第11話二日目、朝
「これはこれは、何とも、まぁ……」
リシュノワール滞在二日目にして早くも通常運転に戻ったシンジを、ネロは呆れ声で表した。
簡素だったはずの部屋は、好奇心の権化たる魔術師によって変貌を遂げていた。
床には足の踏み場もなく本がばらまかれ、壁にはメモやノートの切れ端が浮かんでいる。壁に穴でも開けたのでは、とネロは不安になったが、良く見ると知識の断片は何の支えもなく宙に留まっていた。
恐らくは何か、魔術を用いているのだろう。ピンを刺すより常識的な行為と思うか、たかだか紙切れのために御大層だなと思うかは、難しいところである。
踏み込んで良いものかネロは悩み、結局、ドアの直ぐ近くで部屋を覗き込むだけに留めた。
「教授、起きてらっしゃいますか、教授?」
「…………」
どういう意図があるのか不意に動き回る書類の壁を透かし見ると、デスクに向かう見慣れた背中が目に入った。右手がペンを走らせ、左手が忙しく本を捲っている。
返事はないが、起きてはいるらしい。ため息を吐きながら、ネロは声量を上げた。
「教授! 随分と、劇的なリニューアルですね、教授?」
「……ん、あぁ、ネロか」
漸く気が付いた、とばかりにシンジはちらりと振り返った。
その乱れた髪とシワになっているワイシャツ、そして、開け放たれたトランクに占領されているベッドを順繰りに見て、ネロは再びため息を吐く。
「何やらお忙しそうですが、徹夜ですか?」
「もしかして、もう朝か? だとするなら、徹夜かな」
大きく伸びをする魔術師の身体からは、ばきばきという悲鳴が聞こえてくるようだった。
昨夜部屋に帰ったのが十時前だったから、最悪の場合十時間ほど同じ姿勢で過ごしていたのかもしれない。
シャワーくらいは浴びたのだろうか。尋ねるのが恐ろしい質問をネロは飲み込み、代わりに、手にした銀のトレーを示した。
「朝食を、持ってきました。珈琲でしたら部屋で淹れられますので、取り敢えずパンだけですが」
「ありがとう、そこに置いてくれ」
「……ここに、ですか……」
床に広がる本を、ネロは嫌そうに見詰める。これが単なる学術書なのか、下手に触れると危険な魔導書なのか、門外漢であるネロには解らなかった。
対魔術師の専門家として、ネロはある程度の知識は有している。確か警戒すべき魔術の中には、神秘的な力を持つ物体はそれだけで危険だ、という教えもあった筈だ。それらを並べることで、一種の結界を生成するのだと。
しばらく躊躇した後、ネロは仕方無くドアの前の床にトレーを置いた。
流石に旅先のホテルでそんな危険な魔術を行使するほど、シンジ・カルヴァトスという人物が非常識だとは思わないが、しかしだからといって、魔術師の簡易工房にパンを無造作に置けるほど、ネロは豪胆ではなかった。
徹夜した、という状況を把握はしたものの、シンジは特に改めるつもりはないらしかった。
彼は再びお気に入りのライティングデスクに向き直ると、作業を再開する。友人を歓待する様子も、観光に繰り出す様子も無かった。
まあ、とネロは頷いた。どちらかと言うなら、今のところその方がありがたい。
「……私は、教会の方に行かねばなりません。生首を多少調べて、解りません、と結論付けてきます」
「そうか」
「教授、貴方は部屋にいらっしゃいますか?」
「そうか」
「もし出掛けるのでしたら、コートだけは忘れずにお願いしますね」
「そうか」
「……明日は何日ですか?」
「そうか」
ネロはため息を吐いた。旅先だというのに寝る間も惜しんで何をしているにしろ、それは彼の意識を集中させてしまうようなことらしい。
単なる講演の準備、というわけではないだろう。恐らくは、彼らしいお節介だ。
せめてシャワーを浴びて、パンを食べてくれれば良いのだが。いや、この際多くは望まない。水だけでも飲んでくれれば良い。でないと、教会から戻った後で、友人の葬儀をしに蜻蛉返りする羽目になる。
祈るような気持ちで、ネロは部屋を出て、ドアを閉じた。
「おお、エリクィン司教。待っていたぞ」
昨日と同じように、教会の裏手から審問官の領域に踏み込んだネロを、スフレ司教は嬉しそうに出迎えた。
わざわざ入り口で待っていた町の責任者の姿に、ネロは、淡い期待が泡と消えたことを直感した――誤魔化すのにも限界があるし、事件が進展していて自分がお役御免になることを、ネロは密かに期待していたのだ。
残念ながら、スフレ司教が自分を待っていた以上は、事件にはほとんど進展がないということだ。彼はネロの、詰まりはシンジの切り札に、強い期待を持っている。
「早くからすまないな、司教。朝の祈りは済ませたかね? まだならば、私の自室に寄ろうか」
「いえ、ご心配無く。勿論日々の勤めは欠かしていませんから。それよりも、事件についてですが」
「勤勉だな。さすがは【神の力】の誉れ高いネロ・エリクィン、率直に言って、とても助かるよ」
「単に、休暇に戻りたいだけですよ。私一人ならばともかく、今回は友人も一緒ですからね」
先に立って歩くスフレ司教の案内は、実のところネロには必要なかった。
一度通った道だ、死体安置所の場所くらい、既に把握している。
だからこそ、スフレ司教が以前と異なる曲がり角で曲がったとき、ネロはおや、と首をかしげた。
「……実は、事件に進展があった」
ネロの戸惑いに気が付いたのだろう、スフレはポツリ、と口を開いた。
岩盤をくり貫いたらしい地下通路に、老司教の疲れたような声が響く。どうも、好ましい進展ではないらしい。
「お察しの通り、というところか」
「……犯人も、勤勉だったということでしょうか?」
「我々が怠惰だった、とは思いたくないな。しかし現状、そう思われても仕方がない事態だ」
「遺体の残りでも、見付かりましたか?」
「もっと酷い」
吐き捨てると、スフレ司教は古い取っ手のドアを開けた。
ひんやりとした空気が、ネロの肌を撫でる。歴史と、過去の匂いがした。過去になってしまった、匂いだ。
ネロは、沸き上がる嫌な予感と共に、その部屋へと踏み込んだ。
それから、短く毒づいた。
「酷いだろう」
平坦な、死体よりも冷たい声で、スフレ司教が言った。
彼の色素の薄い瞳は、大理石のテーブルに寝かされている女性の死体に向けられている。新たな死体、その惨状は、無関係な筈のネロをして義憤に駆られるほどのものだった。
一糸まとわぬその遺体は、全身くまなく切り裂かれていたのだ。
「傷跡が、大小合わせて八十ヶ所。刺され斬られ抉られている。それに、殴られた跡も。骨折していない箇所を探す方が難しいほどだ」
「むごい真似を……」
「むごすぎる。神をも恐れぬ所業だと、言わざるを得ない」
ネロは静かに、彼女の頭に歩み寄った。
原形も解らないほど変形していたが、そこには確かに頭がある。詰まり、先の生首とは別の死体だ。
視線を、胸元へとずらしていく。
幾つもの傷跡は、良く見ればその深さや向き、推測される刃物の種類さえまちまちだ。生命に重大な影響を与える箇所への刺突もあれば、いたぶるように浅く裂いたような箇所もある。
拷問でも、されたのだろうか。手足の骨は折られ、全ての爪は剥がされている。
ネロは再び、顔に視線を向けた。
ぐちゃぐちゃになった顔には、どれほど苦悶したのか察するための手掛かりは一つもない。だが、長い赤毛の一部が頭皮ごと剥がされているのを見れば、安楽な死は期待できなかった。
少なくとも、これを為した何者かは、彼女を苦しませるという確固とした意思を持っていた。おぞましいことに。
「……いと尊き我らが主よ、偉大なる太陽よ、この者の魂に安らぎを」
神の御元に、とネロは十字を切った。
スフレ司教も続くと、苛々と足音を響かせながら、ネロの隣に近付いた。
「昨夜、祭りの最中、多くの観光客の目の前で、犯人は彼女を棄てていった。これは、神に対する挑戦だ」
スフレ司教は、振り向いたネロに深く深く頭を下げた。
「頼む、エリクィン司教。どうか、君の力を貸してくれ! 恥ずかしい話だが、もう我々ではどうしようもないんだ!! 私の無能を本部に報告してくれて構わん。冒涜者に裁きを与えるために、聖都随一と謳われる君の力を、どうか、どうか……!」
血を吐くような訴えを、ネロは沈痛な面持ちで受け止めた。
自分の持つ全てを天秤に載せ、反対に、この非道を行う犯人への怒りを載せる。正義の代償に、自分が自分の友人へ払わせることになるものは、殺人犯を食い止める事と果たして釣り合うだろうか。
天秤は、僅かに拮抗してから直ぐに傾いた。
片方の皿から、お人好しの魔術師が反対側へと跳び移ったからだ。
ネロの信じるシンジ像は、やれやれと肩を竦め首を振ると、馬鹿にするように片方の眉を持ち上げながらネロに言った――悪徳を前にして、出来ることを躊躇うな。
すみません、とネロは心の中でシンジに謝罪した。私は、私の神の導きを裏切れない。
最悪シンジだけは逃がすと心に決め、ネロはスフレ司教に協力を頷いた。
「……犯人の目撃情報は?」
「二、三ある」
「それだけですか?」
純粋な驚きを、ネロは表現した。
祭りを見物に来る観光客は数百人に上る。昨夜というなら、ネロたちがテラスから見た限りでは、観光客は最低でも二十人はいた。目の前で棄てていったのなら、もっと多くの証言が集まっても良い筈だが。
スフレ司教は、何事か、言い淀むような仕草を見せた。
ネロはそうした仕草を、何度も見たことがあった。育ての親が良く見せていた、隠し事の顔だ。
「念のため、はっきりと言っておきますが。私は請われてここに居る――貴方に呼ばれたのです、司教。ならば、表裏の区別無く情報は明かしていただかないと困ります」
スフレ司教は、低く唸り声を上げた。
燃えるような怒りを、ネロは挑むように睨み返した。
協力すると決めた以上は、全力を尽くす。自分は随分と危ない橋を渡っているのだ、相手にも、それなりの覚悟は求めたい。
やがて、スフレ司教はため息を吐いた。深く、長く。彼の何かを妨げている全てを、吐き出すように。
「……目撃証言は多くない、最初の事件も、今回の事件も、その大胆さを思えばあり得ないほどに犯人は上手に振る舞っているようだ」
「だが、ゼロではない」
ネロは斬り込む。スフレは、老練に打ち返した。「その通り」
「だが。だがしかし、それはゼロと同じようなものなんだ、エリクィン司教、【神の力】、【聖都の鬼札】。少なくとも私にとっては、彼らは何も見ていないのと同じことだ」
「私にとってどうかは」
ネロは挑戦的な視線を崩さずに言い返した。「聞いてから決めます、私の心が」
「……若いな」
無礼ともとれるようなネロの言い分を、スフレは羨むような呟きで答えた。
二十以上も離れた若すぎる異端審問官に、老人は親愛の籠った声で、その単語を告げた。
「……彼らは皆、口を揃えてこう言った。犯人は――悪魔だとね」
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