々しく笑う。
「教授が考えているよりは、悪くない展開かもしれないと思いまして」
「ずいぶんと挑戦的だが」
「そんなつもりはありませんが……しかし何しろ教授のお陰です」
「僕の?」
シンジは首を傾げた。「僕が何かしたかな?」
「犯人の狙いを看破したではありませんか!」
ネロは拍手喝采でもしそうな勢いで言う。「犯人は隠したかった、貴方は見抜いた。どちらが有利かは悩むまでもありません」
そういうことか。
シンジは肩を落とした。それから、助けを求めるように視線をスフレ司教、イカロス氏、そしてエングレオ氏へと順繰りに向ける。
彼らの出迎えは同じだ。無知なる者、無垢なる希望への後ろめたさを添えた、優しい拒絶。
解ってはいたが。
やはりそうなるか。
「犯人は、彼自身が鍵の存在に気付いたことを知られたくなかった。何故なら、気付いたことに気付かれたら、鍵を隠せるからです。教会が預かり異端審問官で警備を固めれば、犯人には打つ手が……あれ?」
一同の沈黙にようやく不吉さを感じ取ったのか、ネロは目を丸くした。
「……どうしたのでしょう、教授。私は何か、間違ったことを言いましたか?」
「……そうだな、間違ってない。間違ってはいないんだ、ネロ。君の言う通りにするのが最適にして最善の方法だ、だが」
「そう、『だが』、だ教授。君は精神世界に籠る魔術師にしては、驚くほど我々俗世界に精通しているようだ」
イカロス氏の称賛は、別れる恋人が投げる
イカロス氏はその場の、純朴な異端審問官以外には当たり前に解りきったことを、ネロの期待を打ち砕くためだけに宣言した。
「鍵は渡せん。分けても、異端審問官などにはな」
「……まあ、そうなるだろうな」
「何故ですか!」
スフレ司教は頷いた。納得できる訳ではないだろうが、理解はできるといった態度だった。
理解も納得もできなかったネロは、酷く驚いた声を上げた。
「犯人は狙いを明らかにしたくなかった。それは詰まり、今後も狙うからです、鍵、貴殿方のロザリオを。逆にそれさえ確保していれば、護るのも容易くなる。犯人を捕らえることだって……」
「……だから犯人は異端審問官に化けたんだ」
あ、とネロの口から理解が溢れた。それから、諦めに近い納得も。
「異端審問官の強みは、対魔術戦闘技術ともう一つ、人海戦術だ。神という一つの思想の下で統率された集団というのは、歴戦の軍隊にも似てそれだけで脅威となる。だが……」
「今回の場合、それが正に仇となる」
スフレ司教が苦々しげに後を引き取った。「姿形を変えられる犯人は、一度だけだが我々の中に見事に入り込んだ。その一度だけで、我々の集団はその強みを失ってしまう」
「箱の中に林檎が詰まっている。その内一つが腐っていたとしたら、残りがそうでない保証は誰にも出来ない。信用が出来なくなるのだ、聖都の司教よ。集団を治め、互いを結ぶ唯一の鎖が、たった今砕けた。最早彼らは、その誰が敵なのかさえ判別できない」
そんな林檎を、商売人は買うわけにはいかない。一つ一つ確かめて、詰め直さなくてはならない。
だが。
ヒトの腐敗を、どう見分ければ良いというのだろうか?
「悪く思うな、異端審問官、それに慧眼なる魔術師よ。我々は、最早誰にも頼れない」
イカロス氏の淡々とした言葉。
強い拒絶に対する反論を誰も持てぬまま、夜は静かに更けていった。
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