第26話三日目、朝ー5
馬車を降りた地面は、どこか湿り気を帯びた柔らかい土だった。
教会の真ん前に乗り付けるほど、審問官用の馬車は無作法ではなかった。
教会までは少し歩く必要があるらしい。
むき出しの地面に点々と埋められた、浮き島のように白い石の上を、シンジたちはゆっくりと躍り歩いていく。
「かつて、この地の大半は海でした。ミド=レイライン大学の時計塔が灯台だった、ということは、教授もご存じですよね?」
「まあ、そのくらいはね」
「だとすると、町の三分の二は海に沈んでいたことになりますよね?」
リシュノワールの地図を思い出しながら、シンジは頷いた。
今でもそこまで広い町ではないが、干拓以前では町以下だ。辛うじて港とはなり得るだろうが、それも寂れた漁村以上のものではない。
「リシュノワールは、北には険しい山々が広がっていますからね。土地を広げる方法は二つしかありません。
掘るか、埋めるか。そしてそのどちらに挑戦するのにも、当時の住人たちは力不足でした」
「まあ、土地を広げるとなると、資金も多大に必要になるだろうしな」
「その通りです。住人はその殆どが漁師、それも小舟の、家族がその日食べられるかどうかという程度の漁獲量しか手に入れられない者ばかり。そんな金も、根性もありませんでした」
それは仕方がない。
ヒトの希望というやつは、日々の生活が確保されて初めて生まれるものだ。明日をも知れぬ身であれば、十年先を見越して海を埋めようなどとは思うまい。
「それを嘆いたのは、旅の修道女でした」
とんとんとんとリズミカルに、ネロは石の島を渡っていく。
スポンジのように小さな穴がいくつも開いた石は、恐らく海から揚げられたものだろう。
微妙に間の開いた足場に苦戦しながら、シンジはネロの話に耳を傾け続けた。
「修道女は住人たちに信仰を説きながら、未来のために海を埋め立て、土地を広げることを勧めました。正しい道を歩めば、神の加護が必ずあると」
「それはそれは」
シンジは皮肉げに笑う。「さぞかし歓迎されただろうな」
「彼ら漁師は、やはり海の神を信じていましたし。そもそも祈る暇があれば、網の手入れをしていました。
漁師たちは、祈りを説く修道女を無責任と詰り、神の加護が本当にあるのなら見せてみろ、と迫りました。守られているのなら、その証を見せろとね」
「安直なことだね。民衆というやつは、常に解りやすい成果を求める。神に対しても、魔学に対しても」
「正しく。修道女は懸命に、神とは心の支え、暗闇に灯される希望の光だと言いましたが、漁師たちは納得しませんでした。
折しも空は悪天候、海は大荒れ。嵐が、迫っていました。漁にも出られず、彼らの心は名実ともに闇に迷い混んでいたのです」
そこで、とネロは言った。淡々とした口調の影に憤りを隠すような友人の青臭さに、シンジはため息を吐く。
昔話に、怒ってどうする。
「そこで。彼らは修道女を海に投げ込んだのです」
「……おぉう」
思ったよりも直接的な手段に、シンジはかなり引いた。「昔話にそこまで残っているとはな」
「神に足場を造ってもらえ、というわけです。全く愚かなことですが、しかし、その時奇跡が起きました」
まぁ、そうだろうなとシンジは頷いた。でなければ、面白くない。
「海に沈みながら、修道女はひたすら、秩序神に祈りを捧げ続けました。そして彼女は沈み――次の瞬間、光が人々の目を焼きました。
突如現れた太陽が強く海を照らしたのです。眩しさと熱風に人々は恐れ平伏し、やがて、収まった頃。顔をあげた人々は見ました。海はすっかり干上がり、その中心で、修道女が事切れているのを。
その衣服はすっかり乾いていて、体は堅く固まっていました。埋葬する際にも、祈りの姿勢を崩すことも出来なかったそうです」
詰まりは、宗教の
改宗は概ね、この三段階で行われる。或いは神学を飛ばして、何らかの救済を保証することにより回心を促すのである。
この昔話も、同じだ。
干拓という救いを求められた修道女が奇跡を起こし、漁師たちは回心した。
以前、友人の案内で島国クードロンを訪れたことがある。今では随分と発展したあの町は、かつては小舟と小屋の並ぶちっぽけな漁村だったらしい。
あそこも、干拓によって広がったことが、発展の基礎になった。
土地の広さは町の豊かさに直結するということだ――広ければ広いほど、自由に出来ることは大きくなる。干拓という恵みは、人々の意識を大きく変えてあまりある出来事だったのだろう。
「漁師たちは恐れ、自分たちの行いを恥じ、そして神の奇跡を知りました。彼らは自分たちの舟をうち壊すと、その木で、修道女の沈んだ辺りに教会を建てました。そこに貝殻を集めて作った十字架を捧げ、それ以来、熱心な秩序神教徒となった、というわけです」
「君が、最初にそういえば言っていたな……ここは、奇跡によって生まれた町だと。あれは、そういうわけか」
「はい。そしてそんな伝説があるからこそ、アレキサンドライト教会が出来た後も、そこに機能を移した後も、教皇はこのシレーヌ教会を保全することを例外的に赦したのです」
「成る程な」
だからその名前なのか、とシンジは納得した。
珍しいとは思ったのだ。【シレーヌ】は直訳するなら【海の女】となる――そして過去の言葉において、女とは魔女のことを示す単語だった。
どうやら昔から、この町は魔術師を犠牲にして存続してきたらしいな。
わざわざそれを言うほど、シンジは無神経ではなかった。人身御供を捧げて海を沈める逸話に、救われる人もいるのだから。
そして、或いは。
それに傷つけられた者も、いるのかもしれない。
「……急ごう、ネロ。犯人はとうとう一線を越えた、あとは、悪くなるばかりだ」
そう、急がなくては。
過去はどうしようもない、だが、未来ならば何とか出来る筈だ。
遠くで、昼を告げる鐘が鳴り響く。
過去が祈るように、現在が嘆くように。
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