第30話三日目、昼ー5
ネロ・エリクィンはその瞬間、これまで自分がどれだけ穏やかな世界に居たのか、痛感することになった。
痛みをもって感じる。
他人の痛みをもって、だ――ネロは生まれてこの方、己の心が痛みに軋んだ覚えはない。
育ての親は、彼のそんな性質を喜んだ。
他人の痛みに触れて、その痛みを共有するためには、そこに何もない方が良いのだ。神に仕える者として、それは素晴らしい素質だと。
幼いネロは、失望を覚えている。
自分の中にあるのは、【無】ではない。ただ――聴こえるのだ。己の、為すべきことが。
神の声だと、ネロは確信している。そして自分は、その声を成すためにあると。
声は常に叫ぶ。
弱きを助け、苦しみを救えと。
そうして、生きてきた。ヒトの苦しみを、聞き届けながら。
それがネロの、苦しさの極致だった。
迷い戸惑う人々の、極致でもあると思っていた。
だが、違った。
本当の苦しみを、ヒトは、他人になど話さないものだった。
「犯人が書いたものだろう、いわゆる脅迫状だ」
「馬鹿なっ…………!!」
イカロス氏の狂乱を、シンジは呆然と眺めた。
紙を引ったくり、目を見開き、食い入るようにしてその紙面を見つめている。
……文面だけを見るのなら、大した出来事ではないのだろう。
さあさあお立ち会いあの名物楽士が新曲を発表だ、そんな煽り文句と共に新聞売りから買った新聞でも、同じようにシンジだったら眺めるだろう。
シンジだったら。
では、自らを知性と理性の権化と呼ぶ、錬金術師であれば、どうだろうか。
計算を忘れ一つのことに気を取られる有り様は、どれだけ小規模であったとしても、それは狂乱と呼ばれるべきものだ。
そうなるだけの効能が、あの紙片には込められていたのだろう。そしてそれは――他の錬金術師にとっても同じらしい。
「これは……そんな、馬鹿な……」
「嘘でしょ……そんなこと……」
イカロス氏の二人の友人、錬金術師たちはイカロス氏の背後へと回り込み紙を覗き込むと、短く呻いてそれから、それぞれの絶望を表した。
細身の男性は立ち尽くしている。
その目は忙しなく動き、文章を何度も読み返している。
何度も、何度も。
もう一度、もう一度読めば、もしかしたらそこに書かれている文章が変わっているのではないかと言うように。
上品な女性は後退り、うずくまるのを懸命に堪えている。
吐き気を堪えるように口を手で押さえながら、目を瞑り、深呼吸を繰り返す。
何度も、何度も。
ここで深呼吸を止めたら、何もかもを吐き出してしまうとでもいうように。
そして、シンジは。
「…………?」
彼の魔術師としての感覚――情動を切り離した先にある、冷静な理屈が呟いていた。
ぼそぼそと、ぶつぶつと、何事か、形にならない程に小さく頼り無い音。
確信の無いぼんやりとした感覚に、シンジは覚えがあった。これは――違和感だ。
違和感の雲が雨を降らせるより速く、スフレは紙を取り返した。
「ここに書かれている文章がどういう意味を持つか、是非とも解説頂きたいな、錬金術師」
「馬鹿な!!」
スフレ司教の要求に叫んだのは、イカロス氏ではない男性錬金術師だ。
分厚いレンズの眼鏡を押し上げながら、激しく首を振り、睨み付ける。
「部外者に語れるような無いようではない! それもこんな簡単に……」
「部外者だと!?」
スフレ司教が怒鳴り返した。「解らないのか? 我々は当事者だ!!」
「錬金術師でもないくせにか? 神の奇跡を盲目的に受け入れるだけなら、子供にも出来るぞ!!」
「我々を馬鹿にするのか!」
「賢いつもりか? 笑わせる」
「止めないか!!」
イカロス氏の一喝が、二人の間に流れる剣呑な空気を切り裂いた。
他人の喧騒は、彼を冷静にさせたらしい。冷静な視線がスフレ司教と錬金術師を平等に射抜き、沈静化させる。
「……ここに書かれているのは、錬金術における秘奥の一節だ」
ネロに引き離されながらも男を睨み続けるスフレ司教を一瞥すると、イカロス氏は寧ろシンジに対して、話し始める。
「例えば、『
イカロス氏の頬が、再びあの独特な笑みを浮かべた。「それを説明しても、恐らく、君たちには理解できはしまい」
「錬金術は、解りづらくするのが専売特許ですからね」
「否定はしない。予てより我々は、他人に理解されないことを目指して来たのだから」
「身内には理解されると良いですがね」
「そのつもりだったが」
イカロス氏はため息を吐いた。「そうとも言えないかもしれんな」
イカロス氏の嘆息には、深い後悔が含まれていた。
先程争った二人としても、それに気付かないほど鈍感ではなかった。彼らは互いにばつの悪そうな視線を投げ合った後、目を逸らした。
「彼の、エングレオの言う通りだ。錬金術師でない諸君にとっては、その詳細を理解することはできないだろう」
「だが、犯人は理解しているのでは? それがどんなものでどういう効果があるかを理解しているからこそ、犯人はその単語を使ったのではないですか?」
「いいや」
当然とも思えたシンジの問い掛けに、イカロス氏は首を振った。
大きく、確固とした力強さで。
「それはあり得ないだろう」
「……何故ですか?」
「ルミアレスに、そのような効果はないからだ。あれはヒトを、傷付けるようなものではないのだ。それが解っているのなら、脅迫状には用いないだろう」
「では、どのような効果があるのですか?」
「…………」
返ってきたのは、沈黙だけだった。
説明しても無意味だと思ったのかもしれないし、もしかしたら、説明するわけにはいかない機密なのかもしれない。
シンジは会見の終わりを悟った――これ以上、イカロス氏は何も語ってはくれないだろう。
ネロたちも、同意見だったようだ。
彼らは目配せし合うと肩をすくめ、出口へと向かっていく。
シンジも続こうとして、ふとその足を止めた。それから振り返ると、こちらを見詰めるイカロス氏にこう、質問した。
「……これだけは、聞かせてください。錬金術師にとって、ここに書かれている文面は、脅迫となり得ますか?」
「なるだろうな、少なくとも、オズマンにはそうなったようだ」
「他の錬金術師にとっては?」
「何だって?」
「ここに呼ばれることのない、一般的な錬金術師にとっては、どうなんですか?」
「……質問の意図が解らないが、しかし答えは明確だ。そんなことはない。ここに呼ばれるような位階の高い商会メンバーでなくては、この意味は理解できないだろう」
「……ありがとうございました」
シンジは頭を下げると、呆然とする二人の異端審問官を置き去りにして部屋を出る。
話しは終わりだ、聞きたいことはこれで全部聞くことが出来た。
次の目的地は、ミド=レイライン大学だ。
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