第37話三日目、夜ー1
大きく息を吸い、吐き出す。
ヒトが陸に上がり、獲得した最も古い機能がこれほど有り難いものだとは、シンジは今まで考えたことがなかった。
砂漠を飲まず食わずでさ迷った末に見付けたオアシスの、誰が何を洗ったか解らないような水でさえ、四十年物のワインより旨く感じられるように。
遠慮もなく使い捨てられる空気の、何と旨いことか。
全く、ネロ様様だ。
いつものように心の声に従ったのだろうが、今回ばかりは彼の神に感謝の祈りを捧げるのもやぶさかでないくらいだ――少なくとも、吹っ飛ばされたドアの行く末に関して、目をつむるくらいには。
「……こちらのお嬢さんも無事のようです、教授」
ルカリオの脈を調べていたネロが、立ち上がりながら言う。「間に合ったようで、何より、と言いたいところですが」
「何だ?」
「私は犯人と出会いました」
「ほう」
「ドアを開けようとする犯人と、です」
「…………」
「周到な犯人であると評したのは貴方です、教授。その犯人が、自らが仕掛けた罠を解除しようとしていたということは、詰まりそういうことでしょう。教授、あなた方の死を確信したからです。しかし、貴方は生きている。いったい、どんな魔術を?」
「種明かしは、好みじゃないんだがね」
一度種を明かした
一流の道化は同じ芸を二度しないと言うが、魔術師は同じ魔術を何度も使う。種を明かしては、破られる危険性が高まるのだ。
「まあ良いか、君は、
「あんちまぎ?」
「魔術破り専門の魔術師さ、他人の魔術を観察して分析し、読み解いて破壊する。さて、勿体振るような話でもないから手早く済ませるが……この密室で生き残るためには、空気が必要だ。空気を得るためには、ファンを回す必要がある訳だが、僕の魔術は知っているね」
「金属を操る、でしたね。しかし……」
「そう、しかし。ファンは金属じゃない」
ドアも違うし、本棚も違った。
錬金術師は、金属を目の敵にでもしているのだろうか。降霊学を学ぶ学生たちは、青銅を目の敵にしているが……彼らと同じく合金だと要素が混じって駄目なのかもしれない。
とにかく、シンジの魔術の対象になるような金属は、書庫には全く無かった。銀を溶かしたインクと、それを入れる万年筆、それから愛用の懐中時計といった、シンジ自身の持ち物だけだ。
「それでは、どうやって?」
ネロが首を傾げる。「壁に穴を開けたわけでもないのでしょう?」
「それをやっても、流れ込むのは土だけだけどな。……簡単だよ、ネロ。ファンは確かに動力から停止していたが――固定された訳じゃない」
そう。
ファン自体は動かないわけではない、単に、動かす力が失われただけだ――それが魔術か神の奇跡か、或いは、そうとしか思えないような錬金術師の最新技術だとしても。
もっと原始的な手段で、動かすことは可能なのだ。
「インクを伸ばし、ファンに絡ませて回転させた。魔術で操作すれば、一定のリズムと速度を維持できるからね」
「…………」
期待はずれだ、と言いたげなネロの顔に、シンジは肩を竦めた。
魔術なんて、そんなものだ。種を明かせば何だそんなことかと誰もが頷く。そうして、思い付かなかった自分を忘れていくのだ。
「そんなことより、ネロ。君はさっき、衝撃的なことを言っていなかったか? 確か、犯人がどうとか……」
「あぁ、そうでした」
今思い出した、と言うように、ネロがポン、と掌を打ち鳴らした。「ついさっき、そこで出会ったのですよ、軽く痛め付けておきました」
「捕まえたのか!? 僕の話なんかより、よほどの話じゃないか!」
「えぇ、まぁ……」
「……?」
一連の騒動は、どう見ても加速の一途を辿っていた。事態は谷底へ谷底へと転がっていき、好転することだけはけしてない。
犯人を捕らえたのなら、いや、この際、犯人とおぼしき程度の容疑者だって構わない。疑われるほどの人物さえ捜査本部は掴んでいないのだから、どんな相手でも大金星だ。
「……君が犯人だと思う程度には疑わしい人物と遭遇し、行動不能にして捕らえた、そうだろう?」
漸く見えた、光明の種のような取っ掛かり。
それを手の内に入れたにしては、やけに歯切れの悪すぎるネロの態度に、シンジの脳内に警戒の笛が前奏を奏で始める。
「ドアを開けるところを見ていたのなら、背後からの不意打ちだったわけだ。気絶させ、抵抗させないようにするだけの余裕があった……そうだろ?」
「えぇ、そうですね。背後から、詰まりは圧倒的優位な状況ではありました。
しかし教授、シンジ・カルヴァトス教授。良く考えていただきたい――この状況から予想されるにしては、事態がそこまで猶予たっぷりだと思えるでしょうか?
閉ざされたドア、その向こうには窒息が予想される我が友人。その時脳裏を占めるのは、例え私が敬虔な神の従僕でないとしてもただ一つ。一刻も早くドアを明け、失われつつある生命の灯火を救うことだけです」
「……犯人を、君は、倒したんだろう? 当然、その後には、拘束する手順が待っている筈だ。君は犯人を殴り飛ばした。それで? 動けないように縛り上げるくらいはしたんだろう?」
「私は犯人の善意を信じたのです、教授」
「その賭け金がどうなったか、見に行く必要があるな」
やはりというべきか、何と言うか。
良き事と悪しき事は縄のように絡み合っているものらしい――生き延びたという幸運の次に顔を見せたのは、その真逆の不運だった。
ネロが案内してくれたドアの向こうには、誰の姿も見当たらなかった。
「……たいした手際だよ、ネロ。まさか、一人殺し、二人分の遺体を持ち出し、更にもう二人殺そうとした犯人を、まさか首輪も付けずに置いておくとはね」
「面目次第もありません、教授……」
すっかり意気消沈したネロに、シンジはため息を吐いた。
気にするな、と言ってやりたいところだが、それにしては少しばかり出目が悪すぎる。今後のことを考えれば、ここで犯人を逃したのは非常に惜しかった。
今回の件ではっきりしたことは二つ――犯人は確かに存在しているということ。そしてもう一つ、最悪の事実。
「犯人は、目標以外の殺害も辞さないらしい」
背中におぶったルカリオの、柔らかく暖かい肢体を意識しながら言う。
今回の犯人の、目標はルカリオということで間違いない。
そして、犯人はシンジの存在も知っていたはずだ――でなければ、ドアを封鎖した後で結界なんて面倒な処置をするわけがない。
刻まれていた刻印は、美しいが簡易なものだった。ターゲットに同行する魔術師の姿を見て、土壇場で付け加えたに違いない。
「目的は、やはりそちらの少女ですか」
先行し、警戒しながら階段を上るネロがちらり、振り返る。
性能的にはネロがルカリオを背負うべきだろうが、もし犯人がその辺に潜んでいるとしたら、最も対応力のあるネロに荷物を持たせるのは危険だ。物陰から突撃してくる暴漢に対して、魔方陣を編み上げるより殴る方が遥かに早いのである。
「……まず間違いない」
シンジは、ルカリオの身の上とそれから、彼女の持つ
あの四人、少なくとも会議場にいた三人は、それぞれ色違いの同じ物を持っていた。
「彼らと、ルカリオの父親との間には何か、関係性がある。僕らは知らない、彼らだけが知っている、何らかの共通項がね」
「しかし犯人は知っていました」
「……その通りだ」
脅迫文に書かれた、五つの光という表現。
それが示しているのが例の五人であることは明白だ。
犯人の中では、過去の五人と、現在の四人と一人とはイクォールで結ばれている。ルカリオ・ファビウムを殺そうとするくらいには、確かな線で。
「いずれにせよ、教授。事件の解決は近いですよ」
「ほう?」
先程とは打って変わった明るい声に、シンジは首を傾げる。「それはまた、どういう見解かな?」
「それこそ簡単です。先程、私は犯人を見た、と言ったでしょう?」
「あぁ。……僕も見られたら、最高だったんだがね?」
「彼の外見は、その、かなり独特なものでした。体毛という体毛を剃り落とした、焼き払われた田畑のような不毛の地に、異教めいた入れ墨が縦横無尽。古くさいコートのことも加味すれば、直ぐに見付かるでしょう」
なるほど、そういう話か。
期待していた分、落胆は大きい。とはいえ、ネロを問い詰めるほどのことでもない。
多くの場合と同じ。
誰でも、亀より兎の方が早いと思うものだ――そして、そちらに賭けようと。
……亀が何を持っているか、それを考えもしないのだ。
「……見付からないですって?!」
ネロの大声を、シンジはため息交じりの諦念と共に聞いていた。
あいつにしては珍しいな。その程度の思いしか、シンジの心には浮かんでいなかった。
純粋に驚きながら、肩を落とす二人の見張り役に同情しながら、シンジはそれでも、あぁやっぱりという思いを覆すことが出来なかった。
予測できた結末だ。シンジはそっと、ルカリオを下ろす。
大分呼吸は安定してきたようだ。ひとまず安心、というわけだ、こちらは。
「そんな馬鹿な。あれだけの目立つ相手です、見逃す筈がない! きちんと見張っていたのなら、間違いなく見付けている筈です」
「そ、それが、その……勿論私たちも、見張ってはいたんですが……」
「だったら!」
「だとしてもだよ、ネロ」
流石に、真面目に勤務へと励んでいたのに都会のエリートに突然叱責を受ける若手、という図を見るに見かねて、シンジは口を挟む。
「君たち、僕ら――いや、ネロが校内に入ったあと、ここを出ていった者は?」
「な、何人かいました」
「学生か?」
「はい、普通の学生らしい、若者が何人か……でも! エリクィン司教が仰る、不審な人影は誰も……!」
「……不調な人物は?」
え、と虚を突かれたような顔をする二人、それとネロ。
シンジはやれやれと、肩を竦めた。
「……先の事件でも、調書にあった。犯人は、入れ墨を全身に入れながら、その後人目につかず消え失せた、と。
だとすると、犯人は、自らのユニークな見た目をカバーする手段が何か、ある筈だ」
「変装、ですか?」
「或いは、それ以上の手段だ」
誰かの皮膚をなめし、作り上げた護符を身に付けていると、その人物そっくりに変身できるという、いささか呪術寄りの魔術だ。
そこまでいかなくても、『皮を被る』という概念を利用すれば、見た目を弄る程度は魔術ならば簡単である。
豚化の杖、蛙薬、魔法薬……【マレフィセント】では、変身はファッションでさえあるのだ。
「犯人は、魔術の知識がある。だとすると、見た目は簡単に変えられるだろう……だが、そこの馬鹿力に蹴り飛ばされたダメージだけは誤魔化せない。
どうだ、変によろけていたり、足を引きずったりしている者は居なかったか?」
「あ、い、居ました!! よろよろと、まるで酔っ払っているような奴が一人……」
「居たのですか! 何故そこで止めなかったのです」
「そ、それはその……」
……若い見張りの言葉に、シンジとネロは揃って息を呑んだ。
予想通り、予測範囲内と思えた悪夢はしかし、二人の想像の遥か彼方を進んでいたのだ。
犯人の思惑は、善良な二人の思い付くより遥かに深く、邪悪であった。
「そいつは、異端審問官の服装をしてたんです!!」
「…………?」
響いたノックの音に、ウルカ・トゥシウムは顔を上げた。
決裁すべき書類の束は、漸く半分といったところだ。商会の主導者一人の欠員は、こうして無粋なやり方で可視化されている。
オズマンの権限は、対外的な分野の多岐にわたっていた――錬金術師としてはさほどでもない腕前だったが、組織運営には欠かせない人材だったわけだ。
そして、友人としても。
「……はい、今出ますわ」
響くノックの音が、ウルカを感傷から掬い上げた。現実はいつだって、ヒトを悲しみの湖で揺蕩わせてはくれない。
開けようとしたドアを、ウルカはふと手放し、備え付けた覗き穴を覗き込んだ。
嫌な予感が、イカロスが女の勘と呼んで馬鹿にする非合理な予想が、ウルカに不安を与えたのだ。
あり得ない、とは思う。犯人がこんな、商会の建物の奥にある自室にまで潜入できるわけがない。
そしてやはり、ウルカはホッと胸を撫で下ろした。やっぱりだ、そんなわけがないじゃないか。
ウルカは躊躇いもなくドアを開けると、何なら酷く社交的な笑みさえ浮かべて、彼を迎え入れた。
「どうかしまして、お若い異端審問官殿?」
歓迎に応じるように微笑みながら。
ピーター少年は、ウルカ・トゥシウムの自室へと踏み込んでいった。
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