第36話三日目、昼ー11
時計で時間を確認しながら、男は良しとばかりに一つ、頷いた。
古ぼけた茶色いガウンのボロボロの裾が、かさりと乾いた音を立てる。年代物で目立つ代物だが、問題はない。
寧ろ気に入っている――それが重要だと、男は思った。
危険な作業に必要なのは、高級な道具でも上質な素材でもなく、使い慣れた相棒だ。例えば、身に付けるだけで落ち着くような、古いガウン。
人目を惹く対策も、既にしてある。それに例え何を着ていても、自分は目立ってしまうだろう。
男の肌は、その全土を不気味な
ガウンの下、足の指から剃り上げた頭頂部に至るまで、濃い青色のインクが展覧会を開いているのだ。
霊鳥の羽根、ジャガーの牙、黒山羊の角……顔面を眺めるだけでも、象徴学に詳しい人物なら感嘆の息を溢すだろう。今は失われた古代文明の、遺跡の柱に見られる程度には貴重な模様さえ、男の肉体には刻まれているのだ。
男は自らの全身を芸術として高く評価していたが、同時に、優れた芸術でも無理解の前に打ち砕かれることも、冷静に把握していた。
真の美は、隠されなければならない。頭部を砕かれた女神像のように。
ガウンのフードを目深に被り直し、男はドアに手を掲げた。
これだけ時間が過ぎたなら、まず間違いないだろう。五人の一人、ルカリオ・ファビウムは酸素不足で死亡した筈だ。
ついでに、一緒にいた男も。
「…………」
無関係の犠牲に、刺青男は一瞬その目を閉じた。祈るように、或いは悔やむように、か。
とはいえ、仕方の無いことだ。
彼の調べた限り、あの男、魔術師は、事件のことに随分と首を突っ込んでいる。魔術師らしい自惚れだろう、遺体に施した魔術をみて、自分の知識を試したくなったのだ。
愚かなことだ。蛇の巣穴に手を突っ込めば、噛み付かれるのは当たり前だというのに。
結果として魔術師は、標的と共に死ぬ運命となった。
それも正しくは、標的の娘とだ。親の罪という謂れの無い巻き添えの、更に巻き添えとなった形である。
憐れには思う、哀しくもある。だが、仕方がない。それこそが、親の無念を背負った自分の宿命だ。
せめて苦しまずに、とも思うが、窒息ではそれも望めはしまい。彼らは時間一杯苦しみ、恨みながら死んでいったことだろう。
同じように死んだオズマンのように。
彼と違うのは、恨む相手が目の前にいないこと、そして、本人に罪の自覚がないことだ。その、たった二つの違いだけで、彼女たちの苦しみは数十倍にもなっただろう。
悔やみはしない。しかし、彼女たちの恨み言だけは、例え自分が地獄に落ちても聞き届けねばなるまい。
男はかざした手をゆっくりと這わせ、ドアに刻んだ幾何学模様をなぞる。三つの円と蛇の頭が絡み合った魔方陣は、撫でられて喜ぶ子犬のように淡く発光した。
結界化の基点だ、これがある限り、いかなる手段を用いてもドアは開かない。
計算された美しい模様を男はうっとりと撫でて、それから、あらかじめ決められた解除の呪文を唱える。
じゃあな、可愛い子。
魔方陣は光を失い、力を失う。
地下書庫を封鎖してから、十五分が過ぎた。人間も魔術師も、平等に死ぬくらいの時間だ。
男はドアの取っ手に手を掛け、
「……動かないで下さい」
背後からの声に、ぴたり、とその動きを止めた。
「……誰だ」
「こちらの台詞ですね」
幼さを感じるやや高い声は、しかし圧倒的な威圧感を含んでいた。
怒り狂う
冷や汗が一滴、男の頬を撫でていく。戦闘となれば確実に敗北する、そんな予感が脳裏を支配していた。
不味い、と男は正直に思った。
このレベルの相手とぶつかるには、準備が足りない。しっかりと仕込みをして、漸く五分の勝負が出来るような相手だ。
とにかく、時間を稼がなくては。
「い、いやその、別に怪しい者では……こんな見た目じゃあ、説得力はないでしょうがね」
「そんなことはありませんよ」
「これはこれは、寛大なお方だ!」
してやったり、と男は邪悪に微笑んだ。
外見に関する自虐は、相手の思考を狭める最高の鉄格子だ。見た目で相手を判断してはいけない、という教訓を思い出させることで、格子越しにこちらを眺める真っ当な方々を自己否定と自虐の渦に放り込むことが出来る。
檻に閉じ込められた物珍しい動物でもみるような視線は、鏡に跳ね返るように彼ら自身を囚人へと変えてしまうのだ。
あとは、こちらの時間だ。
男はいかにも降伏するように両手を挙げ、ゆっくりと振り返ろうとし。
「寛大でも、悠長でもありませんよ」
トン、と軽い音が背後から聞こえ。
「私は、この身の内から沸き上がる、神の声に従うのみです。……あぁ、ところで」
穏やかな固い声が、触れるような真後ろから聞こえ。
「動くなと言った筈ですが」
振り返った視界一杯に、ブーツの底が迫っているのが見え。
頭が吹き飛ぶような衝撃と共に、男の意識は暗転した。
「ふう」
跳び蹴りで不審な男を気絶させ、ネロは乱れた神父服の裾を直した。
膝を折り、倒れ伏した男のフードを取り去るとそこには、髪の毛はおろか眉毛さえ剃られた異様な顔。その病的なまでに青白い肌には、一面不気味な紋様が描かれている。
調書の証言とも、一致する。
この男が一連の事件の犯人と見て、まず間違いないだろう。
「……神の声は、やはり正しかったようですね」
男にとって、そして、戦いに知恵を用いるあらゆる者にとって、ネロ・エリクィンが鬼札となるのは、それが所以である。
戦闘中非戦闘中を問わず、ネロは自らの心に聞こえる神の声にのみ従う。それが本当に神のものなのか、それともネロが培ってきた戦闘経験の積み重ねから導き出される直感なのか、それは本人にさえ解らないことではあるが――いずれにしろ、それは正しくネロを導く。
言葉で惑わし、時間を稼ぐ。そんなことは不可能なのだ、神の使徒として、ネロは誰よりも頑なで在るが故に。
首筋に、指を当てる。
病人にも見える肌色ではあったが、その首は丸太のように太く逞しい。恐らく、相当出来る。
ここで仕留めたのは、案外思った以上に僥幸だったかもしれない。
幸い脈も正常だし、このまま生け捕りに出来るだろう。あとはそのまま、外で見張りをしているリシュノワールの審問官に引き渡すのだ。
事件は解決、問題なし。
しかし。だが、しかし。
「…………」
神の声は、鳴り止まない。
ネロは訝しげに辺りを見回す。そう言えばここはどこで、男は何をしに、こんなところに来たのだろうか。
「……教授は、どこに……?」
そうだ。
事件と言えば、親愛なる教授はここに、事件の関連が疑われる少女を探しに来たのではなかったか。
倒れる男を、その異形を改めて見直す。
犯人はどう見ても少女ではない。
教授の見立て、その推測は極めて論理的だった。大きく間違っているとは思えない。
少女は犯人ではなく。
少女は事件に関係している。
だとすると、導き出される答えは一つ。
犯人は少女を狙ってここに来たのだ。
視線を、立ち塞がるドアに向ける。
古い木製のドアの表面には、円と歪な楕円とが絡まりあったような、奇妙な図形が刻み込まれている。その跡は、ドアの装飾にしてはやけに真新しい。
男が刻んだものだろう。少女を殺しに来た男が、誰かに見咎められる危険を犯しながら、それでも刻んだ魔方陣。そして、響き続ける神の
「まさか……教授!!」
ノブを持ち上げるが、ドアはびくともしない。恐らく、正規の手段でなくては開かないのだろう。
それだけ重要な場所ということか。もしかすると、学術的に価値のあるものが保管された部屋かもしれない。
だとすると。教授は怒るかもしれない。
「すみませんね、教授……」
教授の表情を想像して、ネロは苦笑した。自分の命より、そういう類いのものが台無しになることを嫌う傾向がある。
息を整える。
姿勢を低く、精神を集中する。
「あいにく、ウチの方針はその真逆なものでして、ね!!」
呼気一閃、放った蹴りが、ドアを吹き飛ばした。
背後から吹き込んでいく風に背中を押されるように、ネロはドアの向こうへと踏み込んでいく。
そして、彼が目にしたものは。
「教授!!」
天井付近まで聳え立つ、幾体もの本棚。
遥か彼方、もしかすると、文字というものが生まれたその瞬間以来練綿と育まれてきた、重厚な知恵の宝物庫。
その中央で、見覚えのあるコートが倒れている。
「教授、まさか、教授!!」
血相を変えながら、ネロはシンジに駆け寄ると、その体を抱え上げた。
さっきの風、厳重に閉じられたドア、古い本、天井に並ぶファン。
そこから導き出される結論は、窒息だ。
ドアに刻まれた魔方陣は、既に解除されていた。男が二人を閉じ込めるために刻んだものだとしたら、それが解除されたということは、つまり――。
「…………げほっ」
「教授!!」
抱えた腕の中で、シンジが激しく咳き込む。
一回毎に肌に血色が戻り、その肉体に魂が満ちていく。
やがて、シンジは目を開いた。
瞬きの末に焦点が合い、その目がネロを見付けると、シンジは唇をつぃっと引き上げた。
「……遅いぞ、息が詰まるところだった」
「教授、良かった、ご無事ですね……!」
ネロは思わず、シンジを抱き締めた。
シンジは、ぎしぎしと不気味な音を立てながら軋む身体を気遣うように、迷惑そうに呟いた。
「……このままだと無事でなくなる、止めろ筋肉バカ」
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