第12話二日目、朝ー2
「……悪魔?」
ネロの言葉に、シンジは首をかしげた。「良く解らないな、どんな生物なんだ?」
「生物というか、何というか……いわゆる、伝説上の生き物なんですが」
教会で話を聞いたあと、ネロは早速ホテルに戻った。
事件に新たな動きがあったこと、そして、それを受けての自身の決断を、恐る恐る告げたのである。
幸いシャワーだけは浴びたらしい、濡れた髪を乱雑に掻きながら、シンジは簡単に頷いた。
随分と気楽な仕草である。巻き込まれることは、気にしていないらしい。
「まあ、元々教会とは縁遠い魔術師稼業だ。別に恨まれたって問題はないさ。寧ろ、ここまで事態が切迫したのに協力しないとすれば、お前の立場の方が心配だよ」
「私の立場など、どうとでもなりますが……」
「お前は僕を心配してくれたようだがね、ネロ。組織は内側にこそその牙を向けるものだ。外部の異端者よりも、内部の裏切りに対して厳しいだろう」
眼鏡の奥の瞳が、眠そうに瞬いた。
あくび混じりの返答は、気にするほどのことでもない、ということなのか、それともまさか、眠気で頭が回っていない訳ではないだろうか。
とにかく、ネロは頭を下げた。
「ありがとうございます、教授。何はなくとも貴方の身だけはお守りしますので」
「心強いよ、だがまあ、最悪の場合僕はさっさと【マレフィセント】に引っ込むから、気にしないでくれ。それに、危険な殺人犯を放置するよりは気が楽だ」
しかし、とシンジは顔を曇らせた。
「悪魔、というのはなんだい? 神話生物の中にもそんな名前のものはいなかったと思うが」
「聖書の中に描かれている、架空の生物です」
部屋の隅に備え付けられたポットからカップにお湯を注ぎ、ネロはそこに茶色い結晶を入れる。
結晶は直ぐ湯に溶け、湯気に香りが混じり始める。簡易式の珈琲結晶だ、安価で、便利で、そして味気ない。
まあネロもシンジも、珈琲の味にさして拘るタイプでもない。差し出したカップをシンジは抵抗無く口に運び、満足そうに頷いた。
「天使と対を為す、悪の化身です。あらゆる悪徳を司り、人にそれを唆すと言われています」
「邪神の遣いか?」
「いいえ」
トレーの上の手付かずのパンを、ネロはシンジの前に運んだ。
ライティングデスクに腰掛けるシンジから少しはなれて、多少は整理されたベッドに腰を下ろすと、ネロは懐から聖典を取り出し、手慣れた様子でページを捲った。
「『それはあらゆる神と敵対し、あらゆる善と対を為すもの。邪よりも深いところへ、人の心を導くものなり』。邪神といえど神は神、悪魔は、それとさえも敵対しているのです」
「邪よりも深いところへ、か」
「いわゆる地の底です」
神々は天に座し、人々の営みを見守っている。邪神さえ、夜の闇に潜むとされ、詰まり地上よりも上にその住み処を持っている。
悪魔は、地上よりも遥かに下に、根城を置いていると神は述べているのだ。
「宗教家としては正に大敵だな」
飾り気の無い塩パンを噛みながら、シンジは皮肉げに笑った。「僕らを追いかけている場合じゃないな、それは」
「事態は深刻です、教授」
対称的に、ネロは沈鬱に言葉を固くした。「凶悪な殺人事件の犯人が、悪魔などというあり得ない証言が、現状唯一の手がかりなのですから」
「あり得ないのか? その、極めて限定的ではあるが、天使はあり得たんだぞ?」
「シックルの話ですね」
【
神の名の下に殺戮を行った、あらゆる生命の終焉を告げる天使。神話を終わらせた刈り取りの天使の正体について、シンジもネロも、非公式ではあるが、一つの答えを持っていた。
確かに、天使がいたのならば、悪魔がいてもおかしくないと思うものかもしれないが。
シンジの思考の正当性を認めつつ、ネロは首を振る。
「天使と悪魔とでは、はっきり言ってまるで違います。神によって様々な役割を課せられた天使たちについては、聖書には幾つも記述があります。しかし、悪魔は、聖書でさえ否定されているのです」
「否定? どういうことだ、先程の文書じゃ、興味深い性質を述べていたように思えるが」
「あの文章は、こう続きます。『されど人々の訴えに、神は首を振りたり。悪魔は影にして風、汝らの心が生み出した幻想にすぎぬ』。悪魔のせいにして不信心を弁明する者たちに、神は、そんなものはいないと言い切っているのです」
「いない筈の存在、か。僕の専門分野にも、近しい存在かもしれないな」
シンジは魔獣学者の中でも、過去に存在して絶滅した神話生物の専門家である。いた筈だ、という論理で過去を探る彼にとっては、幻想もまた証拠の内なのかもしれない。
「現在では、いない筈の存在として、あり得ないものを見たときなどに、悪魔、という呼び名は使われています。要するに、目撃者は妙なものを見た、と言っているのと何ら変わらない、ということですよ」
「ということは、可能性は二つだな。彼らは幻想を見たのか、或いは、そうとしか思えない何かを見たか。調書はあるのか?」
「えぇ、こちらに。ですが、あまり参考にはなりませんよ?」
差し出した数枚の調書を、シンジはじっくりと読み始めた。
珈琲に口をつけながら、ネロは、シンジがいつ吹き出すか期待しながら待つことにした。ネロ自身も何度も読んだが、あそこに書かれているのは、娯楽小説よりも荒唐無稽なお話だ。
内容としても、深みのある物語ではない。
ネロのカップに半分ほど珈琲が残る内に、シンジは顔を上げた。
ネロは眉を寄せた。こちらを向くシンジの目は、何故だか随分と険しい。
「この目撃証言を、教会の異端審問官は読んだんだな?」
「えぇ、ですが、その」
「相手にはしなかった。ふん、よりにもよってこの町にいながらそれか。勉強不足だな」
「え?」
目を見張るネロに、シンジはくすりと笑って、それから言った。
「これは、悪魔なんかじゃない」
「情報を、整理しようか。目撃者はどちらの事件でも、同じと思われるものを見た。そうだな?」
「えぇ、そのようです」
最初の事件、生首が発見される前に、広場を立ち去る人影が目撃されている。
大柄な体格の男性で、この寒いのにまともな服を身にまとわず、筋肉質な素肌を晒していたらしい。
「単なる素肌では、無かったようだな」
シンジは調書の一枚をつまみ上げると、ひらひらと揺する。ネロも、その内容は記憶している。
「『肌一面が、何やら青白く光っていた』――それが、信じられない早さで走り去ったと」
「それも、ただの光ではなかった。二回目、詰まり昨夜の事件では、目撃者はこう言っている。『光は細い線で、何か、幾何学的な模様をしていた』と」
「刺青のようですね」
一度目よりも間近で目撃した彼らは、その刺青が上半身ばかりか、剃り上げられた頭全体に及んでいることも証言してくれた。詰まり、晒している肌の全てが、不気味に光る刺青に覆われていたのだ。
まるで、悪魔のように。
「どちらも、悪魔はそれだけ目立つ容姿でありながら、直ぐに姿を消している。『闇に溶けるように消えた』と、ここにも書かれている」
「えぇ、だからこそ、そんなことはあり得ないでしょう」
幾らなんでも、目撃者は全身刺青という格好が悪魔だと言っている訳ではない。
そんな格好の大男が、突然現れてまた、突然消えたから、真っ当な存在ではないと主張しているのである。
人は消えない。消えたとしたら、それは人ではないのだと。
ネロの言葉に、シンジは首を振る。
「確かに、人は消えないさ。僕の研究している神話生物にも、風景に溶け込む特徴を持つ生物はいるが、一瞬で消え去るものはいない。
だけどね、ネロ。消えたように見せ掛けることは出来るんだよ。特に夜、全身が不気味に光っている相手ならね」
「……あ」
「そう。光を隠せば良い」
暗いところでは、人の目は光に良く反応してしまう。
いきなり現れた発光する刺青なんて、ただでさえ目を引くようなものだ。人々の視線は、刺青に集中してしまうだろう。
その光が、突然消えたら?
人々は相手そのものを見失うだろう。その隙に身を隠せば、悪魔の出来上がりというわけか。
「わざわざ露出の激しい服装なのは、その方が目を引くからだ。コートを羽織るだけでも、多分、見えなくなるだろうね」
「なるほど……」
仮説だがね、と嘯くシンジに、ネロは呆れたような視線を送った。
「そんなことを言いながら、教授。さては貴方は、もう一歩進んでいますね?」
「……何の話だい?」
「誰か、ということです」
先程の推理が正しかったとしても、それは、悪魔は人間だということしか示さない。
だが、シンジの態度にはどこか余裕がある。顔の見えない殺人犯に対して、何か、切っ掛けを持っているような気がするのだ。
ネロの視線に、シンジはため息を吐いた。
「未だ仮説だ、口には出せないと言ったら?」
「魔術師に告白させる手際をご教授致しましょうか、教授?」
「単なる仮説だが。しかし確かに、気になることがあるよ。それを確かめるには、死体を調べる必要があるが……」
そのためには、教会に行く必要がある。
「ネロ・エリクィンより心の広い異端審問官は、この町にいそうかな? 魔術師が死体を検分したいと言って、喜んで通してくれるやつだが」
「心当たりはありませんね、しかし、手段はありますよ、教授」
ネロは微笑みながら、ベッドに投げられた衣服を示した。
初日に買っておいた、教会御用達の黒いコートとセーター。
嫌そうにそれらを一瞥するシンジに、ネロは更に、ポケットから銀のロザリオを取り出して差し出した。
「変装は完璧ですよ、教授。さあ、異端審問官の事務所にご招待といきましょうか」
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