第15話二日目、昼―3
「お呼びということだったが、何用かね?」
再び現れたスフレ司教の顔には、苛立ちが色濃く浮かんでいる。「まさか一介の神父に呼び出されるとは思わなかったよ。さすが聖都の審問官は変わっている」
「申し訳ありません、スフレ司教。その、どうしても必要なことでして……」
老司教の機嫌を損ねるのは得策ではないと思ったのだろう、珍しくネロが気配りを見せる。
宥めるような口振りの合間に、ちらちらと、ネロはシンジの様子を窺っている。こんなところで余計な挑発をするな、とでも言いたいのだろう――的外れなことを。
「別に、貴方の力がどうしても必要なわけではなかったが」
「きょ、い、いえ、ブラザー・カルヴァトス。そのような物言いは……」
「必要だったのは、貴方の目だ」
「目だと?」
ネロは焦り、スフレ司教はますます不愉快そうに顔を歪めた。
不愉快そうにだ、全く。
余興のつもりなのだろうか、実に下らない。徐々に高まる苛立ちを抱えながら、シンジは死体を指し示す。
「僕がこれからすることを、貴方の目で見ていてもらいたい。でないと、後からどんな難癖をつけられるか解らないからな」
「なんと無礼な!」
司教はとうとう声を荒げた。「私は序列に厳しい方ではないが、君の態度は目に余るぞ、ブラザー・カルヴァトス!」
「私たちは皆、秩序を司る神に仕えています。そのような不正を行う筈がないじゃあありませんか」
どうかな、とシンジは小さく笑う。
秩序とは法則に支配されること、規則性を持つことだ。公正さの象徴ではない。天秤は常に重い方に傾く、それが秩序だ。釣り合うことではない。
二人の聖職者を前に、魔術師の皿はひどく軽いものだ。
「不正とは、立場が平等でこそ起きるものだ。そこでスフレ司教。僕と貴方とは平等かな?」
「等しく神の使徒だ。神の前に、信じる者はすべからく平等に扱われる」
頬に、ネロの視線が突き刺さる。教授、何を言うつもりですか、そんな問い掛けが針のように向けられているのを、シンジは正確に感じ取っていた。
ついぃっと、シンジは口の端を吊り上げた。
何を言うつもりかだって? 余計なことをだよ、我が友よ。
「それはご立派だな」
シンジは、挑発的に言う。「では、僕もそうかな?」
「さて、君は、神を信じているのなら」
「信じてるさ。信仰してはいないがね」
「どういうことかね、ブラザー? 君の十字架は何かの飾りか?」
「元から、十字架は
「不信心なことだ。随分と立派な造りだというのに、ロザリオが哀れだよ」
「……なあ、そろそろ、茶番は止めようじゃないか」
シンジは、傍らに寝かされた無惨な遺体を眺めた。
安眠を妨げられた彼女に、これ以上三文芝居を見せたくはなかった。早く終わらせて、早く眠らせたい。
シンジは再び視線をスフレ司教に向けた。
「貴方は知っている、だから、僕を呼んだのでしょう?」
「……ふふ」
小さな笑い声が、老司教の口から溢れた。
それは徐々に大きくなり、やがて豪快な大笑いを響かせていく。
やはり、そうか。
「ははは、ははははは、ふふ、今時の若者は生意気だな?」
「それが若さですよ、御老体。若者の大切な武器だ」
「それで己の手を傷付けなければ良いがね」
「どういうことですか、これは?」
展開に付いていけないらしいネロが、困惑を浮かべながら言う。
シンジはため息を吐いた。本当に、駆け引きに向かない男だ。
「簡単な話だよ、ネロ。司教は僕の嘘を見抜いておられたのさ。そうでしょう?」
「それはそうだろう、カルヴァトス。シンジ・カルヴァトス教授」
「教授のことを、ご存じだったのですか」
「私は警備責任者だぞ、エリクィン司教。そんな人間に講演予定のある魔術師が本名を名乗って、解らない方がおかしい」
シンジは顔をしかめた――なるほど、それは確かに。
先程までの苛立ちは、やはり演技だったらしい。顔から怒りを吹き飛ばして、スフレ司教はにやにやと、悪戯の成功した子供のように笑んでいる。
「寧ろ、噴き出さないようにするのが大変だったよ、魔術師。変装してくるだろう、とは思っていたが、その格好をした上でまさか、本名を名乗るとは思わなかった」
「貴方が、魔術師にご興味のある方とは思えなかったのでね」
「大半はな、しかし、君は別だよカルヴァトス教授」
どういう意味だろうか。
図りかねて眉を寄せるシンジに、スフレ司教は不意に笑みを引っ込めると、鋭い眼差しを向けてきた。
「ウィータだったかね? 魂の元素、生命の操作の可能性。あらゆる魔術の中で、君が見付けたものが最も冒涜的だ」
その、老いて痩せた肉体から涌き出る威圧感に、シンジは思わず息を呑んだ。
今更にして漸く、シンジは、目の前にいるのが自分の歳の二倍以上の時間を戦いに費やした、熟練の異端審問官であることを思い出した。
逃げ場の無い地下室で、唯一の出入り口であるドアの前に立ち塞がるスフレ司教が、怪物のようにさえ思えてくる。
彼がその気になったら、ネロはともかく自分は確実に死ぬ。そんな、あまりにも明確な死の気配が、シンジの脳裏に刻まれる。
「君が思う以上に、君の研究は波紋を生み出している」
威圧の効果が充分に現れたのを見て、スフレ老人の顔に再び笑みが戻る。「気を付ける、ことだな」
さて、とスフレ司教は呟くと、自らドアの前を離れて遺体に歩み寄ってきた。
「では聞こうか。何を私に見せたいのかね、魔術師?」
シンジとネロは、思わず顔を見合わせた。それから、揃ってため息を吐く。
思いは同じだった。
全く、喰えない老人だ。
「……この遺体には、どうやら、ある魔術が掛けられているようです」
「ほう」
気を取り直して解説を始めるシンジの言葉に、スフレ司教が白々しく応じる。「そうだったのかね、気付かなかった」
「ここを見てください」
シンジは無視して遺体に近づくと、その脇腹を示した。最も深く、広く切り裂かれた箇所だ。
「記号が刻まれているのが解りますか?」
ネロたちが近付いてきたので、シンジは傷口を広げて示した。「ほら、ここです、この皮膚の裏側」
「……そのようだ」
「何の記号でしょうか、教授?」
「これは、土の印だよ」
瑞々しい赤色の、皮膚の裏側。
鮮やかな赤色に刻まれた、変形した文字にも見える記号は、基本四元素の土を表す魔術的記号だ。
「同様に、こちらを見てくれ。太股の、深く斬られた部分を」
ネロとスフレ司教は、嫌そうに顔を見合わせると首を振った。
「風の記号だ、見事だぞ? 骨に彫ってある」
「遠慮しておきます、教授」
「信用するとも、そうか、魔術的記号が二つもあるのか」
「二つじゃない」
遺体には、必要以上に傷が多いが、中でも過剰に深い傷跡が四つある。
それぞれを捲ると、ある場所は筋肉に、またある場所は内蔵に、それぞれ異なる記号が刻まれているのだ。
「魔術の痕跡を隠すために、深く傷付けたのか?」
「或いは、傷があったから利用したのか、それは解らないが。いずれにしろこの遺体には、土、風、火、水の四元素を表す記号が刻まれています」
「その意味は?」
「安定性」
古い魔術の考えでは、全て物質は四つの元素で構成されているとされた。
その四つを意味する記号を組み合わせて刻むことで、犯人は、この遺体に霊的な安定性をもたらしたのだ。
「何故、そんなことを?」
ネロが首を傾げる。「安定性も何も――この女性は、既に死んでいます。魂を失った肉体に、どのような安定が与えられるのですか?」
「……待ちたまえ、カルヴァトス。それでは、まさか……」
にやりと、シンジは笑みを浮かべる。
スフレ司教の顔には一定の理解と、それを打ち消すような困惑とがない交ぜに浮かんでいる。理屈としては解るが、信じたくないという思いなのだろう。
「そうだ、ネロ。君の言う通り、これは死体、魂を失った脱け殻だ。つまり単なる物体に過ぎない。操作は、容易なんだよ」
シンジは、愛用の万年筆を取り出した。「証拠は、今から見せるよ」
「なにか手品をするつもりなら」
スフレ司教が淡々とした口調で言った。「そのコートとセーターは脱ぎたまえ、カルヴァトス。この町の、いわゆる教会向けの衣服には、魔力を通さない効能がある。着ている限りは、魔力を外には放てないぞ」
シンジは目を見張ると、改めてコートを検分した。
なるほど良く見ると、生地には円を貫く十字の記号が全面に刻まれている。秩序十字。神の御業でない神秘を否定する印。
「だから言ったろう。それを着た上で名乗るだなんて、吹き出しかけた、と」
肩を竦めるスフレ司教の言葉に、シンジは何の反論も出来ずに黙り込んだ。
正しく仰る通りだ、教会一有名な魔術師が神秘殺しの服を纏って教会に現れて名乗るだなんて、見事なまでの笑い話である。
「……一応言い訳をしておきますがね、教授。私は知りませんでしたよ?」
ひきつった笑いを浮かべるネロを、シンジは睨み付ける。それから、勢い良くコートを脱ぎ捨てた。
「光よ、新たなる始まりよ」
身軽になると、シンジは改めて、魔力を万年筆に流した。
詠唱に合わせて幾何学模様が明滅し、単なる文房具を
「旧き迷信を照らせ、朽ちかけた神秘を暴け」
魔力が充分に循環したところで、キャップを外す。
ペンの腹部分を軽く叩くと、露になった先端からインクの滴が一滴、染み出してきた。
魔力の循環に合わせ、黒い滴が不自然に、大きく膨らんでいく。インクに溶かした銀、その金属成分にシンジの魔力が混じり合い、溶け込んでいるのだ。
「未来よ、過去を去らせ、白日に晒せ、『
詠唱の完成と共に、今や砲弾ほども大きくなったインクが、遺体へと飛び掛かった。
遺体の真上でインクは弾けると、その全身に黒い雨を降らせる。魔力の込められたインクは遺体の表面を艶かしく這い回り、やがて四つに別れ、それぞれ魔術的記号に到達した。
「四元素の象徴で、遺体は安定性を獲得した。万物に平等に流れる時の流れに、不変という形で抗ったんだ。だから――解除するには、それを上書きしてやれば良い」
「時の流れに抗った……? どういう意味ですか?」
ネロは困惑し、スフレ司教は、何か思い当たる節があるのか、鋭利な視線を遺体に注いでいる。
解説が必要なのは、いつものように友人だけらしい。
「調書を、良く読んだか? 遺体発見時の記録だ」
「そこには、信憑性のある記述はありませんでしたが……」
「そうだな、そしてそれ以上に足りないものがあった」
遺体の上で、黒い滴が拡大と縮小を繰り返す。掛けられていた魔術とシンジの対抗魔術とが、ぶつかり合っているのだ。
その進捗状況は、好ましいものだ。まもなく、魔法は解けるだろう。
「血だよ」
魔術の進み具合を見ながら、シンジは答えを明かした。「これだけの傷なのに、この調書には、現場に血痕があったという記述が一ヶ所もない」
「あ……」
「魔術のことを考えなければ、どこか別の場所で殺害したあと現場に運んだと思うだけだが、魔術が絡めば答えは更に単純になる。この遺体は、出血を禁じられていたんだ」
シンジはそっと、自身の指先を擦った。
傷口を広げた筈の指先には、何も付着していない。付く筈がない。遺体は、魔術によって安定させられているのだ。何が起きても、その安定は崩れない。
スフレ司教は、その違和感に気付いていたのだろう。だから、魔術師の関与を疑い、部外者であるシンジのことを疑ったのだ。
一際大きく膨らんだ滴が、唐突に弾けた。
霧となって消えていくインクを見送りながら、シンジは頷いた。
「さあ、魔法が解けるぞ」
言い終わるか否か、その刹那。
遺体が微かに震え、そして――砕けた。
それまで塞き止められていた時の流れが、哀れな死体に一気に襲い掛かったのだ。
皮が、髪が、肉体の表面が瞬間的に乾燥していく。
筋肉が萎み、血が蒸発し、乾燥した表面が肉体の内へ内へと収縮する。
瞬く間に、死体は時の流れに飲み込まれて消えた。腐るのでもなく、壊れるのでもなく、それが当たり前であるかのように自然に、消えたのだ。
「……どうやら」
すっかり肉が消え、骨だけが残った石のベッドを一瞥し、シンジはポツリと呟いた。
「ずいぶん昔から、この事件は始まっていたようだな」
二人から返事はなく。
かたん、と音を立てて、白骨が崩れる音だけが、部屋に響いた。
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