第9話一日目、昼ー7
あくまでも個人的な意見としてだが、海の男という職業は、多少矛盾するがそれが女性だとしても、町の男よりは食に五月蝿いとシンジは思っている。
いや、一文字多いだろうか。
もしかしたら、彼らは欲に五月蝿いのかもしれない。
ちっぽけな、命を預けるには薄すぎる板一枚向こうに広がるのは、果てしなく底もない海だ。日々の生業を求めるには、彼らは死に身近過ぎる。
故にこそ、彼らは極めて正直に生きている――いつ死ぬか解らないから、生きている内に何かを、或いは何もかもを手にしたがるのだ。
バイキング料理、というのは、その最たるものだろう。目の前に存在する全ての料理を、満足するまで食い散らかす。
そうではないにしても、勿論真っ当な漁師である彼らはバイキングとは違うと怒るかもしれないが、しかし。
大差がないのではないかと思わせるほどに、海辺の町の料理は、量が多い。
滞在期間の短い陸。嵐も高波も関係無く安心して腰を据えられる大地の上で、海の住人たちは何もかもを詰め込みたがるものだ――土の香り、塩辛くない草色の風、そして新鮮な食材。
詰まり、何が言いたいのかというと。
港町で食事をするのなら、節制が何より大切だということだ。
どうしてこうなったのか、テーブルに並んだ料理の数々を見ながら、シンジは頭を抱えた。
いや、いやいやいや。
原因は、実のところ解っている――とても良く、解っている。彼女だ。
「美味しい……!」
「……それは、良かった」
それは良かった、と思いながら、シンジはぼんやりと呟いた。本当に良かった、もし美味しくなかった、等と言われたら、流石に落ち込むところだった。
テーブルの上には、頼む前に運ばれた紅茶のカップが一つと、シンジが頼んだニシンのパイ、それと、シンジが頼まなかった料理の数々が並んでいる。
それらの、招かれざる客たちの色鮮やかさに、シンジはため息を吐いた。
「せめて、肉料理だったらなぁ……」
「何か仰いましたか、教授?」
「なにも言っていないよ、ルカリオ。喜んでもらえて嬉しいと、そう思ったから、それが言葉に漏れてしまったのかもしれないね」
シンジの言葉に、招かれざる皿たちを率いる女王、ルカリオ・ファビウムは嬉しそうに微笑んだ。
なぜ、こうなった。
改めてシンジは、そう、一人ごちた。
事の起こりは、単純だ。文字にすれば、百四十文字以内の新聞記事よりも短く表現できる。
食べていた、ルカリオが来た、終わり。
ちょっとした怪談だ。最後に『食べられた』と付いたなら、もう
幸いなことに、食べられるのはシンジ自身ではないのだが。
もう少し詳しく話すのなら。
ネロを送り出したシンジは、差し出された注文表を見ながら、一番安価であるニシンのパイを注文した。
それがやって来て、一皿二切れのパイを各三十回ずつくらい噛み締めて食べれば満腹になるだろうか、などと計算しながらフォークを刺した瞬間に、ツイードの幕がばさりと勢い良く開けられた。
驚いた視界に飛び込んできたのは、見覚えのある少女。小柄な体格と童顔と、それらと不釣り合いなボリューム溢れる胸部を揺らしながら現れた彼女、ルカリオだ。
ルカリオは喜色満面、あれよあれよという間にネロの後釜に座ると、『うわあこんなところで会うなんて奇遇ですね教授ところでここはパイがお薦めなんですよ頼みました? 頼みますね!』となり、そしてこの有り様だ。
「教授これ、これ食べましたか? 海向こうクードロン諸島のリズ・クレム・パイ!」
「
ということは高価そうだ、という感想を、シンジは飲み込んだ。
本場では、確か蒸して炊き上げる調理法が一般的な米だが、聖国では煮立ててクリーム状にするのが一般的となっている。見た目の割りには控えめな甘さで、植物性なため健康にも良い。
そのため、遥か南のマチューバ大陸原産の安価な米を用いたリズ・クレムは、庶民にも人気の甘味となっている――シンジの記憶する限りでは、このカフェのリズ・クレム・パイは、そんな町中のベーカリーに並ぶような可愛らしい代物ではなかったが。
と言うよりも。
並んでいるパイの数々は、そのどれもがけして安価ではない。
例えば、
例えば、
他にも、トマトソースを利かせたミートパイも、或いはほうれん草とチーズを何層にも積み重ねたスパナ・コピタ。
どれもこれもが、多分、同質量のステーキよりも高価なのだろう。
「…………」
「どうかしましたか、教授? ……あっ」
思いがけずじっとりと湿った視線に、ルカリオは首を傾げ、それから、何かに気が付いたように膝を打った。
「すみません、気が利かなくて……食後のワインですね!」
「……あぁ」
何もかも諦めて、シンジは頷いた。
皿の計算は、最悪ネロに領収書を回そう。そう決意して、シンジはフォークを握り直した。
「ふぅ、満腹ですね教授!」
「…………」
都合七皿ほどを平らげ、ルカリオは微笑んだ。
太陽のように晴れやかな笑顔、その影を読み解こうとして失敗し、シンジは諦めてため息を吐いた。
「どうかなされました?」
ルカリオは可愛らしく小首を傾げた。「お気に召しませんでしたか?」
「……半分はね」
パイの味は、最高だった。焼き立てなのかほんのり温かい生地はサクサクで、味付けもしつこすぎず簡素すぎず、先だって運ばれていた紅茶との相性も完璧だった。
そう、味は完璧。それで半分だ。
「不足分が何か、君は解っているね、ルカリオ?」
「……、な、何でしょうか? あ、もしかして、赤より白ワインの方がお好みでしたか?」
「僕は赤が好きだよ、例え、出来損ないの葡萄を使っているとしてもね。
……僕は、食事とは、あらゆる要因が絡み合って結果を出す、極めて複雑な魔術式と同様だと思っている」
慎重に、シンジは言葉を選択した。
もしもこれが、自分の教え子だったなら話は簡単だ。だが、彼女は違う。シンジの預かり知らぬ所で成長し、シンジの責任でない所でつまずく生き物、赤の他人だ。
安易な道を選ぶなら、無視だ。
無関係な相手に無関心を選択するのは、無慈悲ではない。良くも悪くも、それは正しい選択なのだ。
それを無粋と悩むくらいには、シンジ・カルヴァトスは不器用だった。
「……味覚以外の全ての感覚を、食事には用いるべきだ。見た目、香り、食感、そして場。即ち、食べる相手の状態だ」
「…………」
ルカリオは、死んだように見えた。
先程まで、誤魔化しの気配こそすれ、それなりの笑顔を浮かべていた顔は、最早この町以上に白くなっている。
見開いた瞳に浮かんでいるのは、驚愕と、そして無責任な安堵だった。
「この町に、ホテルは一つしかない。僕が滞在することを知っていれば、宿泊先は特定できる」
追い詰められ、問い詰められ、それを受け入れているルカリオを、シンジは静かに詰めていく。
単純な結論を、指摘するために――この出会いは偶然ではないと、証明するために。
「僕が一人になったときを見計らったかは、解らないが。君はこの町で学んでいるのだろう? となれば、祭りについても知っている。夕食を制限される祭り。昼に良いものを食べる習慣についても、僕よりも詳しい筈だ」
詰まり、彼女にとっては自明なのだ。僕が必ず昼食を食べに良い店に出向くことは。
あとは、消去法だ。
この町に食事処がどの程度あるのかは知らないが、しらみ潰せる程度の数だろう。
そして僕が滞在初日であることを考えるなら、行動範囲をホテルの周囲に限定することも暴論ではない。
先ずは、ホテルのカフェから探すのは、当然だ。逆の立場なら、シンジだってそうするだろう。
そう。
探したのだ、彼女は。
「ひどく回りくどい言い方になってしまって申し訳ないがね。詰まりはこういうことだ――何か用かな、ルカリオ?」
「…………」
「これは、僕としては最大限の譲歩だ。話したくないのなら、構わないから今すぐ帰ると良い。僕は、旅行に来ている。信用のない相手と食事をしたくはないよ」
それきり口を閉ざして、シンジはグラスを口に運ぶ。
好ましい苦味を舌の上で踊らせながら、そっと目を閉じる。拒絶するように、待望するように。
やがて。
ぽつり、とルカリオは口を開いた。
「……えぇ、流石ですね、教授」
「ありがとう、パイを褒めたときよりは、控えめな賛辞だね?」
「うふふ、教授のことは、食べたわけではありませんから」
際どい発言に咳き込むシンジを、ルカリオは不思議そうに眺めた。
もしかして、天然なのか?
「……実は、その……教授に、ご覧いただきたいものがありまして」
シンジの様子に首を傾げながらも、それよりは自分の事情を優先することにしたらしい。
ルカリオは、先程までの笑顔が幻だったかのように沈鬱な表情を浮かべている。
その表情に、シンジは予感する。
あぁ、これは――不味い事態だ。
ルカリオは、鞄から、封筒を取り出した。
すっと、差し出されたその中身は――。
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