第20話二日目、夜
サンピュルセル広場の、直ぐ近く。大通りから一本裏に入ったところ、年季の入った一件の民家。
過ごしてきた歳月の穏やかさを感じさせるような、年季の入った店構えは、何の情報も聞いていなければ単なる民家として通り過ぎていただろう。
何せ、看板も出ていない。町を知り尽くしたスフレ司教の助言がなければ、このレストランを発見することは困難だっただろう。
商会を辞した時点で、外は既に日が暮れていた。
祭りの二日目ということもあってか、夜の静けさからは縁遠い。軒先には照明が連なり、往来は昼間よりも活発である。
そもそも初日より、人は多くなっているようだ。落ち着ける店を探す手間が省けたことは、素直に有り難い。
よほどの隠れ家的な店なのか、テーブル席が三つしかない狭い店内には、シンジとネロの二人しか居ない――スフレ司教は、何やら事務処理があるということで、教会へと帰っていったし。
テーブルそれぞれに置かれた燭台の明かりが、運ばれてきた皿を照らし出す。
二日目は、水神クードロンの夜だ。海を司るかの竜神にちなみ、今夜の食材は魚である。
青エイ、という魚がいる。
人が寝転んだよりも大きい二等辺三角形に、鞭のようにしなる尾。
尾の先に付いた毒針は、鯨さえ昏倒させるほど強力な毒を持ち、その強力さに神も青ざめた、という名前の由来がある。
勿論、嘘だ。
釣り上げると、分厚い表皮に含まれる水元素が空気中の自然魔力に反応して、深みのある青に染まるのが、その名の由来である。
その、弾力のある身に焦がしバターソースを絡めた、青エイのブール・ノワール。
振り掛けられた香草の香りを深く吸い込んで、それから、ネロは憂鬱を吐き出した。
「……結局、上手く行きませんでしたね」
「君と食事をすると、ため息が
「それほど甘くはないですけれどね」
力無く微笑んだネロに、シンジは肩を竦める。
「悪くはない成果だったと思うがね」
「そうですか?」
黒い瞳を瞬かせて、ネロは首を傾げる。「何一つ、解らなかったと思いますが」
詳しい話は、出来ない。
疑惑に満ちた会談の後、スフレ司教はシンジたちにそう、はっきりと宣言した。
『死体は過去の事件で生じたものであり、現在の事件性は否定された。であれば、君たちは最早部外者でしかない』、だったか。
政治的なやり取りに慣れた魔術師としては、ごもっともと頷くしかない意見ではあったが。
正義と義憤のオールで社会の荒波に漕ぎ出す異端審問官としては、けっして看過できない欺瞞だったらしい。
不機嫌そのままに、ネロはパンを引きちぎると口に運んだ。
「事件性が無くなった? 馬鹿な、現実に、神を讃えるべき祭りの最中に死体を放置するという、極めて冒涜的な行いをした者がいるではありませんか」
「まあ落ち着け、ネロ」
付け合わせのミガモの実の酢漬けを摘まみながら、シンジはため息を吐いた。「安心できる情報だったじゃないか」
「安心?」
「あぁ、そうだ。だって、少なくとも今年は、誰も死んでいないということだろう?」
ネロが、大きく目を見開いた。
それから、ばつの悪そうな顔で、田舎風パンの固い皮を咀嚼する。
「…………それは、思い至りませんでした。なるほどその通りです、確かに。神の使徒としては死人が出ていないということを、先ず、神に感謝するべきでした」
「まぁ、言葉遊びのようなものだがね。平和の証明というのは、喜ばしいものさ」
ナイフで切り分けた身を口に運ぶと、シンジは微笑む。「僕も、肩の荷が下りたよ。教会の観光もできたしね」
「そう言って頂けると、私も荷を下ろせたような気がしますね」
ネロはようやく微笑んだ。
シンジはグラスを掲げた。ネロも、赤ワインで満たされたグラスを持ち上げる。
「乾杯。事件の、一応の終幕に」
「乾杯。異端審問官の本拠地から、初めて生還した魔術師に」
ぶつかり合うグラスの清涼な音が、賑やかな祭りの夜に響き渡った。
「…………」
ルミアレス商会、二階、会議室。
半時ほど前には、魔術師と異端審問官という珍妙な取り合わせを出迎えた部屋で、イカロスはじっと俯いていた。
思考に耽る錬金術師、というのは、別段珍しい絵面ではないが、その錬金術師がイカロス・ワニウムであるということには、多くの者が驚くだろう。
オズマン・フィアチウムを含めた三人の錬金術師もまた、そうであった。
定例の、報告会に出席するべく会議室を訪れた三人は、ドアを開けた瞬間、呆然と立ち尽くした――出迎えの言葉どころか、顔さえ上げなかったのだから。
三十年以上の付き合いである三人が、イカロスの鋭い視線で出迎えられなかったことなど、今までに一度もなかった。恐らく、会議の時間であることさえ、忘れているのではなかろうか。
「……イカロス?」
恐る恐る呼び掛けたのは、エングレオ・トリミウム。かなりの長身で、枯れ木のように華奢な肉体はまるで亡霊のようである。
それでも職業柄、声は良く通る。掠れもしていない穏やかな呼び掛けに、イカロスは弾かれたように顔を上げた。
オズマンは、思わず息を呑んだ。
ゆらりと持ち上がったイカロスの顔は、まるで死人のように蒼白で、血の気が失せていたのだ。まるで――それこそ、亡霊でも見たかのように。
「い、イカロス! どうしたの!」
甲高い声を上げながら、紅一点、ウルカ・トゥシウムが彼に駆け寄る。上品なスカートの裾をはためかせるウルカに、エングレオも我に返ったのか慌てて続いた。
オズマンも、常人と比べるとやや恰幅が良すぎる身体を揺らして、イカロスの元に向かおうとして。
「……?」
その足が、なにかを蹴った。
見下ろすと、丸められた紙だった。持ち上げると、どうやらメモか何からしい、文字が書かれているのが見て取れた。
ゴミだろうか、几帳面なイカロスにしては珍しいことである。
首を傾げながらも、そのままにもしてはおけない。オズマンは一先ずゴミをポケットに突っ込んで、イカロスの机へと駆けていく。
あとで、捨てれば良い。そんな風に、軽く思っていたからこそ。
イカロスの話を聞いたオズマンは、ごみの存在をすっかりと忘れることになった。
「……諸君らか」
やれやれと、イカロスはため息を吐いた。
エングレオの眼鏡越しの視線に見下ろされ、ウルカの心配そうな瞳に見詰められ、樽のような身体を持て余したオズマンが遅れてくる。
いつもの光景だ。ということは詰まり夜の会議の時間であり、ということは、詰まり、長い時間こうして椅子に座っていたらしい。
長い間、思考の海に沈んでいた。
それ自体は研究生活の中、良くあることだが、常と違うのはその結果。長い間考え、考え続け、結果として何一つ結論を得られなかった。
イカロスはもう一度、ため息を吐いた。
六十年の人生の間に、これほど不毛な時間を過ごしたことが、果たしてあっただろうか。
たぶん、二度だけだ。
親友、アレクセイの死んだ夜と――クォーツ夫妻の死んだ夜。
「何があった、イカロス」
エングレオが長身を小刻みに揺らして、問い質してくる。「お前が、時間を忘れるなど……」
「……異端審問官が来た、と聞いたわ。スフレでしょう? 奴が、何か言ってきたの?」
「君は耳が早いな、ウルカ。いかにも彼は来たし、予想外の同行者もあったが……それは所詮些事にすぎない。いつの世も、来訪者よりその言葉にこそ価値があるのだから」
「ならば、茶を出す必要はなくなるな。節約になる」
ほんの数歩の運動で、オズマンは既に汗を掻いていた。
それでも皮肉を言う彼を微笑ましい思いで見てから、イカロスは顔を引き締めた。
「諸君らの前に解答を示せないのは、寧ろ有り難いやもしれん。この事は、大勢で考えるに相応しい問題なのだから」
エングレオ・トリミウム。
ウルカ・トゥシウム。
オズマン・フィアチウム。
ルミアレス商会を動かす三人の幹部を前に、商会最高責任者、イカロス・ワニウムは厳かに、その名前を口にした。
「クォーツ夫妻の死体が、現れた」
三人の表情、その劇的な変化。
友人にして上司を心配していた彼らの瞳に、恐怖と驚愕、そして何より共感を見て、イカロスは深々と頷いた。
「そうだ、舞い戻ってきた――過去から、悪魔が」
対策が必要だった。でなければ、この祭りは再び血で染まることになるのだから。
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