第2話一日目、朝。

 港町、リシュノワール。


 聖都から五時間ほど列車に揺られてようやく辿り着く、大陸の南西端。

 海洋資源が豊富であり、中でもナマケマグロに関しては、アズライト聖国の消費量の大半がこの港から出荷されている。


 まだまだ話し足りない、といった表情のルカリオから何とか逃れて、シンジは大きく伸びをした。

 凝り固まった筋肉を解しながら、深く息を吐き出す。緊張は白く漂って、やがて消えた。

 ヒトと、それもあんな若い女の子と、一対一で話すのはあまり得意ではなかった。自分の受け持つ生徒が質問に来たのならまだしも、ルカリオとは全くの初対面なのだ。緊張もする。


 ルカリオは、極めて熱心な読者だった。

 シンジの話を、どんなことでも聞きたがった――魔学に関係の無い話まで。

 彼女と話していると、自分が神にでもなったように錯覚してしまう。ルカリオ・ファビウムにとっては、もしかしたら同じ意味なのかもしれないが。


 そんなことはあるまいと、シンジは苦笑する。

 彼女には。その証を、少女は胸元にぶら下げていた。

 鮮やかな緑色の宝石に飾られた、円に十字を組み合わせたロザリオ。秩序神教の証だった。


「…………」


 再び吐いた息。

 かつて魔術師と敵対していた教会の印を着けた、魔術を学ぶ少女。

 極めて特殊な例だ――


 港町、リシュノワール。

 この地の住人はその全てが秩序神教徒であり、

 信仰と魔術の絡み合った町の風は、季節のせいもあるだろうが、ひどく冷たく感じられた。









「教授、こちらです、教授!!」


 純白の駅舎を出た途端に、大きな声が投げ掛けられた。

 一瞬ルカリオ嬢の顔が思い浮かび、シンジは眉を寄せたが、勿論彼女ではなかった。


 この時期以外であれば有り得ないような人混みを掻き分けるように現れたのは、赤と黒の青年だった。


 癖の無い黒髪は眉の辺りで真っ直ぐに切り揃えられていて、その下の童顔も相まって、子供のような印象を受ける。

 常に微笑む薄唇と、糸のように細められた黒い瞳。身に纏う衣服と同じように、黒は他の色を呑み込む最も貪欲な色なのだ。


 勿論、その独特な衣服が黒いのには理由がある。彼らの信仰する上位存在は太陽を化身としており、その光に仕える影であることを、正に身をもって示しているのだ。

 物事には意味がある――黒いの肩から下げた、深紅のストラにも。

 太陽と鳥の図柄が描かれているストラには、神からの光を鳥が運び回る、詰まり、秩序を世界に行き渡らせるという意味が込められているのである。


 黒と赤との組み合わせ。

 遥か昔から変わらない、人々の心の拠り所。

 秩序神教徒にして神の力、異端審問官インクィシゾーネの制服で、ネロ・エリクィンが賑やかに登場した。


「どうも、お久し振りです、教授。明けましておめでとうございます。……随分と軽装で来られましたね」

「おめでとう、ネロ。君の方は、中々重装備だな?」

 軽やかに階段を駆け上った青年司教の服に、シンジは苦心して眉を上げる。「魔術師を出迎えるにしては、少々不適切じゃないかな?」


 異端審問官がかつて審問していた異端とは、詰まりは

 彼らは神の名の下に、奇跡ならざる神秘の担い手、魔術を追放するべく奔走していた。

 忌まわしいその行為の結果犠牲になったのは、百万もの一般人だったわけだが、魔術師を追い払うという目的だけは達成された。


 そして、今。

 魔術師は魔学者として、人々の社会に貢献している。教会も、そこまで過激ではなくなった。

 それはそれとして、黒と赤に忌避感を持つ魔術師は少なくないのだ。どちらの組織にも、過激派というのはいる。


 歴史への無遠慮さを指摘すると、ネロは悪びれもせずにわざとらしく、首を傾げた。


「いやあすみません。ほら、教授が驚くだろうと思いまして」

「詰まり、確信犯か」

「伝統的でしょう? 教授はそうした、歴史的なものをお好みかと思いまして」

「魔術師相手に悪ふざけとは、図太い司教だよ君は」

「勿論、相手を見ますよ。魔術師相手なら、そんなことはしませんよ。教授のようなまともなだからこそです」


 シンジはため息を吐いた。

 宗教家に、口先で敵うとは思えない。


「……本当に、軽装でいらっしゃいましたね、教授」


 吐き出したため息の白さに、ネロはふと表情を曇らせると、真剣な調子で言った。


「もしかして、研究室に籠りがちな魔術師は、ご存じ無いのかもしれませんが。新春の港町は寒いのですよ?」


 確かに、とシンジは認めざるを得なかった。

 いつもの茶色いジャケットにスラックスの上にコートを羽織ってはいるものの、吹き付ける風の冷たさの前には頼り無い。


「そのセーターも、もしかしてサマーセーターではありませんか?」

「セーターはセーターだろう、同じように作られて、同じように暖かいはずだ」

「……教授は、料理とか苦手でしょうね」


 呆れたように肩を落とすネロの表情には、見覚えがあった。シンジの私生活を三日ほど観察した後で、内弟子が浮かべたのと同じものだ。どうせ沸かすのならと、湯に直接コーヒーの粉をぶち込んだ時の、あの目付きだ。


 方程式と同じだ、足し算で計算の順番を入れ替えても、結果は同じになる。

 ……まあ、確かに、あれは飲めたものではなかったが。


「マフラーや、せめて手袋くらいは買われた方が良いのでは? ホテルまでは、少しありますよ」

「そうだね、どこか良い店はあるかな? 安くて、丈夫なものを売る店だ」

「ご安心下さい、教授」

 にっこりと、ネロは天使のように微笑んだ。「最高の店を、ご紹介しましょう」









「……実のところ、僕は悪い予感がしていたんだ」

「おや、そうなのですか」

「最近読んだ推理物の娯楽小説でもそうなんだが、探偵役が後だしでそういうことを言うのは、不公平というか、正直に言えば腹立たしいからね。解ってるのなら対策を講じるべきだと思うだろ?」

「まあ、確かにそうかもしれませんね。しかし私の場合は、推理小説ならばやはり、伏線をしっかりと回収すべきだと思います。そして、張られていない伏線を後から回想シーンで入れるのは、良くない」

「……では、は?」


 シンジは両手を広げて、店内を示した。

 ネロは、何事もないと言わんばかりに微笑んだ。


「伏線はあったでしょう? 我々は、服装には拘るのです。当然、


 いけしゃあしゃあと、ネロが言い放つ。ネロ・エリクィンを単語にしたなら、間違いなくいけしゃあしゃあという言葉になるだろう。

 寧ろ、いけしゃあしゃあを人間にしたのがネロ・エリクィンだと言っても差し支えないかもしれない、そんな風に思えるほど、ネロはいけしゃあしゃあと言ったのだ。


 駅舎から直ぐにある、一軒の服屋。


 そこには、黒を基調とした服ばかりが置いてあった。


 襟の高い、かっちりとしたコートも黒い。

 帽子も、ズボンも靴も、その殆どが黒い布で作られている。


「ここは、!」

「ご安心下さい、教授」

「……なにがだ」

「どの土地でも、教会の装備は一級品ですから」


 ネロの、にっこりと、邪気の無い笑顔に向けて、シンジは力強く拳を放った。

 勿論、受け止められた。









「おぉ、良くお似合いですよ、教授!」

「それは、驚きだな」


 ネロの、本心であるからこそ質の悪い賛辞を、シンジは肩をすくめて受け流した。


 スーツを新調するのは流石に止めて、コートとセーターを買い求めた。

 夜鳥の翼のように黒いそれらを着込んで試着室を出たシンジを、ネロは見慣れた大仰さで出迎えた。


「いえいえ、本当に。教授は、普段少々ラフな服に慣れすぎていますよ。こうして、着飾るのも必要です。講演もあるのでしょう?」

「まあ、ね。リタにも、良く言われるよ」


 シンジは軽く、髪に触れる。

 頻繁に指摘される寝癖が大丈夫か、確かめる癖が付いてしまったのだ。


「リタ嬢ですか、来られず残念です。お元気なら、何よりですが」

「元気だよ。今回も来たがってはいたんだがね。僕が止めたんだ、出来るなら、友人を優先して欲しいからね」


 より正確に言うなら、『え……あの異端審問官の方も来るんですか?』と嫌そうな顔をしていたから、それが後押しとなった可能性は否めない。

 気持ちは解る。

 何だかこの男の招待は、嫌な予感が付きまとうのだ――もしかしてこいつ疫病神なんじゃないかとは、少しだけ、思っている。


 こうして、教会御用達の服屋に来てみると、その予感が正しかったのではないかとひしひしと感じる。


「いえいえ、祭りの醍醐味は夜ですからね。寒い服装では、楽しめないでしょう。素材も、良いものでしょう?」

「……そうだね」


 確かに、黒いコートの前を合わせてみると、寒さは格段に変わった。

 値段の方も、ネロの口添えもあってか相場よりかなり安い。安くて丈夫なものを、というシンジの願いは、完全に叶えられた形になる。


 それでも。


 、という不安が、拭いきれないまま心に残っていた。

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