第25話三日目、朝ー4

「現場を封鎖しろ。それから目撃者だ。昨日は【水】の夜だ、多少の人出があったかもしれん、探せ」


 良く動く舌だ、とスフレは思った。

 年の割には声に張りもあるし、ピンと伸ばした背筋にも、連日の激務による疲れは見られない。辺りを観察する視界にも、翳りは全く無かった。

 正しく万全の状態だ。自分自身を客観的に観察しながら、スフレはそう結論して、苦々しく顔を歪めた。


 そう、見えているだけだ。

 体力は未だ持つだろう、気力も大丈夫だ。だが、心には深く疲労が積もっていた。


「発見者から話を聞きたい、呼び止めておけ。それから、エリクィン司教も探しておけ」

「解りました!」


 部下の審問官は、疑問を抱いた様子もなく指示を受けて走り去る。

 説得力があるようには、どうやら見えたらしい。周囲の視線を気にしながら、スフレは一つ、ため息を吐いた。


 部下に見せるわけにはいかない苦悶や疲労を吐き出して、それから、死体に近付く。

 ひどい有り様だった。全身が深く乱雑な切り傷だらけで、の最大の特徴である腹部からは一塊、肉が切り取られている。

 更に近付けば、手首に縛られたような跡が確認できた。酷く擦れた様子からは、安らかな最期からは程遠かったことが窺い知れた。


 足元は、血だまりになっている。


 死をもたらすには過剰な量の出血は、死体の足元を中心に歪な球体を描いている。

 飛び散ってはいるが、引きずったりした痕跡はない――流血してからの死体の移動範囲は、生前死後を問わずほんの僅からしい。のビア樽めいた肥満体を思えば、さもありなん、というところだ。


 問題は、とスフレは独りごちる。


 犯人は、を得たかどうかだ――これだけの労働に見合う何かを、彼の狼藉者は手にしたのだろうか。

 少なくとも、手に入れとはした筈だ。それが困難であったことも、遺体の惨状は示している。

 遺体は、明らかに拷問されていた。犯人は手を尽くしたのだ、あとは、その結果だけが問題だ。


「…………ん?」


 いつの間にか遺体にかなり接近していたスフレは、ふと、に気が付いた。

 未だ乾ききっていない血の池の、ほぼ中心。

 良く肥えた芋虫のような遺体の指の、その先端に、何かが落ちている。


「…………紙、か?」


 慎重に手を伸ばし、半ば以上赤黒く染まった紙片を取り上げる。

 破かないよう丁寧に開いた、その紙切れに書かれていたのは。


「…………」


 スフレは漸く、が何故ここに来たのかを理解した。









「遺体は、教会で見付かりました」


 ピーター、と名乗った少年の声は、馬車の中で空しく響いた。


「殺害されたのは、えっと、昨夜遅くだろうと、思われます。早朝、日の出と共に見付かりましたので」


 緊張し、ところどころ突っ掛かりながらの発言は、初年度の学生たちを思わせる、未熟ながらも熱心な発表だった。

 出来る限り解りやすく、出来る限り詳しく。

 事実を聞かせながら、相手の疑問に思うであろう点をどうにか補おうという、若さ故の貴重な蛮勇である。


「死体の状況は、その、です。手足を拘束され、全身を、切り刻まれていました」


 その努力は素晴らしいと、教師としてのシンジは頷いている。能力は教えによって伸ばすことが出来るが、熱意だけは、本人にその火種がないとどうにもならないのだから。


 そういう意味で、少年は正しく満点だった。だが悲しいかな、今のシンジの内面では、【教師】の占める割合が通常よりも遥かに低かった。


 ヒトのことに気を配る余裕が、今のシンジにはなかった。

 殺人。

 脅迫状の文面からは、犯人が極めて洗練された知性を持っていることが感じ取れた。錬金術に造詣が深く、魔術にも理解があるようだ。

 それほどの頭脳を持った文明人が、そんな原始的な蛮行を行う。それが何故だか、ひどく腹立たしかった。


 シンジの様子をちらりと見てから、ネロは口を開いた。


「……それだけ損傷が激しいのなら、被害者の特定は困難なのでは?」

「特徴のある、外見でしたから」

 ピーターは顔を青ざめる。「あの外見で間違えることは、無いかと思います」

「錬金術師と言っていましたね、有名な方なのですか?」

「はい。……恐らくは、オズマン・フィアチウムという方です」


 ネロがシンジの様子を窺う。シンジは頷いた。


「ルミアレス商会の、謂わば対外的な顔だな。魔術師相手にも、或いは一般社会へ、錬金術師たちのを売り込むのが、彼の役目だった筈だ」

「お詳しいですね、さすがです」


 シンジは肩を竦める。スフレが部下にどのような説明をしたかは知らないが、基本的には魔術師であるということは隠しておいた方が良いだろう。

 今のシンジの服装は、十字架こそ下げてはいないが、教会仕様のセーターとコートだ。黙っていれば、関係者に見えなくもない。


 幸い、ピーター少年の瞳に浮かんでいるのは単純な尊敬だ。

 有り難い、と思いつつ、シンジはオズマン氏の顔を思い出そうとして失敗した。

 一度、【マレフィセント】に作品を卸しに来た彼と会ったことがある。穴蔵にこもる錬金術師というよりは、商売人のような暑苦しい明るさに辟易した覚えがあったが、しかしそれだけだ。

 彼の場合は、その、特徴がに傾きすぎている。

 樽に手足を生やしたような典型的な肥満体型は、他のあらゆる外見的な情報を吹き飛ばすほどの強烈な個性だ。


 シンジは、不意に激しい喪失感に襲われた。

 彼の遺体がどれ程傷つけられているかは解らないが、場合によっては、もう二度とその顔を見る機会は無いのだ。


「それほどの大御所が、どうして教会に? しかも、そんな夜遅くに」

「神様に話でもあったんじゃないか?」

「教会の門はいつでも開いている、とはいえ。少々不自然な来訪ですね」


 シンジの軽口に苦笑しつつ、ネロも首を傾げた。特に今週は祭りの最中だ、いくら神の家とはいえ、深夜に詰めている人員がいるとは思えない。


 何より不思議なのは、この地で長く過ごしていたオズマン氏がその事を知らない筈がない、ということだ。

 だとしたら――彼は、何の用事があって教会に赴いたのだろうか。

 深夜の、無人である可能性の高い教会に訪れている姿をもしも誰かに見咎められたら、オズマン氏の立場は危ういものになるだろう。


 シンジたちの疑問に、ピーターは首を振った。


「いえ、司教様。恐らく、誰かに見られる可能性は極めて低いと思われます」

「そうなのですか? いくら祭りとはいえ、常に誰か、教会にはいる筈では?」

「それが、その……教会の、

「場所?」

「……なるほど」


 眉を寄せたシンジと対称的に、ネロは、何かに納得したように深く頷いた。

 何だ、とシンジが問うよりも早く、馬車は軋みを上げながら停まった。


「着きました! ぼ、僕はスフレ司教にお二人をお連れしたことを伝えてきます!」

「お願いします、ピーター」


 少年は、年相応の活発さで馬車を飛び出した。

 ネロも、あとに続く。仕方がない、シンジは質問は後回しにして、そのあとに続く。


 そして、目を見張る。


 そこは、シンジの知っているアレキサンドライト教会とは、全く違う場所だった。


「ここは、【シレーヌ教会】です」

「……?」

「教授がご存じかどうかは知りませんが……基本的に、一つの町には教会は一つしか建てません。信仰が分散したり、対立してしまうのを避けるためです」


 それは、シンジも聞いたことがあった。

 例外が認められるのは、聖都のような大きい都市だけだ。それだって、序列は歴然と存在するのだ。


「この町も、その数少ない例外というわけです。とはいえ根拠は、町の大きさではありませんが。

 ……教授、貴方は、この町の由来をご存じでしたか?」

「干拓で造られた町だろう?」

「そうです。そしてそれこそが、教会が二つある理由です、教授。リシュノワールは……

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