第13話二日目、昼
教会までは、歩いてもそれほど時間はかからないらしい。
のんびり歩いても一時間、というネロの言葉をひとまずは信用することにして、シンジは再びリシュノワールの町に出た。
高く上った太陽の影響だろう、昨日よりは風は控えめだった。
とはいえ、早朝よりはまし、という程度だ。コートの前をしっかりと合わせながら、シンジは、すっかり行きづらくなった例のカフェで買い求めたホットサンドに噛み付いた。
ゴマを混ぜ込んだ独特な色合いのパンに挟まれているのは、ほぐしたローストチキン、キャベツの酢漬け。
それらを刻んだキノのソースで和えた、程好いしょっぱさが魅力的な一品である。
所々粗く刻まれたキノの塊に当たると、途端に塩辛くなるのはまあ、ご愛敬だ。
「のんびりしている場合でしょうか、教授」
「僕が審問官なら、急ぐべきだろうがね」
急かすようなネロの言葉に、シンジは落ち着いた様子で返した。「あいにく、違う」
「それはそうですが」
「誤解されたくないんだが、別に、手を抜くとかそういうことではないよ、ネロ。僕が言いたいのは詰まり、この間にも彼らは捜査を続けている、ということさ」
何を当たり前な、と言いたげなネロに、シンジはくすりと笑って首を振る。
彼らは勤勉だ、ということは詰まり、時間が経てば経つほど情報は集まっていく、ということだ。
シンジが審問官の一員であれば、勿論その人海戦術に加わるべきだろうが、今回シンジに求められているのはそんな単純労働ではない。どちらかというなら、その成果を集めて分析する役割である。
「シチューを最高に味わうには、じっくり煮込むことだ。煮込めば煮込むほど、味は深まる」
「なんというか、贅沢なやり方のようにも思えますが」
「僕たちは客だよ、ネロ。精々もてなして貰わなくてはね」
「……実は、信用していないだけではありませんか?」
探りを入れるような発言だ。やはりそうか、とシンジは視線を送り、口だけで笑う。
「感情は、鏡だ。他人の感情を予想するとき、参考にするのは自分の感情に過ぎない、相手がどう思っているのか、僕はこう思ってるけど、というわけだね。嘘つきほど敏感になる……ネロ、君が、『僕は教会を信用していないのでは』と思うということは、君の中に根拠があることだ」
シンジはコートと、それからセーターを指でつまんだ。
教会御用達の店で買わされた、黒い衣装。そこにロザリオをぶら下げていれば、少々胡散臭いが聖職者に見えなくもない。
この買い物が偶然だったと、今さらシンジは思っていない。
「……最初は、あくまでも用心のつもりでした」
問い詰めるシンジの視線に、ネロは渋々頷き、肩を落とした。
「この国において教会はかなりの権力を有していますが、中でも、この町はそれが顕著です。信者の割合が百に近いということは勿論、祭りのために、詰めている審問官の数も多い」
この町に亜人がいない、という話を、シンジは思い出した。
町を作る時点で、教会はそれだけの影響力を有していたというわけだ。そして、未だにその姿を見かけないことを思えば、影響力は増しこそすれ減ってはいまい。
「いわゆる、昔かたぎの信仰者が多いのです。神を信じぬ者を許さず、人間でない亜人を認めず」
「異端者も認めず、か」
「二十年ほど前には、暴動事件がありました。魔術師の一家が近所の住人によって、私刑にあったのです。許されないことですが、しかし当時の教会はそれを黙認したのです」
「僕に、まるで神父のような服を着させたのは、それが理由か」
「異端者代表みたいなところがありますからね、魔術師殿は」
冗談めかしてやれやれと、大袈裟に肩をすくめて苦笑すると、ネロは不意に表情を消す。
「しかし今回、妙な事件が起きた。淡く光る幾何学的な模様に、死体を残して消えた悪魔。異端の影を感じるには充分すぎる程です」
「そして彼らもそう思う、か」
魔術師が事件に絡んでいるとしたら、彼らは誰を疑うだろうか。
町に住み、同じ神を信奉する錬金術師か、それとも旅行で現れた無信心魔術師か。
答えは明白だ。だから、ネロはシンジのことを必要以上に隠そうとした。
「本来なら、放置して解決を待つところですが……しかし残念ながら、事態は深刻な方向へと推移しています。魔術に対して知識でなく偏見を持つこの町の審問官では、解決することは不可能でしょう。ですから、」
「皆まで言うなよ、解ってる。……僕としても、俗世に余計なちょっかいを出す魔術師を放置はできないさ」
「感謝します、教授。貴方の道行きに、神が共に在らんことを」
神よりも、必要なのは腕っぷしと頭脳だ――盲信に裏打ちされた猛進をいなすには、そんな、現実的な加護が必要となるものである。
そんな言葉を呑み込むくらいの良識は、シンジの中にもあった。
リシュノワールの教会、アレキサンドライト教会は、町の北西に在る。
チキンサンドを食べ終えて、丁度ホットワインが欲しくなるくらいの時間の後辿り着いた教会は、神という存在を分析対象とする不敬者のシンジにしても思わず襟を正すほどの威厳に満ちていた――それは、要するに、金がかかっている、という事でもあった。
町全体と調和する純白はかなり大きく、ホテルとほぼ同じか、尖塔を考えれば僅かにこちらの方が勝るかもしれないほどの高さを誇る。
デザインそのものは極めて伝統的な、スタンダードな教会でありながら、とにかく大きいのである。
信仰というものの、一つの極致だ。素朴で純真で清潔で――けれど、集まると偉容となる。
「異端審問会は、裏手になります。こちらへ」
「なんだ、これほど立派なのに、観光は無しか?」
「礼賛の時間さえありませんよ。そして、ここから先は態度を控えてくださいね? 審問官は、熱心な神の僕なのです」
「僕だって、神を信じない訳じゃあない。卑しくも魔術師、旧くは神々のものだった神秘を操る魔術師なんだ。上位存在に対する尊敬の念くらい、持ち合わせているよ」
「その思いが、相手にも伝わることを祈っていますよ」
とぼけた調子のネロに、シンジも頷く。
互いに、解っているのだ――祈りが届かなければ、少し酷いことになる、と。
荘厳な教会の裏手に回る。
観光客や、或いは礼賛に来たのだろう町民たちと何度かすれ違ったが、彼らは皆一様に、上品に頭を下げて行くばかりだった。
彼らの敬うような視線は、ネロの肩から掛けられた深紅のストラに向けられているようだ。
シンジに向けられる視線には、ストラに対する畏敬の十分の一さえ、熱意が含まれていない。
訳もなく空しい気分に陥りながら、シンジはネロのストラを眺めた。
「異端審問官の証に、詳しいようだ」
「教会と共に、この町は育ってきたのですよ」
「その通り」
ネロの生真面目な返答に、見知らぬ声が応じた。
初老の男性。その肩に見慣れたストラが座しているのを見て、シンジは警戒しながら半歩下がる。
入れ替わりに、ネロが前に出た。
「スフレ司教、またしても出迎えとは恐縮ですね。……ブラザー・カルヴァトス、ナバレ・スフレ司教です」
「……カルヴァトスです、スフレ司教」
相棒のわざとらしい目配せに辟易しながら、シンジは出来る限り平静を装って、スフレ老人に頭を下げた。
緊張が、シンジを冷やしていく。
宗教は、とかくマナーの多い社交場だ。自分の一挙手一投足が何らかの無作法に当たらないか、疑心暗鬼が心の中を闊歩していた。
言葉遣いはどうだった?
頭を下げる角度は、手の位置は、名字だけ名乗るのはおかしいのか?
精神が冷えていくのに反して、じっとりと、脂っぽい汗が握り締めた掌に浮かび上がる。顔に浮かんでいないか、鏡を見たくなる衝動を堪えながら、シンジは静かに、相手の反応を観察した。もしかしたら、必要か――ポケットの万年筆を、強く握り締めた。
ナバレ・スフレ司教は、少なくとも表向きは、シンジの挨拶に疑念を抱かなかったようだ。町一つを任されるに足る重鎮は、その立場に相応しく重々しく頷いた。
「スフレだ、ナバレ・スフレ。ようこそ、来てくれて感謝する、ブラザー・カルヴァトス」
その老練な笑顔から何らかの情報を読み解けるほど、シンジの観察力は優れてはいなかった。
あとはもう、祈るしかない。
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