第17話二日目、昼―5

「……悲惨な事件だった」


 三つのカップを置き去り、年若い審問官が退出したのを皮切りに、スフレ司教の話は始まった。


 豊かな薫りと湯気を立てるコーヒーは、何やら場違いに思えた。恐らく、今後の話との温度差を、シンジは直感的に悟ったのだろう。

 礼儀マナーは人間味の防波堤だ。しかし時として、礼儀の意味は反転する――儀礼的な、血の気の失せたシステムに成り果てるのだ。

『礼を尽くして礼儀を失う』。正にその通りだ、愚か者は、礼儀を『これさえしていれば良い』という予防線としか捉えない。敬語で話し、曖昧に微笑んでいれば、なるほど確かに瞬間の礼は尽くせるだろう。その果てにあるのは、残念ながら礼儀とは対極にあるものでしかないのだが。


 客人に対して機械的に差し出されたコーヒーは、人間味の喪失でしかなかった。


「政治は数字に支配される。その原則からするなら、あの事件は、さして重大な事件とはならんのだろうな――犠牲者は、たったの二人だ」

「耳が痛いな」

 村一つを犠牲にするような実験は、魔術師の十八番だ。

「どちらがより悪質かは、議論の余地があるでしょうね。魔術師は生命を、として扱いますが、我々は生命に順列を付けてしまいますから」

「……今のは、聞かなかったことにしよう、エリクィン司教」


 頭痛を堪えるようにスフレ司教はこめかみを揉み解し、ネロは素知らぬ顔でカップを口に運んだ。

 この二人が同列というのは信じられないな、とシンジは思った。

 役職というのは、全く不可解だ。


「水を差すわけでもないが、司教。問題は、?」

「それこそ、耳が痛いな」


 先だって、スフレ司教はこう言った――『町に殺された』と。

 この町の家々が自らの意思をもって殺人行為に手を染めることもあるまいし、その言葉の意味するところは明白だ。


 


「信仰の歴史は、迫害の歴史でもある。ヒトの能力で太刀打ちできない自然への畏怖に始まった筈の宗教は、魔学が闇を照らすにつれ、その性質を変えていった――魔学で解明できないことへの、理由付けに」

「学者の意見だな」

 思ったより淡々と、スフレ司教は応じた。「我々にとって神は、昔も今も変わらず救いの光だ」

「……正しい者が救われる、なら、その逆も成り立ってしまう。という理論だ。神は万物を救う筈なのに、ヒトがその前に狭き門を造ったんだ」

「狭き門にも意味はある、それが救いになることもあるのだ、魔術師」

「宗教家にとっての意味が?」

にとっての救いだ、魔術師よ。神知らぬお前には解らぬかもしれんが、ヒトは常に救いを求めるものなのだ」

「なら、広く門を造れば良い、誰も彼も、気付かぬ内に通り過ぎる程に。そうすると、宗教家は困るだろう? 救いには、実感が必要だからね」

「そうではない。魔術師、【魂荒らし】シンジ・カルヴァトス。冒涜者、何もかもを理屈に貶める者よ。


 流石に、シンジは言葉に窮した。


 魔術師にとって――いや、そんな自己弁護はさておくとすれば、シンジ・カルヴァトスにとって、救いとは単なる言葉だ。

 顔の無い奇跡の救い手など、誰も期待していない――そもそも魔術師は、魔術師になる才能を与えられ、その行く末を固定された人種だ。誰かからもたらされる救いなんて、雪より儚い夢だと知っている。

 シンジは、少なくとも今まで、神の救いを実感したことはない。偶然を否定し、必然を積み重ねて、どうにか世界を読み解こうと苦心し続けてきたのだ。


 かつて確かに神は居た。

 しかしそれは天上の万能者ではなく、単なる超越者であろうと、シンジはそう思っているのだ。


 シンジは首を振った。スフレ司教は、頷いた。


「それは、お前の強さの証明かもしれんな、魔術師よ。神に頼らない姿勢は、多くの人間が見習うべきかもしれん。だが、ヒトはそれほど強くはなれん」

「……だから、救いが必要だと? 神の奇跡に浴することが、本当の助けになるのか?」

「そうではない、そうではないのだ魔術師よ。救いとは、


 寧ろその真逆だ、と司教は笑った。


「お前の言う通り、現在、神の御手は万人に行き届かなくなっている。神代は遠退き、奇跡は忘れられた。助けを得られない者が出てきた。だからこそ、救いが必要となった――

「……納得?」

「そうだ。そしてそれこそが、狭き門の意義だ。解るかね、魔術師。何よりの救いとは、

「それは、詰まり」

「そうだ。救われない者に、虐げられた者に、『どうしてこんな目に遭うのですか』そう問われたその時に。何より優しい答えは一つ、その理由を説明してやることだ。信仰の不足、懺悔の不履行、償いの必要。何でも良い、何でも良いんだ。『お前のここが悪かったのだ』と言ってやり、『悔い改めよ』と諭すこと。

 進路を示すことが、船乗りの救いとなるのだよ、シンジ・カルヴァトス」

「そんなものが、救いになるのか?」

「なるとも。迷える者にとっては、な。そしてだからこそ、あのとき、私の救いは間違っていた」


 力強い説法の末に、スフレ司教の瞳に後悔の色が瞬いた。

 彼の救いは、彼自身を救いはしなかったようだ。


「アンドリュー・クォーツ、その妻テレサ・クォーツ。彼らは魔術を解する者であり、そして――救いを求める者だった」

「魔術師が、教会に救いを?」

「魔術師とは、才能だからな」

 ネロの驚きに、シンジは頷いた。「魔術を操る才能が、魔術師になる条件だ。信条や、経歴にはあまり意味がない」

「その通りだ。彼らは何よりも神を信じる者であり、不意に目覚めた魔術の才に困惑していたのだ」

はぐれ魔術師アウトサイダーか」


 シンジはため息を吐いた。

 次元の狭間から世界を観測し、偶然生まれ落ちる魔術師を捜索し誘引する【マレフィセント】だが、その活動は完全ではない。

 時として、その才能が見逃されてしまうこともある。多くの場合は適切な訓練を経ないため、その才能の芽は枯れ果てるが、不幸な偶然の末に、稀に、実を結んでしまうこともあるのだ。


 覚醒は不幸を招く。魔術の才能は、それまでの全てを塗り潰し、あまりにも呆気なく、魔術師になる、以外の未来を踏み潰してしまうのだ。


「彼らの場合は、恐らくは結婚が鍵となったんだろうね。異なる因子しか持たない二人が、二人揃うことで、眠っていた才能が目を覚ましてしまったんだ」

「クォーツの変貌は、誰より彼ら自身を脅かした。良くはしらんが、魔術師のみる世界と私たちの見る世界とは違うのだろう?」

「訓練しないと、元素エレメントばかりが目に入る。そうだな、常に点滅するランプが全ての物にくっついていると思ってくれれば解りやすいか」

「騒がしい視界ですね」

「訓練さえすれば、それも落ち着くんだがね」

「彼らには、そんな機会はなかったのだ。だから、私のもとに訪れ、救いを求めた」

「貴方は、拒んだのか?」

「……二十年前だ」


 スフレ司教はカップを持ち上げた。

 口に運ぶこともなく、その茶色い水面をじっと見つめている。


「当時の私は、まだまだ力無く、未熟だった」

「拒んだのか?」

「手に余る、と思ったのだ。それは正しい分析だったと、今でも私は思っているが、しかし、その後の選択に関しては、間違っていたと言わざるを得まいな。私は――当時の上司に、彼らのことを相談したのだ」

「告白を、他人に漏らしたのですか?」

「仕方がなかったのだ! 誰も、魔術師のことは知っていても、魔術師ことは知らなかった!」

 叫んだスフレ司教は、唐突に肩を落とした。「そう、誰も知らなかった。正しいことを知らぬのに、正しく対応できるわけがなかったのだ」


 あぁ、とシンジは察した。


 教会は救いを持っていた。

 信徒たちは皆、救われない理由を知っていた。信心不足、詰まり、自己責任だと思ったのだ。


 救われるのは信心の成果。

 救われないのは、信心の欠如。

 だから、

 そんな風に、彼らは信仰した。そして、進行したのだ。


「悲鳴は、聞こえなかった。祭りの掛け声か、或いは酒を飲んだ誰かがはしゃいでいるのだと、そんな風に思ったよ」


 コーヒーの表面に二十年前を見詰めながら、スフレ司教が淡々と言う。


「異常に気付いたのは、煙を見たときだ――立ち上る黒煙の激しさに、それがクォーツの家の方向だと思ったときに、私の中で残酷な結論が組み上がったのだ。

 ……辿り着いたときにはもう、家は完全に焼け落ちていた。手に手に武器を持った町人たちが、あぁ、二人を取り囲んでいたよ。正確には、二人ものをね」


 シンジの脳裏に、その夜の光景がありありと浮かんできた。

 怯え、震える妻を励ます夫。

 窓の外に連なる松明の群れ。揺らぐ明かりに照らされた人々の目に浮かんでいるのは――憎悪と嫌悪と、そして熱狂。


 誰かが火を点ける。


 潮風に煽られ火勢は一気に家を包み、穏やかな営みを灰へと変える。

 堪らず飛び出した二人。狂暴な火から逃げた先は、それよりも狂える暴徒だった。


「ひどい有り様だったよ。テレサの身体はぼろ切れ同然で、アンドリューの方は、首をはねられ、身体は燃やされていた。

「……むごい」

「むごいな、それに、その後が最悪だった。先程も言ったがね、クォーツ夫妻の懺悔を話した相手は一人だけだ。その一人は私の上司であり、詰まりは、

!」

「……男は知っていたのだよ。クォーツ夫妻の告白は、魔術師としての覚醒を意味することを。だから、彼は自らの職務を実行したということにした。異端審問官、魔術師狩りだよ。

 ……二人は魔術師だった、好都合なことに。男は任務を果たしたと胸を張り、たちは不問に処された」


 がしゃん。


 ネロの手の中で、カップが無惨に握り潰された。

 コーヒーに続いて、破片どころか砂にまで砕き尽くされた残骸が、床に溢れていく。

 真顔でそれを見下ろしながら、ネロは感情の籠らない声で失礼、と呟いた。


「君が怒るのはお門違いだぞ、エリクィン司教。君もまた、異端審問官なのだからな」

「ならば、。我邪悪を討ち取ったりと、騎士のごとく叫べば良い。それも出来ないくせに、誤魔化すために任務などと嘯くのは赦されません」

「落ち着け、ネロ」

「落ち着いています、教授」

「そうは見えないが」

「教授こそ、何を落ち着いているのです。貴方こそ、怒るべきでしょう」


 気持ちは解るが、とシンジは頷いた。ネロの怒りはもっともだし、シンジにも思うところはあるが、それは既に終わった話だ。

 ちらりと、シンジは老人を見る。スフレ司教、この町の責任者を、勤めてきた人物。


 彼は事情を知っていた。

 その後、彼が責任者になった。

 先代はどうなったのか。何事もなくスフレ司教にあとを譲ったとは思えない。


 怒りを抱くべき人物は一人だけで。

 恐らく、彼はその怒りを晴らしたのだ。だから、あとを継いでいる。


「二人の遺体は、教会のものではない墓場に埋葬していたのだが、何者かが掘り起こしたのだな」

「それも、事件の極めてすぐ後に。あの魔術には現状保持の効果はあるが、時間逆行までは起こせない。死体が真っ当な外見を保っていた以上、掘り起こされたのは埋葬後直ぐだろう」

「……或いは、かもしれんな」


 スフレ司教の瞳に、力が戻った。しかしそれは、暗い、不安定な強さにも思えた。


「墓の管理者に話を聞こう。埋葬時の状況を、詳しく聞かなくてはな」

「墓はどこにあったのですか?」


 ネロの問いかけに、スフレ司教が口を開く。


 そこは、驚くべき場所だった。

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