第35話三日目、昼―10
「……開かないな」
ドアを数回押し引きして、シンジはため息を吐いた。
それはそうだろう、これで開いたら意味がない――ここまでお膳立てされて、犯人が手抜かりするものか。
「き、教授、ファンが!」
ルカリオの悲鳴に視線を上げると、送風機が徐々にその速度を落としていくところだった。
「閉店時間かな?」
「大変……あれが止まったら、酸素が!!」
書庫は密閉されているから、ファンが回転して外部の空気を運んでくれないと、新鮮な酸素は供給されなくなる。
そもそも、書物の酸化を防ぐために普段から、書庫内の酸素は最低限に保たれている筈だ。ファンが止まったら、酸素はあっという間に無くなってしまうだろう。
「……どのくらい持つかな」
「……書庫内の空気が無くなるまで、多分十五分くらいです」
沈痛な表情で、ルカリオが言う。「私たちは、もう少し早く窒息するでしょうけれど」
「残念な知らせだ。良い知らせは、何か無いのかな?」
「痛くはないです、その前に気を失いますから」
「それは良い知らせだね……っと!」
数歩下がるとドン、と勢い良く、シンジはドアに体当たりした。
古びたドアは、びくともしない。
シンジの身体能力が低いということを差し引いたとしても、これは異常な強度だ。
「やはり、結界化されているか……」
領域を【内】と【外】に区切る
環境を区切り、ヒトや物の出入りを制限するのは、実験には欠かせない。要素が少なければ少ないほど、精度が上がるのだから。
「崇高な、研究用の術をこんなことに……」
「研究用の、というわけではないがね」
童顔に怒りを浮かべるルカリオに、シンジは首を振った。
そもそもは、自らが放つ攻性魔術の余波から
実験主義者、とも呼ばれる錬金術師らしく憤るルカリオには申し訳無いが、言ってしまえば、本来の使われ方というわけだ。
シンジたちは、包囲された。次に来るのは殲滅だが――この場合、十分以内に酸欠で勝手に死ぬのだから必要はない。
「大体の魔術が、残念ながらそうだ。どれ程美しく見えたとしても、誰かを傷付ける、そのために磨かれてきた呪いの宝石なんだよ」
「け、けど、錬金術は、夢を叶えるための技です! 魔術だって、ヒトの手に及ばない、奇跡を起こすための業な筈です!」
「いつだって、効率良くヒトを傷付けることを夢見る者はいるものさ」
そんな、と言葉を失うルカリオをちらりと見て、シンジは頷いた。
良い傾向だ。何しろ、今や空気は金よりも貴重な資源なのだから。
ドアの前で、シンジは呼吸をなるべく細く保つことに集中する。
ジリジリと、喉が熱くなってくる。
錯覚だとシンジは心の中で何度も、呪文のように唱える。視界は黒ずむことも明滅することもなく、鮮やかさを維持したまま。
酸素は足りなくなっていない。
まだ大丈夫だ。
口にしない呪文では、神秘は起こせない。焦り、早まりそうになる呼吸を意思の力で抑え込む。
まだだ、まだ――打つ手はある。
「……【
逆境をはね除けるためにこそ、魔術師は呪文を口にする。
世界と、何より己の意識に働き掛け、短い文句と魔力で現実を都合良く変える。
世界よ眼を瞑れ、泡沫の夢を見るが良い。
愛用の万年筆に魔力が走る。
ペン先からインクが漏れ、滴り、瞬く間に固まっていく。
滝がそのまま凍りついたように、溶かした銀を混ぜ込んだインクは空中で固まり、一本の線を描く――薄く、細く、長く。
シンジ・カルヴァトスは金属を操る魔術師である。如何なる物体でも、金属である限りそれはシンジ自身よりシンジの意思に忠実だ。
「……行け」
裏切らない鋼の蛇がシンジの命令に従い、ドアに向かう。
細く長いこの身体なら、僅かな隙間でもすり抜けられる。そして、すり抜けさえすれば、銀のインクは結界の起点を探し出し、破壊してくれるだろう。
……しかし。
「どうした……!」
針金はドアの表面をのたうつばかりで、一向に向こう側へと侵攻しようとしない。
――結界に阻まれたか? いや、それを計算に入れて魔力を注いだ筈だ。突破できる、絶対に!
しかし現実は、シンジの予想とは正反対のままだ。
どういうことだ、シンジは焦りながら、再度命令を下す。戦況を正しく認識できない、愚かな指揮官のように。突撃、突撃、突撃だ。
侵攻は当然のように遮られる。一度目と条件の変わらない試行ならば、結果も自然同じであるが故に。
答えは林檎のように、外部から落ちてきた。
「教授、駄目です……!」
シンジほど自己暗示に長けてはいないのだろう、青い顔でルカリオが言う。「ここは書庫です、ドアは密閉されています!」
「そうか……どれだけ細くしても、そもそも隙間など無いのか!」
どれだけ精密に操作しても、金属の蛇は一定の厚さを確保しなければならない。空気を通さないドアを通過できる訳が無いのだ。
「何て厄介なドアだ……」
「本には、最適の、空間ですから……」
荒く浅い呼吸を繰り返しながら、ルカリオは力なく笑う。
その瞳には、事情を知るが故の絶望が浮かんでいる。何をしても、どう足掻いても、このドアは開かないのだと、暗い輝きが物語っている。
気持ちは解る。
ドアは隙間もなく、結界で遮られているため動かない。
ドア以外に解放部はない――そもそもここは地下室だ、窓を開けても土か岩である。脱出はおろか、空気穴にさえならないだろう。
古びた木製のドアを睨み付ける。せめてこのドアが金属なら、魔術で操作することも出来るのだが……。
握り拳を叩き付けると、ごすん、という重い音が返ってきた。金属ではない、生命の残響を思わせる響きだった。
当然ながら、操作はできない。そもそも結界化されている以上、抉じ開けることも不可能だ。結界化は基点を設定し、刻印する必要がある面倒な魔術ではあるが、その分力任せの解除は困難である。
恐らくドアの向こう側には、クォーツ夫妻の死体に施してあったのと同じような印が刻まれ、ドアを魔術的に固定しているのだろう。印を取り除かない限りは、開くことはない。
「き、教授……わたし、もう……」
「ルカリオ、しっかりしろ、ルカリオ……!」
「…………」
呼び掛けも空しく、どさ、と音を立ててルカリオは床に倒れ込んだ。
駆け寄り口に耳を近付けると、弱々しい呼吸音が聞こえてきた。どうやらまだ死んではいないようだ、意識を保つのに、酸素が足りなくなったのだろう。彼女は緊張し、呼吸も浅くなっていたから、シンジより早く限界が訪れたのだろう。
まあ、ほんの数分の差だろうが。
「…………くそ」
ぴくりとも動かないファンを見上げ、シンジは短く毒づいた。木製の羽を正に仇のように睨み付ける視界の端に、火花が散り始める。
シンジもやはり、限界が近い。運命の避けられぬ魔手は、直ぐ側に迫っていた。
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