第6話一日目、昼ー4
広場の壁を回り込むようにして、シンジたちはホテルの側に辿り着いた。
リシュノワール唯一の公認ホテルである【波の乙女】、その五階建ての偉容が目に入った瞬間、シンジは思わず唖然と、口を開けた。
大きさに、ではない。
もっと大きな建物もシンジは見たことがあるし、友人が挑戦した『ゴーレムの限界』実験では、もっと大きな人物を見たこともある。単なる高さくらいで、シンジは怯まない。
怯んだのは、その色だ。
ホテルの外観は、一面が赤く染まっていたのだ。
白を基調とした町並みにあっては、その赤は極めて異様だった。
陽射しを反射して輝く、ある種神聖さを感じるような建物ばかりを見てきたシンジの視界に突如飛び込んできた赤壁は、他の町であればありふれた色であるというのにどこか、不自然だった。
例えるのなら、
それも、本人は至って気にしておらず堂々としていて、見ているこっちだけが冷や汗を掻くような、打つ手の無い身勝手な気まずさである。
「古い、建物なのかな?」
慎重に、ゆっくりと言葉を選ぶように、シンジは尋ねた。「町で一番とか二番目とか、その、町が白一色になる前からあるとか?」
「いいえ」
ネロはやや固い表情で首を振った。「あれは、新しい建物です。創世祭や大学が有名になるにつれて、必要と共に生まれたものです」
「……独特な感性だな」
「貝漆喰に顔料を混ぜたらしいですよ。目立つことは商売には重要なのでしょうけれど、人目につくにもつき方というものがあるでしょうに。あれでは、リシュノワールの顔に出来た吹き出物です」
心の底から嫌そうに言うネロに、シンジは肩を竦めた。
旅行に来た魔術師としては、特に感想はなかったが、まあ、町の調和に合っているとは言い難いだろうな、とは思った。……今のところは。
変化というものは、それが起きた頃は概ね反対されるものである。何時だかは知らないが、初めて教会が建てられたときもきっと、同じようなことを言われただろう。
今では、教会の無い町はない。
その教会から傷跡扱いされるこのホテルもまた、いつかは馴染んでいくのだ。神と同じように。
「先ずは、チェックインだ。僕はここに旅行に来たのであって、景観の評価をしに来た訳じゃないからね」
「おや、そうだったんですか?」
ネロはクスリ、と笑った。「錬金術の歴史について、私に講義しに来たのかと思っていましたよ」
「おぉ……」
部屋の簡素さに、シンジは満足の声を漏らした。
ドアを開けたらベッドが見えて、左手にはシャワールーム。ただそれだけの狭い部屋だが、旅先で初見の宿に望む要求を、そこは全てクリアーしていた。床を覆う
そもそも、シンジは広々とした空間が得意ではない。
机とベッドと本棚。
自室の家具など、その程度で良い。下手に部屋に余裕があると、そこにはどんどん物が溜まっていくばかりである。それも、不必要な物ばかりが。
その点、このホテルは
ベッドは年代物ではあるが、シーツも毛布も清潔だし、部屋の隅にポツンと佇む
寧ろ、時の流れに取り残された真鍮製の円筒は、時代遅れの部屋には良く似合っていた。
そして何より、あぁ、ライティングデスク!!
コートを脱ぐのももどかしく、シンジはその
それからうっとりと、窓際の慎ましい、埃一つ無い肌の表面を撫でる。
深い焦げ茶色に塗られたのは、恐らくこの地方の固有種、塩樹だろう。塩を吸って育ち、塩の実をつけるこの樹木は、乾燥しやすく劣化しづらい。
そっと、蓋上部のノブを回し、留め金を外す。
手前に引くと、連動して二本の腕がゆっくりと突き出してくる。その滑らかさに、思わずシンジは微笑む――まさか連動しているとは、全く、素晴らしい。
内部機構は、時の河を下った今でも現役らしい。蓋を倒しきると同時、腕は定位置に就き、確りと彼女を支えた。ダンスを踊るように優雅に仰け反った蓋は机の天板となり、頼り有るパートナーの腕に体重を預け、木目を微笑ませた。
奥にはインク壺と、そして小型の魔石灯があった。壁面はコルクボードになっていて、例えば資料を縫い止めておくのに最適な仕様である。
素晴らしい。
再び、シンジは思った。それから、自室に彼女を飾った場合を想像して、もう一度同じことを思った。
「気に入られたようですね」
荷物を運ぶのを手伝ってくれたネロの存在を、シンジはやっと思い出した。
床にトランクを置くと、黒衣の司教は部屋をざっと眺め、シンジを見て、ひょいと片方の眉を上げた。
「良くある部屋にしか見えませんが、えぇ、お気に召すのなら何よりでしょうね」
「僕にとっては、こういう部屋が落ち着くんだ」
「教授が聖都で良く宿泊なさる、あの、サロメ女史のホテルは、もっとグレードの高い部屋に思えますが」
「ここにはサロメは居ないからね」
気を遣わせない気配りというのは、とても貴重なのだ。
超一流のホテルというものは、宿泊客に威圧感を感じさせないものなのである。どれ程良い部屋であっても、自分はこの部屋に相応しい者なのだ、と思わせるのだ。
魔法使いは、ここにはいない。
ネズミにはネズミの部屋が、あるだけだ。
「その机は?」
「ライティングデスクだ。知らないか?」
「はあ、見たことはありませんね。変形するのは、面白いですが」
「将来、僕の努力と、僕以外のヒトが才能と呼ぶものの積み重ねが、もしも、評価されたとして、それが現実的な価値をもって僕に返ってきたとしたなら。自分の部屋には、こういうデスクを一つ買おうと、心に決めているんだ」
いつになるかは解らないが、いつか、この部屋と同じように窓辺に置いたデスクの上で、人生最後の本でも書けたら、それは良い人生だったと笑って死ねるだろう。
「あー、教授?」
デスクを擦りながら一向にその場を動こうとしないシンジに、ネロはおずおずと、痺れを切らしたように口を開いた。
「教授の夢は尊いものだとは思いますが、一先ず昼食にしませんか?」
「今日のパンよりも、明日の夢を追うべきだぞ、
「夢だけで生きられるほど、神の創りたもうたこの世界は甘くありませんよ、
「……成る程な。協力に感謝する、ご苦労だった」
目撃者を帰して暫く、スフレ司教は無言で顔をしかめていた。
顔見知りの、魚馬車通りのハンの逞しい背中が見えなくなって漸く、スフレは口を開いた。
「馬鹿げている……」
「今の、不審者の情報ですか」
「あぁ」
若い助手の顔にも、苦笑が浮かんでいる。目撃証言を重要視していないのは、明らかだ。
気持ちは解る。
彼の手に握られたメモ、そこに書き取られたハンの証言は、トラピスト・エールを三杯は飲み干していないと見られないような与太話だったのだ。
「発覚の一日前、仮組みを終えた神輿の近くで、不審な男性を目撃した――額面だけなら、非常に有益な、決め手とも成り得る情報ですが」
「だが、あり得ない」
ぴしゃりと、スフレは断じた。「そんなもの、居る筈がない。夢でも見たのだろう」
そうだ、あり得ない。
人間でも、亜人でも、
ハンは酔っていたのだろう、本人は否定したが、船乗りが陸で素面で過ごす夜など、それこそあり得ない。
「……一応、男性、という部分を尊重しよう。見知らぬ大柄な男がいたら注意するよう、町民に告知するんだ」
「はい……あ」
頷き、立ち去ろうとした助手は、奇妙な声を出して突如踵を返した。
スフレは眉をひそめながら、その先を促した。
「不審な人物、といえば、一つ。シャルネ=シャルネ衣服店で、妙な二人組が目撃されています」
「教会専門の店でか。何者だ?」
「一人は異端審問官の服装で、もう一人は、良く解りません。コートとセーターを買ったようですが」
「成る程。とすると、聖都の新人かもしれんな。
しかし、とスフレは眉間にシワを寄せた。
「この時期に、本部から来た異端審問官か……少々、気にはなるな」
「どうしましょうか」
「呼ぶしかあるまい。無視して本部に勘繰られては、尚面倒だからな。アレキサンドライト教会に、御出向願え」
「かしこまりました」
颯爽と立ち去る助手の背中を見送りながら、やれやれ、とスフレはため息を吐いた。
呼ぶしかないが、しかしその場合、報告が面倒だ。果たして、ハンの話を何と伝えれば良いのだろうか――何せ、彼はこう言ったのだ。
俺は、悪魔を見たと。
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