第27話三日目、昼

 スフレ司教は、教会の正面で待っていた。

 いや、待っていたわけではなさそうだった――シンジたちを見る表情には、率直な驚きが浮かんでいる。


「お前たち……早かったな」


 両手から外した手袋の指先が真っ赤に染まっているのを、シンジは見てとった。

 血は乾燥すると赤黒くなる。あれほど鮮やかな赤色は、恐らく、触れてそう時間が経っていない証明となるだろう。


「スフレ司教、被害者はこの町の錬金術師と聞きましたが」

「……誰か知らんが、気安く機密情報を流してくれたらしいな」


 おどけた様子でスフレは肩を竦めると、直ぐに表情を引き締める。


「オズマン・フィアチウム。体型と、それに顔が残っていたから簡単に解ったよ」

「顔が、ということは……」

「他はひどい」

「どの程度に?」

 スフレはちらりとシンジを見てから、無表情で答えた。「ヒトの形を保っているのが奇跡なほどに、だ」

「拷問の形跡があったということかな?」

「それは、『拷問』という言葉の定義によるだろうな」

「……異端審問官我々は拷問の専門家です、教授。その手際や手順には、少々うるさいのですよ」

「被害者にとっては同じことだと思うが」

「捜査する者にとっては、違う。一目見れば解る、これは、素人のやり方だ」

「では、一目見させていただきましょうか、教授」


 ネロの言葉にスフレはもちろん、シンジさえも目を剥いた。

 こいつはいったい、何を言い出すんだ?


 二人分の奇異の視線に、ネロは当然のように怯まない。穏やかな笑みを浮かべたまま、軽快に頷いた。


「お忘れですか、教授。ミセス・クォーツの遺体に、

「……成る程な」


 ぎりっ、と力強く。

 苦虫を噛み潰すように、スフレは歯を噛み鳴らした。


「確かに、魔術的な痕跡について我々は素人だ。犯人が魔術的な隠匿を図ったなら、見抜く術は無いだろうな」

「犯人は周到です。これまでの二件でそれは理解していたつもりでしたが、今回の件でこう言い換える必要が出てきました――周到だ、と。ならば、こちらも万全を期す必要があります」

「しかし…………」


 その先は、続かなかった。


 シンジだって解っている。

 魔術を使って遺体を加工したり、錬金術師の言葉で脅迫状を書くような犯人が、いわば本筋とも言える殺人においてそれらを使わないなんてことがあるわけないと。


 解っている。

 犯人のを見抜けるのは、自分しかいないと。


「……解ったよ、どうも、気分の良い見世物ではなさそうだが」

 結局、シンジはため息混じりに頷いた。「どうやら、そうするしかなさそうだ」

「幸いにも」

 ネロがくすくすと笑いながら呟いた。「昼食前に見られますね」


 もちろん、誰も笑わなかった。









 シレーヌ教会は、ネロの伝説の通り木造の、ひどく質素な建物だった。

 その辺の物置小屋より少し大きいか、という程度だし、使われている木材も古いようだ。

 舟を集めて作った、という逸話はどうやら本当なのだろう。壁も屋根も木の種類がばらばらで、色さえ統一されていない。


 門の上、張り切って手を伸ばせば届きそうな位置には、歪な十字架が捧げられている。奇妙にでこぼこしたそれは、白い貝殻をいくつも組み合わせて作られているようだ。十字を囲う円の部分は、どうやら船の舵輪である。


「正しく、海の町の円十字だな。信仰は日々の生活に宿る、というわけだ」

「そう見えるなら、効果はあったようだな」


 くつくつと悪役めいた笑いをこぼすと、スフレはあっさりと種明かしをした。


「あれは、修復したものだ。元々の十字架は貝殻の部分だけで、後から舵輪を付け加えたのだよ。港町に似合うようにね」

「そうか、伝承の通りなら、漁師たちの舟は小舟だ。舵輪なんて付いているわけがない」

「そういうことだ。……ヒトの歴史というものは、こうして、見る者を都合良く誘導するように、小さく、少しずつ、改竄されていく。神の家でさえ、例外ではない」

「意外なご意見ですね」

 ネロは目を丸くした。「教会への不満のように、聞こえましたが」

「教会はあくまでも、神の教えを伝える場だ。そして、教えを乞いたいと願う全ての者を、納得させるための場なのだよ。……神は着飾らない。服を着るのは我々だけだ」


 こっちだ、とスフレは教会の裏手へとシンジたちを誘っていく。

 その背中に、シンジは何となく思った――この老人は、ここが嫌いなのではないだろうかと。


「……ここには、嫌な思い出がある」


 シンジの直感を感じ取ったのか、スフレはぽつりと呟いた。


「知り合いの葬儀を行った場所だ。公に出来ない埋葬を、罪を隠すような小賢しさで、私は大地に埋めたのだ」

「……クォーツ夫婦のことか」

「教会では、葬儀を執り行うことはできないと言われたのでね」


 さもありなん、というところか。

 スフレの言葉を借りるなら、『教会は服を着る』のだ。それも、見映えのするような服ばかりを。


「ごく一部の関係者しか、列席させられなかった……町には、しか居ないというのにな」

「司教……」

「宗教の敗北、だな。所詮はヒトの行いだ、単に祈るだけでは、いられん」


 スフレ司教は怒りはおろかため息も、苦悶の呻きさえこぼさなかった。唇の端には、歪ながらも笑みさえ浮かんでいる。

 恐らく、昔過ぎるのだろう。

 遥か彼方の絶望は、時間の波に晒されて脆くも崩れ去った。後にはただ、『ここに絶望があった』という事実がのように残るだけだ。


「そして今日、新たな思い出が刻まれた。これもまた、嫌な思い出が、な」

 スフレが足を停める。肩越しに振り返った顔には、やはり笑みだ。「共有できるのが唯一の救いだな」


 いつの間にか、シンジたちはに辿り着いていたらしい。

 教会の裏、ちょうど、墓地の手前。

 奇跡の陽光に干上がった大地は、今、鮮血に沈んでいた。


「うっ…………」

「……教授、大丈夫ですか?」


 むせ返るほどの濃厚な血の臭いに、シンジは思わずたたらを踏んだ。

 咄嗟に支えてくれたネロに感謝の言葉を言うような余裕もなく、ただただ数回、首を振る。


 それから、ゆっくりと顔を上げる。見るべきものは血だまりではなく、その出所だ。


 ネロは、シンジの決意を正しく理解した。


 血に靴が汚れるのにも構わず踏み込んでいくと、その奥、教会の壁に掛けられた布へと近付く。

 ネロの動きにぼやけかけていた焦点が合い、その大きな布が何か、

 赤い泉の源で、人目から隠さなければならないもの――それが何なのか解らないほど、シンジは愚鈍ではない。


「……宜しいですか、教授?」

「あぁ、頼む」


 青ざめた顔で頷いたシンジに頷き返し、ネロは、一息に布を取り払った。


 途端、死臭が爆発した。


 意識を吹き飛ばしそうな、どこか甘さを含んだ臭いの奔流。

 に慣れている筈のネロでさえ、袖口で口を押さえている。慣れていないシンジの意識など、風前の灯火のように吹き消される筈のそれを、何故だかシンジは耐えていた。

 と言うよりは、そんな余裕がなかった――シンジの意識は、視覚情報に釘付けになっていたのだ。


 長い時の末に朽ちかけた、教会の壁。

 モザイク画のように切り貼りされた、ちぐはぐな色合いの板壁に寄り掛かるように、見覚えのある巨体が座り込んでいる。

 両手足を投げ出し、うつ向いたオズマン・フィアチウムの死体――その腹部の傷跡が、シンジの視線を奪っている。


「まさか……」

「……何かあるのか、魔術師?」

「人払いを頼む、スフレ司教」


 唇を噛み締めながら、シンジは死体へと歩み寄った。

 傷の中を覗き込み、それから確信したように頷いた。


「何かあるんじゃない――

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