ルミアレスの変身
レライエ
第0話前夜祭。
アードライト大陸南西の港町、リュシノワールは、一年で最も忙しい夜を迎えていた。
かつて、奇跡によって生み出された大地に築かれた町並みの、ほぼ中心。
貝殻を砕いて作った純白の公園で、高く浮かんだ月を見上げながら、ナバレ・スフレ司教は、ほう、と息を吐いた。
ここ数週間の疲れが固まったような重いため息は、
海風が、直ぐにそれを掃き散らしていく。
ぶるり、と身を震わせて、スフレはコートの前を固く閉じ合わせる。全く、大邪神の月が訪れるまで未だ十六年もあるというのに、いくら何でも寒すぎる。
年々、特に五十才を越えた後の十年、どんどん辛くなる。
昼間なら未だましなのだが、流石に夜ともなると、邪神の月らしい寒さが容赦無く襲い掛かってくるのだ。
神よ護りたまえ、とスフレは内心で呟いた。
無論、無意味だ。信仰は魂を死の荒野の風からは護ってくれるが、冬の寒さから助けてはくれない。預言者の血を模したワインならば、もっと慈悲深いかもしれないが。
「お疲れ様です、スフレ司教」
そんな不信心な祈りが、まさか聞き届けられたわけではないだろうが、佇むスフレに掛けられた声は、湯気を立てるカップを携えていた。
礼を言って受け取ると、香ばしい香りに眉を寄せる。
「……ホットワインかね?」
「えぇ」
「だと思ったよ。この街の住人は、疲れた夜に紅茶を持っては来ないからな。それほど、紳士的な連中は居ない」
スフレが肩を竦めると、カップを持ってきた若い神父がくすり、と笑う。
二人の視線の先、明々と灯したかがり火を頼りに作業を進める人の輪。
その背中は、悉くが筋骨隆々。日焼けした肌を、この寒いのに殆ど隠すこともなく晒している。
「船乗りたちだ」
「そのようですね」
「彼らは海に酔わない分、陸では大いに酔う。……今も、素面の者は一人も居ないだろうな」
「それは、祭りのせいもあるのでは?」
町の住人の内半分以上を占める船乗りたちが築きつつあるそれを眺めながら、若い神父は指摘した。
「あと数時間もすれば、【創世七夜祭】が始まります。前祝いをしていても、神も咎めることはないでしょう」
「それは当然だろうな。何しろ、未だ夜明け前だ」
祭りの始まりは、秩序神アズライトの黎明からだ。その前夜である今は、正しく神の不在である。
「御輿はじき完成する。祭りが始まる訳だ」
「その時こそ、我々の出番ですね」
夜風に、青年の首元を飾る深紅のストラがはためいた。
青年とスフレは、単なる宗教家ではない。この赤い襟巻きを身に付けることを許されているのは、もっと苛烈で、強烈な使命を帯びた者だけである。
即ち、【
神への祈りの他に、祈りやすい世界の構築にも責任を負う役割だ。
かつては、異端者である魔術師の監視、及びその排除を担い。
彼らが表向きは隠居した現在では、国内における犯罪行為の捜査・逮捕を一手に担っている。
創世祭は、秩序神教会にとっては正に一大イベントだ。そして同時に、街の住人にとっても一年で最も賑わう一週間である。
ただ騒いで、酒を飲み、金を使うだけならば未だ良いが、酔った船乗り同士のいざこざは大体が拡大する。
そこに、地域のことを良く知らない観光客が組み合わされば、火種は危険な大きさにまで燃え上がるものだ。
町の秩序を護る立場としては、最大限の人員を動員し、万全に万全を重ねる必要がある。例えば、間も無く出来上がる御輿を、こうして見張っていたり、とか。
「教会までの道は?」
「何人か集まっているようですが、去年ほどではありません。何しろ今年は、随分寒いですからね。酒場を離れ難いのでしょう」
「だとすれば、相当できあがった連中が出てくるな。しっかり通行人をコントロールしろ」
「大学側はどうしますか? 三年前は学生の悪ふざけで、危うく御輿が燃やされるところでしたが……」
「今年は、例年の記念講演が最終日になったから、それほど人は集まらんだろうが、念のため、五人ほど回しておけ」
「はいっ」
「……司教様っ!!」
御輿の方から聞こえた叫び声に、スフレは片手を挙げて応じる。
どうやら、完成したらしい。
出発の前に、司教が祈りを捧げる決まりなのだ。若い神父に伝言を持たせると、スフレはカップを干して、ゆっくりと御輿に歩み寄る。
「司教様、スフレ司教、急いでください!!」
「ルド、落ち着きなさい、解ったから」
待ちきれないとばかりに駆け寄ってきた中年の船乗りに、スフレは苦笑する。
祭りが無事始まれば、彼らも大いに騒ぎ、そして大いに飲める。気が逸るのも無理はないが、それにしても、老人をあまり急かすものではない。
聖書を思い浮かべ、何か、『ヒトを急かしてはならない』という意味合いの寓話を用いて、彼を戒めようとしたスフレは、しかし船乗りの顔を見て口を閉ざした。
厳めしい顔立ちに浮かんでいるのは、あれは、まさか恐怖か?
「……何があった?」
「……御輿に……」
短く言うと、船乗りは口を閉ざして素早く十字を切る。
船乗りという生き物は、存外迷信深いものだが――けして臆病ではない。先の見えない夜の海や、荒れ狂う波にも笑いながら立ち向かう屈強な連中だ。
それがどうだ。
広場の中央に置かれた御輿を囲む、海の男たちの表情はどうだ。
駆け寄ったスフレを見つめる蒼白な顔、そこに嵌め込まれた瞳たちの、幽鬼のごとき虚ろさはどうだ。
「……どうした?」
問い掛けにも、応える声はない。
歴戦の船乗りたちは、魂の抜けたような表情で、ゆっくりと輪を解き、御輿までの道をスフレに示しただけだ。
何か、口にするのも憚られるような、恐ろしい事態が起きている。
先程までの寒さとは違う、骨まで凍らせるような悪い予感に身を震わせながら、スフレは慎重な足取りで御輿へと向かう。
今年最も大きく育った
数週間をかけて準備を重ねてきた、神聖な小箱の蓋が、無価値なものであるかのように地面に落ちている。
そして、その片割れは。
「…………」
まるで夜空を見上げるように、箱は、開かれたまま置かれている。
世界から、まるで音が消えたかのようだった。スフレの耳には、どくんどくんという自らの鼓動の激しさだけが、けたたましく鳴り響いている。
ゆっくりと、ゆっくりと、スフレは箱に近付き、それから、恐る恐る覗き込んで。
「っっっっっっ!!」
目があった。
――箱は、まるで夜空を見上げるように置かれていたのでは、なかった。
箱は見上げていた。
「神よ、助けたまえ……」
力無く呟き、スフレは震える手で十字を切り、祈り始める。
……箱の中からは、生首がじっと、空を見上げていたのだった……。
「…………」
にわかに騒がしくなった、夜の広場。
それを遠巻きに見詰めている人影が、一人。
暗がりで良く解らないが、どうやら船乗りたちにも劣らない、逞しい体つきの男性である。
やがて、騒ぎが起きた、という事実そのものに満足したかのように、男は
暗がりから街へと出るその寸前、男はフードを被る。
その影から覗く唇が、笑みを形作った。
そして舌が、囁くように言葉を紡ぐ。
意外にも老人のように嗄れた声は、溜められ歳月を経た湖のように、ドロリとした淀みを感じさせる。
その名前は――執着。生命と、そしてそれ以上の何物をも引き換えにする、そんな覚悟だ。
祭りの前夜、騒動を背景にしたその執着は、深く黒く、不気味な響きを伴っている。
「始まりだ……届かせる。手に入れて見せるぞ……ルミアレスを……!」
笑みを浮かべながら、男は闇に消えていく。夜より暗い、笑みを浮かべながら。
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