第1話一日目、早朝。

 広間に、少年の姿があった。

 周囲を幾つもの階段が囲んでいる。一瞬壁かと見間違うほど垂直に近い、石造りの素朴な階段が、上へ上へと伸びている。


 少年は途方に暮れることもなく、階段の内から一つを選んで登り始める。

 進む毎に、色々なヒトと出会った。

 階段の踊り場、彼らは皆豪奢な衣服に身を包み、カフェのテーブルに座り魅力的な菓子や料理、ワインを口に運びながら笑っていた。


 だがその顔は?


 笑っている彼らの口から上は、黒い靄に包まれていた。

 口だけで笑う彼らの眼は曇り、向き合う誰かの事さえ見ていない。


「……この先に何かがあるかは解りませんよ」


 給仕役が、そう声を掛けてきた。

 黒い霧の下で、静かな微笑みが不気味に蠢いた。


「それよりここで、楽しみませんか。酌めども酒は尽きず、貪れど肉は焼かれ続ける。きっと、とても愉しいですよ」


 少年は首を振った。

 周囲に満ちる香りは確かに芳ばしく、食欲をそそられる。席に就いた人々も楽しそうだ。

 しかし。

 行かなくてはならない。そんな、強い思いが少年の心には満ちていた。


「そうですか」

 給仕は、あっさりと引き下がった。「では、休みたくなったらいつでもどうぞ」


 気配りに少年は礼を言うと、再び登り始める。その背中に、再び給仕が声を投げた。


「……人々の眼は、最早曇っている。啓蒙の光は彼らの視界を開いたが、やがて強すぎる火に焼かれてしまった」


 少年は振り返った。

 見上げる給仕が、満足げに頷いている。


「彼らは怠惰でした。授けられた光に、今も目を背けている。鼻と口だけで、刹那の快楽に溺れている。


 給仕の背後、すっかり遠くなった広場から、眩い光が沸き起こった。

 光は少年の足元までを焼き払い、そして、その後には。


「堕落は、自らを供物に変える。啓蒙の光ルミアレスのみが、それを救うであろう」


 

 血だまりの中で愉しそうに笑い続ける人々を見下ろして、少年は叫び声を上げた。









「…………っ!!」


 ひうっ、と息を吸った拍子に、【魔獣学者テイマー】シンジ・カルヴァトスは夢から覚めた。


 がたんがたんと、振動が規則的に身体を揺らす。

 革張りのシートが放つ独特な匂いに、流れていく窓の外の景色。そして、向かいの座席に座る見知らぬ女性。

 自分の部屋ではない、とシンジは思い、直ぐに記憶が魔石機関車【サジタリウス】の、客室だと教えてくれる。


 何という悪夢だ、シンジは安堵しつつ深くため息を吐いて、ぐったりと背もたれに寄り掛かった。

 膝の上には、年代を感じる古びた分厚い本が置かれている。人類の歴史において、彼らがいかに自然を忘れたか、回りくどく書かれた書物だ。


 こんなものを読んでいるから、あんな夢を見るのだ。

 シンジは再びため息を吐き、眼鏡を外してそっと目頭を押さえた。


「……? あの、何か?」


 眼鏡を掛け直すと、向かいの女性と目が合った。

 どうも、目覚めたときから見られていたような気がするが、どうも見覚えはない。


 尋ねると、女性は慌てたように口を押さえ、それから頬を染めながら虚空を眺め、やがて意を決したように口を開いた。


「あ、あの……、もしかして、シンジ・カルヴァトス教授では?!」

「えぇ、そうですが……」

「やっぱり! 、シンジ・カルヴァトス! お会いできて光栄です!」


 心配になるほど興奮した様子で、女性は傍らの旅行鞄をひっくり返すと、座席に散らばった荷物から見覚えのある本を手に取った。

 それは、シンジが書いた本だった。


「【観測されたウィータ】! それから、それから、これまでの本も全部読んでます!」

「それは、どうも」


 嬉しいやら恥ずかしいやら、シンジは苦笑した。


 世界から独立した次元の狭間、魔術師の楽園たる魔法研究塔マレフィセント

 神秘学の学舎であるその場所で、シンジは魔獣学の若き教授として過ごしながら、魔術の研究者の常として、研究結果を本にまとめ、出版している。

 タイトルにもなっている魂の元素、ウィータを発見したことで、シンジの名前は多少なりとも世に知られたが、まさか、こんなところで読者に出会うとは。


 改めて、シンジは女性を観察した。


 金髪を短く切り揃えた、あどけない顔立ちの女性、いや、少女だ。豊満な胸が、窮屈そうにタートルネックのセーターに収まっている。

 ベージュのスラックスに踵の高いブーツという、いかにも若者らしい服装に、シンジは首を傾げる。


「……君は、神秘学を学んでいるのかな?」

「はいっ、あ、その……学徒らしい服装では、無いですよね」


 正直に言えば、塔の中で見掛ける学生よりは垢抜けている。

 だが、世間一般の神秘学の学び手としては、標準的とも言えるだろう。少なくとも、魔術師らしい服装というのなら、シンジが既にアウトだ。

 魔術師であるシンジ・カルヴァトスの格好は、茶色いジャケットにスラックスだ。ネクタイはおろか、ジャケットのボタンさえ閉じていない。


 魔術師らしいフードとローブなんて服装は、最早化石だ。儀礼的な場でしか着られることはない。

 けれども世間での、魔法研究塔の住人に対する印象イメージは、未だにだ。獣の皮をなめしたローブに身を包み、カビと埃の臭いを蹴散らすべく、大釜から不気味な煙を立ち上らせる。

 今そんなことをしているのは、恐らく舞台役者だけだ。ガラスのフラスコが発明されてからというもの、実験は遥かに清潔に、洗練されるようになった。


 恐縮する少女に、シンジは首を振った。それから、自嘲するように自分のジャケットを摘まんで見せる。


「服装なんて、関係がない。魔術師にとっては、結果に影響を与えない要素は全て余分、詰まりは自由だよ」

「流石は教授、噂の通り、革新的ですね! あの、サインを頂けますか?」

「はは……構わないよ」


 瞳を輝かせる少女は、塔で自分が受け持つ学生たちと、良く似た年頃のようだ。憧れが、何気ない言葉にも無駄に意味を持たせる。

 同学年の友人たちと旅行に出掛けた内弟子の少女の顔を思い浮かべながら、シンジは快く応じた。

 受け取った本は、相当読み込まれているようだった。ウィータの発見から、出版して、未だ五ヶ月ほどだというのに、熱心な生徒らしい。


「名前は?」

「ルカリオです、ルカリオ・ファビウム」


 書き終えると、丁重な手つきでシンジは本を返した。少女、ルカリオは更に慎重な手つきで受け取ると、恭しく抱き締める。


「ありがとうございます、あぁ、こんなところでカルヴァトス教授に会えるだなんて……」

 上気した顔のまま、ルカリオはうっとりと本を撫で、ハッと目を見開いた。「もしかして、教授、目的地はリシュノワールですか?」

「まあね」


 誤魔化すまでもないと、シンジは頷く。

 この時期、詰まり、未だ冬も明けやらぬ秩序アズライトの月一日に南西方面の列車に乗る者の内、およそ八割はそこを目指すだろう。

 港町、リシュノワール。

 魔術師にとっても、そして、そうでないヒトにとっても、この時期には重要な土地である。


 アズライト聖国の全国民が信じる、秩序神教。その最も重要な祭事である創世祭が、七日七晩に渡り行われるのである。


 学生たちの休みに合わせて、シンジも休みを取った。

 友人に誘われて、祭りを見物するために。そしてそのついでに、仕事を一つ片付けるために、だ。


「君も、リシュノワールに?」

「はい! 私は、ミド=レイライン大学で、錬金術を学んでるんです」

「ほう、あの……」


 聖国の中でも一二を争う有名な大学名に、シンジは感嘆の声をこぼした。

 神秘学、中でも錬金術に関しては、かの大学の右に出るところはあるまい。


「ということは、もしかして、教授! 創世祭最終日の特別講演は、もしかして教授ですか!?」

「……それは、ノーコメントだ」


 内心で舌打ちをしながら、シンジはそっと手元の本とメモを片付けた。錬金術に関する本と、それを噛み砕いたメモである。


 詰まりは、少女の読みは完璧に当たっていた。


 休暇申請をしたシンジに、【マレフィセント】はこれ幸いと講演予定を投げ渡したのである。この手の仕事を避けたがるシンジといえども、休暇を人質にとられては頷くしかなかった。

 お陰で、交通費と幾らかの自由に使える経費が降りたのは、不幸中の幸いと言えなくもないが。


「もし、大学が発表していないなら、僕の口から言えることは無いよ。悪いがね」

「そうですか、そうですよね。でも、否定なさらないんですよね?」

「悪いが、講義に関係の無い質問は受け付けない主義なんだ」


 もう殆どバレているとはいえ、こういうことは信用にも関わる。

 断固とした拒絶を示すべく腕を組んだシンジに、ルカリオ嬢は一瞬表情を曇らせると、直ぐに輝かせた。

 嫌な予感に、シンジは身構えたが――手遅れだった。


「じゃあ、!!」


 ……列車が目的地に到着するまでの二時間半。

 シンジは、神話生物と【聖伐】、そこからの魔術的発展に関してひたすらに質問攻めの憂き目に会うことになったのだった。

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