第39話三日目、夜ー3

「宿舎へは、この先から向かう」


 イカロス氏の案内に従って、シンジたちは【賢者の石】の背後に回り込んだ。


 床に開いた穴を見下ろして、シンジは頷いた。「地下か」

「地下に宿舎が? それはいささか、閉塞的な気分になりそうですが」

「太陽がどうしてあれだけ輝くと思う? 地下に沈み、英気を養うからである」

「では、墓場はもっと騒がしくなるでしょうね」


 ネロの皮肉に、細身の錬金術師、エングレオと名乗っていたか、彼が嫌そうに顔をしかめた。


「別に宿舎が地下にある訳じゃない。行くために、地下を通る必要があるというだけだ」

「……何故わざわざ、そんな仕組みに?」

 金属製の螺旋階段を降りながら、シンジは首を傾げた。「地上にあるのなら、地上から行く方が楽なのでは?」

「それは、人によるだろうな」

 エングレオ氏は、ネロの時より更に嫌そうにシンジを見た。「正確には、人よる」

「君はこう問うべきであったな、教授。『地下に何があるのか』とな」


 さして長くもない階段だった。

 先頭を行くイカロス氏はあっさりと階段を下り終えると、誇るように両手を広げた。


「ようこそ、諸君。【暗き学舎ドーンフィールド】へ」









 階段を降りた先は、一本の廊下の端だった。

 ミド・レイライン大学でも見た、あの素材の解らない不思議な床がどこまでも遠く、真っ直ぐ伸びている。


 天井に明かりは無い。

 それでも暗いわけではなく、先を見通すのに必要な明るさはしっかり確保されている。

 廊下を挟む左右の壁が、うっすらと光を放っているのだ。


 ここが一体何なのか、イカロス氏は説明するつもりがないらしい。

 さっさと歩き始めてしまった銀髪の老人を追って、シンジもゆっくりと、廊下に足を踏み入れた。


 瞬間、息を呑んだ。


 壁が光っているのではなかった――壁の向こうから、光が漏れているだけだった。

 壁は一面が、透明なガラスだった。それを通して、向こう側の明かりが廊下にまで届いているのだ。

 漏れているのは光と、そして影法師。そう、ガラスの壁の向こうには、数人の人間がいた。皆忙しそうに動きながら、影絵を廊下に描いている。


 感嘆を充分に込めて、シンジは呟いた。「商館の地下は、開発のためのエリアなんですね」

「容赦の無い意見だが、その通りだ。現在二百名ほどの錬金術師が我らが商会に在籍しているが、彼らの大半は、日夜ここで研究と開発に勤しんでいる」

「階段には、まだ先がありましたね」

「地下は三階まである。そのどれもが研究施設であり、地下に行けば行くほど、その内容は実験的になっているのだ」

「詰まり、危険ということか」

 スフレ司教が鼻を鳴らした。「そうだろう? だから、埋めやすいところでやってる」

「……研究に、事故は付き物だ。赤子の側で硫黄ガスの分離実験を行う愚者は居るまい、誰だって、適切な場所を選ぶものだろう」

「私ならば、その実験を行うだろうな、司教」

「……通りで、彼らは平和そうに見えます」


 いがみ合う錬金術師と自分の同胞を薄情にも捨て置いて、ネロがポツリと呟いた。いつの間にかシンジを追い越して、彼はガラスを覗き込んでいる。

 ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべたネロが片手を挙げると、ガラスの向こうの青年はキョトンと目を丸くしたあと、同じように微笑んで片手を挙げた。

 さよなら、と手を振るネロに青年もバイバイを返し、部屋に居た二人の青年に笑われながら作業に戻っていく。


「研究開発は、術師と自らを呼ぶ者にとってはとても大切な習慣でしょう? それにしては、随分と呑気に思えますが」

「お察しの通りだ」

 エングレオ氏が苦虫を噛み潰したような顔でガラスを叩いた。室内で青年たちがぎょっとするのを見ながら、彼はため息を吐く。「この階層はまだまだ。己の研究に対して、良くも悪くも無頓着だ」


 確かに、とシンジも頷いた。


 魔術師も似たようなところがある。

 ノックもせずにドアを開け「やあ、コーヒーでもどうだい?」などと言って許されるのは、学生の私室だけだ。室長レベル以降の魔術師の部屋でそれをやったら、返ってくるのは怒りを物質化した魔弾である。

 それも、私室の場合だ。研究室でそれをやった場合、ノックした手の安否は保証されない。


「まるで混沌のスープだな、まぁ、どの組織でも若者はそんなものだろうが」

「確かに」

「……僕を見て、何かご意見でもおありですか、お二人とも?」


 スフレ司教とシンジは首を振った。

 大切なのは、時と場合だ。


「彼らは、互いの研究が互いの目に触れることを厭わない。盗用されるという心配もしていないし、それどころか、率先して共有しているくらいだ」

「嘆かわしい」エングレオ氏が首を振る。

「そうですか?」ネロが首を傾げた。

「それはそうだろう! 研究とは人生だ、錬金術師が生きてきた数少ない証だ。人生の多くを、何もかもを擲って、自らの神へとひたすらに書き連ねた讃美歌だよ! それを横取りされて、気分の良い者が居るか?」


 エングレオ氏の激昂を、シンジは無視できない他人事のように聞いた。

 シンジは魔術師だ。そして魔術師とは、研究者である。研究を切り売りする馬鹿も勿論居るが、多くの場合、自分達彼らは人生を懸けて一冊の本を書き上げるものだ。

 その成果の内、読めるレベルだったものが、魔導書グリモワールと呼ばれるのだ。


 自分の書き掛けを他人が盗み見て、同じ文章を書いたなら。

 気恥ずかしさの他に果たして何を感じるのか、自信はなかった。


 ネロは。

 古い研究者の激昂を、純粋に不思議そうに眺めた。


?」

「…………なに?」

「あなた方は、研究を第一に考えているのだと思っていました。自分の研究が完成するのが第一で、そのためなら何でもするものかと――文字通り、

 ネロは微笑んだ。「他人と見せ合うことくらい、気にしないのでは?」


 エングレオ氏が、いや、シンジも、イカロス氏さえもが絶句した。

 言われてみればその通りだし、それこそまさに合理性の極みだ。

 完成だけを、完結だけを目指すのならば。

 他人の手や目を厭う理由は、何処にもない。


「加えて言うのならば。讃美歌は一人で歌うものではありませんよ」


 呆然とする三人を追い越して、ネロは颯爽と奥へと進んでいく。


「……混沌だな」

「確かに」

「だが。全ては混沌から始まるのかもしれんな」


 イカロス氏はそう、彼にしては珍しく、短い言葉で呟いた。

 若い研究室を眺める彼の目付きが先程とは違っているように、シンジには見えた。









「…………宿舎は、この階段を上った先だ」

「ようやくか……」


 エングレオ氏の言葉に、シンジは思わず弱々しく呟いた。

 背中の、平時であれば幸運に思えるような柔らかい荷物は、長い道行きのせいで単純な重荷に変わっていた。


「女性を背負うのが男の役目ですよ、教授」

「それは人生とか、何かそういう精神的な話だ」


 それに、魔術師より魔女の方が強い。


 とはいえ、他の誰かに背負わせるつもりはないが。

 ネロもそれが解っているのだろう。代わりを申し出ないのは、彼なりの優しさだと、シンジは認識している。

 疑ったり、気を使ったり。

 するのは面倒で、大変だ。


「…………先に部屋へ向かうかね? ルカリオを下ろした方が良いだろう?」

「……いいえ」


 スフレ司教の提案を、シンジはだから断った。今彼女を一人にしておくことも、にしておくことも出来ない。

 事情を知らないスフレ司教は首を傾げ、イカロス氏は、頷いた。


「どうやら、君は犯人を知ったようだな」

「……異端審問官を追い出したということは、そちらも?」

「どういうことだ、教授! 犯人を見たのか? なら何故、報告しない!」

「事情があると言ったろう、愚者め」

「なんだと!?」

「落ち着いてください、二人とも! ……僕らが知ったことは、犯人は姿を変えられるということです」

「なに?」

「……こちらは、若者の研究に対する無責任さが功を奏した。騒ぎのある前に一人の異端審問官が通路を通り、帰りには、違う顔の異端審問官が通ったのを、多くの者が目撃したのだ」

「混乱を避けるためには、事情を言うことはできませんでした。少なくとも、大勢の前では」


 仲間の中に犯人が混じり込んでいるという情報は、組織においては大っぴらにはできない。混乱を招くだけだ。


「これからは、誰も信用できん。もしも目を離したら、次にあったとき同じ人物であるかどうか、保証できないというわけだ」

「厄介な……」

「今更だ、スフレ」

 イカロス氏が、首を振った。「既に二人が死んでいるんだぞ」

「不適切な言い方かもしれませんが、二人で終わらせましょう、皆さん。それに、教授」

 ネロは力強く頷くと、それから、微笑みながらシンジを見た。「……もう暫く、我慢してくださいね?」

「……善処しよう」


 シンジはため息を吐いた。


 その背で、ルカリオが小さく身じろぎしたことに、誰も気が付かなかった。

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