第7話第一日目、昼ー5
ホテルの一階部分、そのおよそ半分ほどを占めたカフェスペースは、一般的な昼食の時刻を一時間以上も過ぎているにも関わらずひどく混雑していた。
「創世祭は夜が本番ですが、夕食は、お話しした通り決められたものを食べなくてはなりません。そのため皆、昼食に傾注するのです」
「なるほど、それでこの盛況ぶりか」
まるで、祭りが早くも始まっているかのような賑わいである。
どのテーブルにもステーキなど、かなり重い料理が一杯に並んでいる。もちろんエールも顔を出しているし、中にはワイングラスを傾けている赤ら顔も見受けられた。
「別の店にするというのも、きっと無意味なんだろうな」
「まあ、単なる散歩に終わるでしょうね」
とはいえ、ここで待っていても席が空くとは思えなかった。食事だけならともかく、祭りの昼に酒を飲んでいたら、その催しはカーテンコールまで続くだろう。
「あの、失礼します」
料理だけ頼んで部屋で食べるか。
声がかけられたのは、そう提案しようとした瞬間だった。
振り返った先には、見知らぬ若い男性。
知人だろうかとシンジが記憶を探るよりも早く、男性は答えを示した――胸の前で円を描き、十字を切ったのである。
手慣れた秩序十字のサインに、目当てはネロだと思い当たり、シンジは軽く身を引いた。
「司教様でらっしゃいますか?」
想定通り、男性はネロに頭を下げる。「見慣れませんが……もしや、聖都の?」
「えぇ、ネロ・エリクィンと申します」
丁寧に微笑んだネロに、おぉ、と控えめな感動を呟いて、男性は破顔した。
「やっぱり! いやあ、こんなところで司教様にお会いするとは、へへ、縁起が良いや。その……握手していただいても?」
「構いませんよ」
「ありがとうございます!」
気さくに差し出したネロの右手を、男性は、彼にしては相当抑えた興奮と共に握った。
数回上下に振ると、男性は手を離し、顔の前で両手を組み合わせる。ネロに触れた右手が汚れないように左手で包むと、自慢するように天に掲げた、そんな子供じみた仕草だった。
ずいぶん大袈裟な反応に思えたが、ネロは平然と微笑んだままである。
もしもシンジがサインした本をそんな風に持たれたら、恥ずかしくってとてもじゃないが立っていられないだろうに、司教にとっては大したこと無いのだろうか。
シンジが、感覚の違いを久し振りに実感する内に、二人の話は続いていた。
「もしや、こちらでお食事を?」
「えぇ、そのつもりでしたが……どうも混雑しているようですね。友人と静かに食事を楽しみたかったのですが、仕方ありません」
わざとらしく肩を竦めるネロの横顔を、シンジは呆れながら凝視した。
分厚い微笑みの奥で彼が何を考えているのか、シンジは直ぐに看破した。だから、友人の次の言葉は完全に読み通りで、思わずため息がこぼれるほどだった。
「仕方がないので、どこか他所を探すつもりです」
「お待ちください! 直ぐに空く筈です!」
それでは、と礼儀正しく会釈したネロに、男性は悲鳴じみた声を上げ、店内へと駆け込んでいった。
「……ひどい男だな」
「何の話ですか?」
ネロの方を指差しながら幾つかのテーブルを駆け回る男性を眺めながら、シンジは軽く首を振った。
「私はただ、自分の現状を正確に伝えただけですが?」
「偶然出会った司教にあれほどの感動を見せる信心深い町で、宗教家が困っているという現状を、だろう? あまつさえ、『ここの店は助けてくれないから別な店に行きます』と言ったわけだ」
「そう聞こえましたか?」
「そう言ったように感じたよ」
「知っていますか、教授。罪の意識というものは、罪を犯した者に神が投げた鎖なのですよ。私にもしも責められていると感じたのなら、えぇ、それはそういうことでしょう」
客たちはやがて、カフェの責任者に話を持ち込んだようだった。
中年のギャルソンが、青ざめた顔で向かってくるのを見て、シンジはもう一度、ひどい男だと呟いた。
「まるで、脅迫だな」
案内されたのは、ビロードの幕で区切られた個室だった。
単なる、プライヴァシーを重んじるだけの席ではないことは、テーブルを見ただけで解った。通り過ぎた際に見た外のテーブルとは、どれほど好意的な見方をしたとしても、桁が違う品物だ。腰掛けた椅子のクッションも、包み込むような柔らかさである。
「幼い頃の夢が一つ、叶ったよ。いつか、パンケーキに座りたいと思っていたんだ」
「えぇ、私も、友人の夢を叶えたいという夢が叶いました。とても嬉しいです」
「ここは幾らする部屋だ?」
シンジは、壁際に吊られた新品のコートに目を向けた。
支配人らしい男が、慎重な手つきで脱がし、掛けてくれたものだった。幻想的な感触の椅子だって、彼がわざわざ引いてくれたのである。安価な部屋で誰にでも与えられるサービスとは、ちょっと思えない。
露骨なほどに明らかな、特別扱いだ。金貨を積み重ねたような上等過ぎるテーブルと、その上で頼んでもいないのに良い香りを放つ紅茶も、本来ならあり得ないサービスである。
唯一のホテルのVIPラウンジと考えれば、その価値はけして安くない。
「宗教には善意の施しが欠かせないとは、僕も思うけどね。これは少々、清貧さから外れすぎているのではないかな?」
「私が求めたわけではありませんよ、教授の仰る通り、これは善意ですから」
「……まるで、と言ったのは間違いだったようだ、すまないな。これは脅迫だ」
「いえいえ、誰にでも間違いはあるものですから、気にしませんよ」
くすくすと悪党のように笑ってから、ふと、彼は表情を引き締めた。
いつも細められている黒い眼が、静かな水面に変わる。そこに覗き込む自分の顔が映ったような気がして、シンジはそっと視線を逸らした。
「……真面目な話をするのなら。ヒトには善行をしたい理由があるのですよ。善意を積み重ね、善行をばらまいて生きていたい。そういうものなのです」
「僕らがそれほど博愛精神に満ちているようには、思えないが」
「勿論そうです」
「何だって?」
ネロは気後れの気配も見せずにカップを持ち上げると、ソーサーを置いたままで口に運んだ。これがマナーだ、とでも言いたげな大胆さである。
音を立てずにカップを戻したネロは、軽やかに微笑んだ。
「そうだ、と申し上げました。ヒトは、それほど高潔な生き物ではない」
「……衝撃的な、発言だな。それが、君の見解か?」
「いいえ、一般的な見解ですよ。信仰の有無に関わらず、ヒトには邪悪さがあるものです。世界を燃やす憤怒や憎悪のように珍しい、乾いた邪悪ばかりではなく、隣人の成功を羨み、失敗を喜ぶような湿った悪が、誰の心にもあるのです。私たちはそれを否定しているわけではありません」
シンジは自分の手元を見る。ソーサーごと持ち上げて静かに運んだ、穏やかな香りの紅茶。
シンジは、つい先刻の感情を思い出す。ソーサーを置き去りにした友人のマナーを、自分はほんの少しでも嗤ったのではないだろうか。
自分が正しいと、間違っている相手を呆れたのでは、ないだろうか。
「その起源を遡れば当たり前ですが。ヒトは秩序の光に照らされてはいますが、元来は邪神の影から生まれている。魂の根底に、闇が潜んでいるものなのです。それは、仕方がないことなのです」
「寛大な御意見だな」
「教授はおかしいとは思いませんでしたか? 【創生七大神】。七です、神の数は。そこには、確かに邪神も含まれているのです」
「そう言えば、創世祭にも闇の日があったな。それは、そういう理由なのか」
「全ての生命は、邪神が創ったという説もあるほどです。そしてそれは、あながち間違ってもいないのではないかと、私は思っています」
それは危険な発言ではないのだろうか。
思わず辺りを窺うシンジを、ネロは不思議そうに見ながら続ける。
「ヒトは闇から生まれました。だから、その心には常に悪がつきまとう。仕方がないこととはいえ、しかし、否定したいと思うのは自然なことです。己の心に邪悪が潜み、日々悪を為していると思いたい人間は少ないでしょう――だから、ヒトは善意を施すのです。適度な、己にとって重荷にならない程度の善意をね」
「だから、積み重ねる、と言ったのか」
「ヒトは己を騙すのが得意な生き物ですからね。内心の邪悪を忘れるために、小さな善意を繰り返して暗記したいのですよ」
一人を殺しても、百人を救えば英雄になれる。一人を憎んだとしても、百人に施しをすれば、善人になれるのだ。
少なくとも、そう信じることは出来る。
「教授、ここには
「いや、確かに見かけないとは思っていたが……ゼロなのか? それは珍しいな」
「それどころか、妖精族も居ませんよ。ここにいるのは、
シンジは、嫌な気分と共に頷いた。差別、どこにいってもその問題は耳にする。亜人は獣の延長で、神の似姿たる人間とは違うという、生物の起源を研究するシンジからすれば無知蒙昧を喧伝するような論調は、いつまで経っても絶えることがない。
いっそ、神が全ての獣の耳でも着けていれば良い。そうすれば、差別の理由が一つ無くなる。
シンジは苦笑した。そんなおかしな格好の神など、聞いたことがない。
「リシュノワールのように信心深い町でさえ、人々は差別という悪を為している。そして何度も言いますが、私たちはそれを悪いとは言いません。ヒトは秩序の光で邪悪から立ち直った存在であり、だからこそ、尊いのです。悪を抱いても良い、それでも光を求めるからこそ、ヒトは善になれる」
「成る程、ね」
シンジは頷き、それから、何かを誤魔化すように大袈裟に首を振った。「まるで聖職者のようだよ、ネロ」
「また間違えていますよ、教授。私は聖職者です」
何かに誤魔化されてくれたように、ネロは優しく微笑んだ。
「さあ、先ずは食べましょう教授。ここのパイは絶品ですよ。すみません!
かつんかつんという足音が響き、幕がさっと開けられた。
給仕係だろうと声を上げたネロの眼が、驚きに見開かれた。珍しい表情ではあるが、残念ながらシンジの方も同じくらい驚いていて、じっくり眺める暇はなかった。
幕の向こうから現れたのは、見覚えのある顔だった。見覚えのある顔と同じだった、と言った方が正しいかもしれない。
「失礼します、聖都よりお越しの異端審問官の方ですね?」
記憶の中の他の彼と一致する、天使のような美しい声で言いながら、寸分違わない顔を傾ける。
会釈したのだ、と気が付くのに時間が必要な無感情な動作は、やはり、同一だった。
絶句するシンジたちに配慮する事もなく、ひどく薄い朱色の唇を動かして、青年は
「異端審問会リシュノワール支部所属、
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