第10話一日目、夜
一日目、大地の神ランドリクスの夜。
世界に横たわり世界そのものになった彼の神を象徴する食材は、大地の恵みを象徴し、大地の恵みを凝縮した食材――即ち野菜である。
特に、大地そのものに眠っている根菜や、或いは恵みを集めた実は、より強い力を授けられるとして珍重される。
とはいえここは港町、基本的な食材は魚だし、そもそも大地には塩分が多く、真っ当な植物は育たない。
唯一育つのは、塩樹くらいのものだ。そのため、リシュノワールの野菜を指すものは、実のところ一つしかない。
キノ、と呼ばれる、塩樹の芽である。
冬の終わりには葉が落ち、枯れかけた枝の先に、親指ほどの大きさの緑色の塊が生える。成長のために吸い込んだ塩分を凝縮した芽は、この町で最も安価に手に入る野菜なのである。
ホテルから程近いレストランの、二階テラス席。
白い陶器の器からは、食欲をそそる香ばしい薫りが立ち上っている。
薄皮を剥いたキノを、南のランドリクス大陸原産のミガモの実を絞って作るミガモオイルであっさりと炒めた、シンプルな料理が湯気を立てている。
オイルと香草の香りは家庭料理ではあるが、素材の味を楽しむにはもってこいの人気メニューである。
店の実力がダイレクトに伝わる料理だが、蝋燭で照らされた上品な店内も、三席ほどしかないテラス席も満席であるこのレストランは、恐らくかなり上等な腕を期待させた。
どう見ても、冷めない内に食べる方が良い料理であろう。そのくらいの常識を持ちながら、シンジも、そして向かいに座るネロも、なかなかフォークを持ち上げようとはしなかった。
それどころか、二人は揃って沈鬱な表情で、ため息を吐いた。
「……不味いな」
「不味いですね」
勿論料理のことではない、そもそも、シンジたちはまだ一口も、皿に手を付けていない。
日が暮れて少ししてから、ネロはホテルに戻ってきた。
報告と夕食のために入ったレストランで、ネロは昼間にあった出来事について、端的に、情報を告げた。
そしてシンジも、端的に情報を見せた。
「『我は神霊、我は悪霊。未だ目を閉ざし、顔を背ける者よ。我が魂の見えざる輝きを見よ。五つの輝きで、お前たちの目を開かせよう。邪魔をするな、震えて夜明けを待つが良い。啓蒙の光は、もう目の前にある』……」
「まるで、脅迫ですね」
数時間の間何度も何度も繰り返した文言を、シンジは記憶のままに諳じた。
ルカリオから預かった、彼女のもとに届いた手紙の内容である。
「……まるで?」
ネロの感想に、シンジは眉を寄せる。「これは、完全に脅迫文だろう」
「具体的な文言はありません、これだけでは不鮮明な詩でしかない」
「だが犯人は、具体的な行動に移った。そうだろう? だから、お前が呼び出されたんだ」
ネロは、ちらり、と柵越しに夜景を見つめた。シンジも、その視線を追う。
テラス席からは、祭りの主会場となるべき広場が良く見えた。封鎖されていた昼間とは違い、この時間には、何人ものの観光客がひしめいている。
「……こちらの不味い話は、教授のお話よりも相当不味い。正直、手紙のことで思い悩む貴方が羨ましいほどに、ね」
「ずいぶん挑戦的だな。現地の異端審問官に、相当絞られたのか?」
「……教授、お察しの通り、私は協力を依頼されました。事件解決のために、私の手腕を貸してほしい、とのことでした」
「何やら、自慢に聞こえるが」
「だったら良かった。それならば未だ、私が休暇を返上すれば済む話ですから」
シンジは首を傾げた。ネロは神のための労働に、抵抗を持たないように思っていたのだが。
「求められた手腕は、私のものではないのです」
「……」
「この地の審問官長は、スフレという方です。非常に聡明で、この二十年創世祭が大した騒動もなく運営されてきたのは、彼の手腕によるところが大きい。優秀な、人物なのです」
食べましょうか、とネロは呟き、胸の前で軽く円十字を切った。
ワイングラスを持ち上げると、軽く打ち鳴らす。
「健康に」ネロは力無く呟いた。
「乾杯」シンジも不安げに応じる。
辛味のある爽やかな味わいを楽しんでから、シンジはキノを口に運ぶ。良く火を通した新芽は、程好い食感と共に、濃い塩味を口内に解き放った。
強い味を、ミガモオイルの控えめな風味が後押しする。刻まれた香草も、シンジには名前もわからなかったが、美味しかった。
「スフレ司教の依頼は単純です。事件において最も重要な情報を、私に調査してほしい、とのことでした」
「確か、生首が見付かったんだったな」
周囲を気にして声を抑えながら、シンジは先程聞かされた事件の概要について思い出した。「祭りの主役、神輿から。大胆な事件だな」
「問題は、それが誰のものか、です。教会では、彼――首は男性でした――の手がかりが、何一つ発見できなかったのです」
さもありなん。
衣服や持ち物どころか、それを身に付けるべき身体自体も見付からなかったのだ。身元の特定は、ひどく困難な課題であると言わざるを得ない。
「逆に言えば、そうしなければならない理由があったか。例えば、貴族のように、ボタンの一つからでも身元が特定できてしまうとか」
「貴族の失踪は、それだけで相当な話題となります。我々が把握していない訳はありません。該当しそうな失踪者は居ませんでした」
「難しいな。となると、犯人は随分と慎重な相手ということになる。それなのに、大胆なアピールをもこなしているわけだ」
「スフレ司教は、何か、犯人に繋がる情報を持っている様子でしたが、私には開示しませんでした。それよりも、身元を調べて欲しいと」
「君の優秀さを、その司教は知っているのかな。だから、君に頼っているのか?」
二つまとめてキノを口に放り込んだシンジを、ネロは哀れみを持って睨んだ。
「……多くの知識と同じですよ、教授。知っている、と彼は思っています。それが勘違いだとも知らずにね」
「勘違い?」
「司教が私に調査を依頼しようと思い立ったのは、ある事件の顛末を資料で読んだからです、教授。聖都で起きた、とある魔術師の殺人事件に関する報告書です」
「…………」
「打ち捨てられた廃教会で、魔術師は半ば干からびていた。彼のポケットに神話生物の化石があり、それを返せと暗黒大陸から要求があった、一歩間違えれば国際問題にもなりかねない事件です」
「………………」
シンジはワインを飲み、グラスを見詰めた。
見詰め返す赤い液体は、何故だか急に味を無くしたかのように思えた。
ネロは続けた。
「その事件で私は、かけがえの無い友人を得ることになりました。彼の協力によって、私は事件を解決することが出来たのです」
「……………………」
「私は、魔術師であるその友人に助けを求めたことそれ自体は、けして過ちではないと思っています。神が遣わしてくださったのだとさえ、思うほどです。それほどまでに、彼の才能と知識、そして手段は神がかっていた」
しかし、とネロは気の毒そうにシンジを見た。
「しかし、国際問題の火種にもなりかねないほどの事件で、教会の上層部からも注目されるような事件で、異端審問官を助けた魔術師、という情報を発信するのは、私も気が引けました。その手段も、恐らく神の僕である我々にとっては、少々物議を醸す内容でしたからね」
「……僕は」
「私は。全てを伏せることにしました。事の終わりまで、ヒトに憧れた天使についても。その代わりに、私が私の才覚で全てを終わらせたのだと報告したのです。
……教授。もう、お分かりでしょう? スフレ司教が求めている手腕、人物特定の技術は――貴方のウィータなのです」
「……厄介な、話だな」
「えぇ、そうです」
漸く絞り出したシンジの言葉に、ネロは悲しげに頷いた。
「とても、とても厄介な話です。教授、貴方ほどではないにしても、私が教会の中ではそれなりに変わり者であるということは、ご想像なされているでしょう」
「五本の指には入るだろうと、思ってはいるが」
「この教会は違います。町から亜人を追い出す程度には、彼らは厳格な秩序神教徒なのです。魂を操作するウィータを、笑顔で受け入れてくれる場所ではありません。貴方を連れていき、ウィータを見せたなら、恐らく彼らは貴方を異端として処刑するでしょう」
時代遅れだ、と笑う場面では、なさそうだ。
シンジだって、そのくらいは解っている。何しろ【マレフィセント】の中でさえ、魂の分析というシンジの学説は困惑と拒絶を生んでいる。魂を素材としか見ないシンジの研究が、魔学の輩でさえない教会にどう思われるか、想像は難しくない。
「準備が必要だからと、今日は逃げましたが、明日以降はそれも通じません。スフレ司教の心当たりが当たって、犯人が突然捕まらない限りは、私は再び呼び出されるでしょうね」
「そして手こずる内に、同行者らしい僕を、教会は呼び出す可能性がある、か……」
シンジはため息を吐いた。「君はもしかして、疫病神の一種なんじゃないのか?」
「どうも。お忘れかもしれないので言っておきますが、教授、問題の大元は魔術師にさえ忌避されるような研究をしていた貴方にあると思えますがね」
「魔学は発展する。時にそれは、禁忌に限りなく近付くものだよ」
「宗教は、発展を規制しているわけではありません。通る道を選べ、と警告しているだけですよ。そして時として、その警告は言葉よりも手っ取り早い方法を選ぶ」
「それこそ道を選ぶべきだと思うがね。……ありがとう、ネロ」
さっきネロが、ルカリオの相談を小事と断じたのは、詰まりそういうことだ。
ネロの側の出来事が、シンジにとって不味い事態だったから、彼はそちらがより深刻だと判断した。
彼がシンジを庇うために嘘を吐いたことも、申し訳無いくらいに、嬉しいことだ。
ネロは、軽く肩を竦めると、キノにフォークを突き立てた。
「私は、友情に篤い疫病神ですからね。しかし、では、一つ見返りを宜しいですか?」
「構わないが、なんだい? 僕は、宗教家は、無欲だと信じているよ」
ネロの気配りの塊のような笑顔に、シンジは皮肉げに微笑んだ。
ネロは、手の中でフォークをくるり、と器用に回して、行儀悪く皿を指し示した。白い陶器の器には、キノが五つ、自らの順番を待っている。
「こちらを四つ、頂いても?」
シンジは、ひょいと片眉を上げた。
「……三つにしてくれ」
ネロは神妙に頷き、そして、二人同時に吹き出した。
あぁ、やはり。
祭りの夜には、笑顔が似合う。
「…………」
サンピュルセル広場に集まる人だかりを、スフレは苦々しい思いで眺めていた。
普段は、町には居ない筈の人間たち。
祭りの時にだけ現れて、我が物顔で道を歩き、騒がして帰っていくだけの異邦人。
彼らは町に責任を持たず、しかし町は彼らに責任を持たねばならない。彼らの安全に、そして、軽薄な好奇心に対して。
広場の封鎖を、スフレは解かざるを得なかった――事情を知らない観光客たちが、自分達の好奇心が満たされないのは不当な処分であると、教会へ大挙して押し掛けたのである。
異端審問会と本来の表向きの教会との間に上下関係はないが、だからこそ無視できない。教会はスフレに事件のあらましを聞き、そこに緊急性はないと判断して、広場の解放を要求したのである。
不愉快だが、仕方がない。実際、生首は単純な調査によって、死後、死体から切り離されたことが判ったのである。
死体損壊であれば不信心ではあるが、重悳な犯罪行為とは、確かに言えないのだ。
スフレはため息を吐いた。せめてもの救いは、観光客の人数であろう。これだけの人だかりがあれば、犯人も容易には現れまい。
苛々と、スフレは紫煙を空へと吐き出した。
大丈夫だ、きっと、何も起きない。これまでだって、何も起きなかったじゃないか。
自らに言い聞かせる理屈と、それを聞いて尚心の奥で叫ぶ、警告する本能。
相反する二つの心情。
だとすれば――こう言わざるを得ないだろうか。予想通りだ。
「きゃあぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
人だかりの先頭で上がった悲鳴に、スフレは毒づきながら駆け出した。
パニックになりかけている観光客を押し退けて、声の方へ辿り着いた老司教は、目の前の光景に絶句した。そこでは、全身くまなく切り裂かれた、ぼろぼろの女性の死体が、神輿に寄り掛かるようにして倒れていたのだった。
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