そうして、炎蝶は赤い翅で夢を描く
しずしずと雪が降る。ちらちらと赤い花が咲く。
それは記憶の奥底で見える景色。冬は遠く、過去は遙か遠い月のよう。夢の中でなければ触れられない。
今は秋。決して、雪の白さなんてありはしない。今、住む街に、この赤い花は咲いたりしない。
さらさらと赤い花が舞う。するすると雪が流れた。
崩れ去った教会を示す十字架と、倒れた鐘だけが音もなく、想いも褪せるように廃墟として広がっていた。
――これか夢の追憶だと、リゼは記憶との差に気付く。
「……花が、咲いている」
それは、此処がずっと放置された礼拝堂だと気付いたからだ。
リゼの記憶では、この十字架は風に晒されるものではなかった。
天井はがらりと崩れて雪と風が舞い込んでいる。大きな鐘もヒビ割れて転がっていた。
床も壁も朽ち崩れて、外から雪と、鮮やかな赤い花が運ばれ、咲き誇っている。いったい何年、放置され続けているのだろう。
綺麗に磨かれた十字架は、もう錆びだらけ。
ここに沢山の、孤児の兄妹達がいたなんて。祈りを捧げていたなんて。
「そうね。花だけが、憶えているのでしょう。今の、此処は」
ちりんっ、とロングケープに結ばれた鈴を鳴らして、膝をつくリゼ。
そこにあるのは、愛された赤い花だ。名前は覚えていないけれど、一緒に摘んで、十字架に捧げた優しい気持ちは、とくん、と胸を鳴らす。
まだある。
火のように揺らめいて、赤い雪のように舞い散る、この花は。
この思い出は、この胸に。ぎゅっと瞼を閉じて、痛みを堪える。クレリアと出逢えた場所であり、想いの焔がともった場所。だが、悲劇と惨劇でもあった、過ぎ去った場所。二度と戻ったことはない。
だからこそここは夢の中。追憶。迫る程のリアリティは、けれど、年月を経た現実を見て、聞き、感じて知ったものが、意識の中に一緒にいるということ。
決して、秘密には出来ないだろう場所だから。
祈りと、願いの始まり――いいや。
『そう。お前の起点とは此処だ。リゼ』
背中からぴたりと、それこそ背中合わせのような距離で、美しい女性の声が聞こえた。クレリアではない存在が夢の中で、けれど、何処か掴み所のないクレリアに似た雰囲気で話しかける。
意外などではない。これを見せている誰かがいるというのは、何となく察したのだ。記憶と違う夢。追憶をなぞる、赤い花と白い雪。咲き誇っては、舞い散り、廃墟の礼拝堂を彩る想いの色彩。
敵意は、ないと感じた。
ただ金色に燃える、今のリゼとは比較にならない程の劫火を憶える。
魂さえ焼き尽くすような。それでいて、あまりにも煌びやかな天上のそれ。髪の毛もきっと長い黄金で紡がれたように。見なくても判る程、強い存在、として背のすぐ傍にあるる
ただ言葉を交わしたいのだろうと、振り返ることなくリゼは応える。
「……そうね。私は、ここより前の記憶が、とてもおぼろげ。雪のように儚くて、想い出そうと触れると、とけてきえてしまう」
『優しい男だからな。卑怯な男だからな。ま、仕方あるまいさ。お前に恋をした男の、不器用で不要な優しさだ』
「クーの想い出さなくていい、は、暖かい優しさ、だよ」
ふわりと微笑み立ち上がる。
「復讐なんて、どうでもいいって。そう想ったのは、何時だろう」
『――きっと、お前が風邪をひいた時ではないかな』
「ああ、だとしたら、何て幸せ。髪の毛を撫でてくれて。ずっと夜もつききりでいてくれて。その時、私は――クーの傍がいい。離れたくないって、風邪を治したくなってたのね。不治の、愛とも恋とも呼びたくない、恋慕に灼かれて魘されていたのね」
穏やかに笑うクレリアが好き。頭を、髪を撫でてくれる暖かい手が好き。でも、今日初めてみた泣いている姿は、とても、とても愛らしくて――このヒトの傍に立てたら、もうそんな悲しい想いはさせなくてすむのかなと。
白銀の雪と、深紅の花びらが舞い踊る中で想うのだ。
一歩、靴音を鳴らして進む。決して道を見失わないでと、鈴の結われたロングケープが揺れた。
臙脂のそれは、進むべき翅として。
「だから、その手を、握れる距離にいたい」
『嘘つきでもか?』
「……嬉しい」
こつん、ちりんっ、と十字架へと近づく。
吹雪く風は、いっそ幻想的だ。
切ない位に綺麗で、ここからリゼが始まったとしたら、何と幸せなのだろうと小首を傾げる。ああ、でも――昔の私はそうではなかった。
「クーは、私には嘘をつかないから。他と、違うんだね。クーが嘘つきで、嬉しい。もしかしたら、私だけ、クーの本当が判るだけ、かもだけれど」
ああ、それなら嘘を幾らつかれてもいい。
緩やかな吐息。流れるような足。軽やかな姿は、蝶のように。
「――クーの嘘は、私の前で、嘘にならない」
『……対した惚気話だ』
「だって、リゼはリゼで、クーは、クーだもの」
他の人は知らないのだ。
唇はこんな時に不満げに。瞳はするりと流し目で後ろへ。気配だけの存在に、振り返りもせず、緋色の瞳を向けもせず、不服の意志だけを告げた。
この、子供っぽい表情も、クレリアだけの知るリゼ。逆に、リゼしか知らないクレリアもいるのだと、首元にかかる緋色の髪を撫でる。
それを撫でて、梳いて、幸せそうな息を重ねるクレリアのこと、誰にも知られたくない。だから、この髪はクレリアだけに触って欲しい。
くすんだ銀の髪が、どんなに綺麗に輝くか。瞳の奥、緩やかに滲むその青さに安心するか。嘘つきは、リゼ。クレリアは、不器用な位に、嘘が苦手。そういう処も、全部だ。
『では、貴様の本名は何だよ。記憶を、夢を除いても貴様の名は『リゼ』としかない。ああ、そんな訳はあるまいな。リゼ……この赤い花の名が貴様の名など』
「では、あなたは誰? きっと、名前さえ剥奪されたモノ」
誇り高く、自信に満ちた声はまるでヴァイオリンのソナタだ。
だが、これが神聖なものかというと、リゼは首を捻る。気配に僅かにクレリアのものを感じるが、これはまるでクレリアの一部だ。ふとした匂いのほんの残滓を、感じているよう。
ただ、振り向かなくても判る。
天蓋にて劫火を振りまく、金色の色を覚える。
その熱量。強さ。鋭さ。何もかも、憧れる程に。いいや、何処か、懐かしいのたろうか。
「きっと、リゼって愛称。誰かが呼んだ。私が覚えている。綴りは、判らないの。何て書くのか。昔は訛りが酷くて、ロゼかリーベか、もしかしたらエリーゼやエリザベートか、クーさえも判らなかった」
名前もない緋色の少女――それが、リゼ。
では、そんな少女をクレリアが抱きしめ、育てたのはどうしてだろう。
凍えないように、道を見失わないよう。まるで、自分がそうだったと、赤い蝶の翅のようなケープで包んでくれたのは、一体、どうして。
「そんな事――」
『――今更、どうでもいい』
言葉はふたりで繋いだ。くすりと笑う気配も重なる。
指は胸に。そこにある鼓動に宿る願いを見失わないように。なのに、するりと動く。柔らかなケープの上を指先がなぞり、重ねた唇に、触れた。
祈りを口にして、重ねて結んだ、その場所に。
「クー。好き、だよ。あなたが泣かないように。もう涙なんていらないように。この世が総て、そうだというのなら――私はこの世界を否定する」
『したい、だろう。力なきもの』
「あなたが、私の力なのでしょう? 翼ある、ものよ」
振り返らなくても、くつくつと笑っているのが判る。十字架の傍、赤い花に包まれて、ふたつ目の十字架として突き刺さっている長剣が、きらりと輝いた。
それは美々しい騎士の剣だ。白銀の刀身に、十字の鍔。装飾こそ少ないが、造りと込められた想いが、まるで内面から脈打つ焔のように感じてしまう。決して消えない。リゼの求める焔の一端。
正しいも間違いもない。ただ真っ直ぐに、鋭利な程に祈りと願いを込めて、そこにあるもの。
――劫火の剣。
遙か昔。遙か遠く。月よりも龍よりも、離れてしまった奇跡の名残。
ちりん、ちりん、と鈴が鳴る。
こつっ、こつっと、足が速まるにつれて。
「これが、アナタの力」
『の、一つに過ぎない。戦の剣だよ。が、これを手にする少女を見たかったのだがね? 私の後継だ。私を受け継ぐものだ。……が、愛を詠うたけの少女とは、また』
溜息。けれど、それが、とても愉快げだったから。
伸ばした手を、そのままにした。
『――愛という炎の海の底で、泣かないでと詠う人魚姫なら、ああ。嫌はない。臙脂の翅を頂き、緋色の血筋を持ち、深紅の焔を纏いて踊れよ。なあ、私は、私達は……それが好きだったのだ。祈る、ヒトが、好きだったのだよ』
「大丈夫、私は、クーにしか祈らない」
『クーしか救わない』
「うん。そして、ううん。クーをクーといっていいのは」
何時かの遣り取りだと想う。
繰り返した夜を想い出して笑った。この時、もう、好きな気持ちは溢れて、走り出して、夜を彷徨っては、クレリアのくれたケープの暖かさを、鈴の音を、感じていたのだと、ようやく気付く。
近くに居ると、火傷してしまいそうな、行き場のない想いが燻っていたのだとも。
「私だけ。クーをクーと呼んでいいのも、クーを救うのも」
一度だけ、何時も触ってくれた緋色の髪をかき上げる。指先で触れる、ふわりとした柔らかさ。クレリアが何度も何度も梳いて、撫でてくれたからで。なら、もうちょっとだけ、大切にしようかななんて。
この指で何が出来るのだろうと、伸ばしていく。細い指は、決して巡り会う筈のない、戦の剣へと触れた。
握りしめる剣の柄。純銀で出来ているそれに、途端、臙脂の巻き糸が絡みつき、リゼのロングケープと同色に、十字の鍔も飾りも変わっていく。
「――私だけじゃなきゃ、いやだ」
燃えたい。焼き付く程の想いは恋慕。
この世界がどんなに絶望に凍えても、焼き祓ってみせる。どんに赫怒と呪詛に塗れていても、斬り払ってみせる。
「祈るだけじゃ、叶わない」
『勝利とは』
「祝福とは」
抜き放つのは、何て軽い。
馴染むのはまるでずっと扱って来た剣のよう。
だというのに、放った剣閃は、リゼ自身が驚く程に凄絶。
雪が溶ける。赤い花が燃える。身を廻して繰り出したから、その勢いに釣られて、雪と花びらが更に舞い込む。瞬間、鮮やかな紅葉の森が織り成すような、赤、紅、緋の色彩で世界が覆われた。
――世界の総てが、リゼの鼓動を中心に回っているように。
振るえば世界すら断てそうな気持ち。
勇気だろうか。それとも信仰だろうか。
翅のように舞う一閃。紅蓮の色彩は刀身から漏れた、リゼの魂の色彩だ。世界すら焼き尽くせそうなそれに目を細めた。
ルビーのような瞳に、更に、焔のような想いを乗せて、唇は紡ぐ。
指先で、与えられた剣を握りしめながら。
「望むものに与えられる。だから、決して奪うだけはない。与えたいと、救いを求めるクーに、今は、私が与えられる」
『それがどんなに凄絶なものでも。例え、世界を敵にしても』
「私が幸せなら。クーが幸せなら。それでいい」
『何とも、また』
舞い散る火は、新しい赤花だ。
十字架を焼いて、赤く染めて、美しい破滅の色合いを添えた。残っていた瓦礫も燃えて、優しい音色を奏でる。
そして、振り返った時にあるのは、白い羽根だけだった。
――決して、この世界では認められていないもの。
「見捨てし神の放った、災いのもの」
ソレは皆、鳥の翼を持つが故に、鳥と翼はこの世界のタブーだ。
象徴として消され、言葉として避けられ、破滅をもたらすと鳥は忌避される。
滅びが為に、神の使わした天災。
名を喪い、今や、神も亡く、龍に哀れまれ、世界に拒絶されて、形を喪うばかりのそれを――『異灰の災厄』と呼ぶ。
「喪われた元の名は――天の、使い」
それが振るってだろう、焔剣を手に、リゼは一歩踏み出す。
不思議と雪は溶けなくなっていた。赤い花は、燃える事なく、緋色の焔の欠片と共に舞い散り続けている。
深紅の祝福――或いは、煉獄の入り口で、リゼは微笑んだ。
儚く、鋭く、けれど、切実なまでの熱を瞳にため込んで。
炎のような言葉を、祈りと唇から零しながら。
こつっ、と――クレリアから貰った靴音を、リゼが響かせる。
「そう。世界にクーの救いがないというのなら、私が、世界を焼き払ってみせるよ」
こつっ、と――今までなかった道を、踏みしめていく。
赤い花を、雪を、瓦礫を。かつての、兄妹たちの遺骨かもしれない、何かを砕いて。
緋色の髪の毛は、ゆるりと靡いて流れた。
指先は、剣の柄を握りしめて、放さない。でも、片手は、心臓の上に。
「だって、この世界は地獄。神に見捨てられた世界を、祝福なく、可能性なく、滅びを待って苦しむ場所を、他にどういうの?」
天の使いさえ墜ちて、人を苦しめ、命を侵す。
魂は蝕まれていき、可笑しな処は、それこそ星の数ほど。新しい可能性を、希望を世界を識る大賢者が祈る。どうして、自分の力で願いを叶えないのか。
それは、無理だから。
誰かお願いと、救いを求めている。
地獄という場所である事を隠して。絶望に明日を閉ざされないように。
それが何なのか。理由は何なのか。未だ触れたことないリゼには判らない。絶望の根源、世界が死にたがる病という謎。けれど。
「地獄なら、そう。私が、この世界を否定するよ」
うっすらと気付いていた。
何時からかは判らない。だが、クレリアの傍にいたのは伊達ではない。猫ではないのだ。瞳も耳も、捉えている。愚かでいい。想い出さなくていいと、優しく、撫でられても、実は気付いている。
気付かないフリを、していた、ふたりだから。
「魂を、許せないんだね。この世界は」
神様が見捨てたのが後なのだ。
龍が、その身と愛を捨てて支えるしかなかったのだ。
それでも完全ではない理由。考えれば簡単だ。世界は死にたがっている。いいや、滅びかけている。
神でも決して、その滅びをどうしようも出来ず、天使で先に滅ぼした方がマシと、見捨てた程に。
可愛そうな赤子のようだ。死産された可能性のようだ。だからこそ、何も亡く、貪欲に、盲目に、愛を求めるように終わりを求めている。
もう、はやく死にたいのだと。
受け継がれる魂、想いの輪廻が苦しいのだと。終わりと始りで泣き叫ぶ声に耐え切れず、世界が、死を望んでいる。
命はいずれ終わるなら、はやく、はやく、自分と一緒に。いいや、自分より先に死んでくれと、願っている。その為に、何かが蠢いて、魂を浸食していく。
それを地獄と云わずして、何という。
神も天使も、龍も聖女も、使徒もその死にたがる絶望を、どうにもできなかった。あのクレリアさえ。他の大賢者さえ。
でも、それがあったから。彼ら彼女らがいたから、リゼは今、剣を指先で撫でながら、歩き始められた。
それは、決して産まれる事のなかった可能性。
聖女の願望が法則として世界を覆い、四つの月と龍が守護して、十二の使徒が作り上げた箱庭に、あるべきではない魂。
百万回産まれて、この魂は拒絶され、消えて死ぬだろう。
それでもなお、死ぬと魂が判って繰り返す。百万回産まれて、百万回死ぬ。だから、たった一度、百万と一回目で、言葉を紡いだ。
「命を、想いを、世界を。総て、統べて、なかったことにしたい」
だったら、ようやく認めたこの胸の想いさえそうなのだろう。
与えられるだけじゃ、恋じゃない。愛と呼びたくない。
だから、ぬくもりと優しさを。救いというには陳腐な、当たり前のこころを、クレリアに返したい。
明日という、光を。私はここにいると、手を握って。
「――私とクーを否定するなら、世界さえ敵、ね」
絶望という可能性。
どうしてそうなったのかは知らない。クレリアにも聞かない。
ただ、辿り着くだけだ。愚かでいいのでしょう。無知でいいのでしょう。リゼに翼はなく、この世界から抜け出す事なんて、出来はしない。
けれど、けれど。心と魂は。違う。そんな高尚なものじゃない。
「この想いだけは誰にも、何にも、否定、させない」
ひどい熱の籠もった吐息。
その為に、踏み出そう。その為に、道を斬り開こう。灯りがないなら、焼き祓った焔が、道を照らす灯火となる。
熾烈かつ繊細。物静かで儚げな少女は、けれど、その本質は焔だ。熱風と赤い花びらと焔と共に、決して消えない雪の中へと足を踏み出す。
教会を出た先は、ただ、ただ白い吹雪が広がっていた。
凍えた現実が、純白の美しさで、絶望を詠っている。ごうごうと、こうこうと、四つの月だけが、悲しそうに、諦めているように、みていた。
緋色の瞳が、その月を見た。
きっと、そこにも魂があるのなら、
――どんなに危ういと想っても、瞳を反らせない。
美しく、幻想的で、夢の中でなおリアリティを奪っていく少女
まるで、焔の中へと呑み込んでいくように。
地獄さえ焼き払う想いが鼓動で、脈打った。
風と焔に煽られ、臙脂色のケープが、赤蝶の翅のよう、ふわりと舞う。
周囲を紅蓮の炎に囲まれ、それを灯りとしながら、けれど、リゼは悲しそうに、その繊細な美貌を傾かせた。
夢の中でなお、見るものの現実感を奪う、美しい幻想性。
現実と乖離した、叶わない想いが焔と揺れ、波打ち、蝶の翅と羽ばたく。そんなことはありはしないと、世界が軋む程に。叶わない現実を、焼いて、変えていくように。
「クーに、触れたい。クーの、ぬくもりが、欲しい。……優しさの、熱が」
それは、自分と同じ温度では、ただ、寂しいという現実。
地獄は決して、それを理解出来ないのだろう。そう想うと、瞼から、涙が零れた。
クレリアに、涙を下さいといったのに――自分だけ泣いていい、卑怯さを曝け出して。
その、変わり。
ちりんっ、
と鈴が鳴って、リゼという少女の始まりを告げた。
これは愛と、絶望のお伽噺。
終焉と救済。煉獄と、その中で触れるぬくもりの。
「笑って、クー。泣いて、クー。私の、前だけで」
代わりに。
「私も、クーの前だけで泣くから。涙の熱さには、この天の焔でさえ、届かないから」
悲しくて、辛くて、寂しくて泣いたら、きっと凍える地獄に氷珠とされるだろう。沢山の命のように。
怒って、呪って、散った涙は、きっと異灰の求める炎に呑まれるだろう。魂と命を奪い、浸食するのがあれだから。それが地獄にあるよりは、救いだと勝手に想っているから。
「幸せで、泣こう? ――笑わせるのは、私には、まだ、難しい」
涙を止めて笑わせるなんて。
途方もない幸せだと、リゼは気付いていた。
泣くのは簡単、泣かせるのはもっとだ。でも、ほんとうの意味で笑わせるって何だろう。
だってこの世界は死にたがり。絶望に満ちて、終わりへと収束していく。それが普通なのだから誰も、絶望を当たり前だと認識してしまう。
変わろうとしないなんて、絶対に可笑しいのだ。それか焼け爛れた路ほ素足で歩くような痛みでも、一歩ごとに千本の針で刺される痛みがあったとしても、変わりたい。求めたい。願いたい。
だって、ここは絶望という地獄。
そのままに浸って、変化を求めない諦観が基本。希望をと詠う聖人、大賢者こそが、その世界の絶望に触れているということ。
望まなければ、苦しみなんてない。
理想と夢を諦めれば、辛さなんて判らない。
それか終わってしまった世界。その先に光を求めてしまったら、世界が地獄の暗闇で、炎の中で踊るように進まないといけない。
「難しいね。でも、諦めたくない。先が、夢が、明日がこの手に欲しい」
未だない可能性をと詠うのがこの都市なのたから。
炎を伴い、焼き尽くして、自分の身と心さえも赤々と、光となろう。
涙を払す、絶望の先をみつけたのだから。そうなりたいと、ここに誓って。
ちりんっ――と、ケープの糸がほつれて。
ちりんっ、と役割が終わったように、ひとつの鈴が溢れ墜ちた。
赤い、赤い、その珠。四つの月のひとつ、紅月のように。
クレリアの見た光が、踊るように揺らめいた。出逢いの時から時間を経て、絶望に抗う、紅の瞳が、地獄を見た。
ふたりなら駆け抜けられるだろう、煉獄の姿を。
けっして、けっして、ひとりでは流星でも届かなかった、光の先を。
灰色の聖書という絶望(オモイ)の残骸を、焔蝶が焼き尽くしていく。 幸せを求めて。愛の色を纏って。赤く舞うように。
現実で叶う筈のない想いが、現実で結ばれていく、
そして、その翅を散らしながら――焔たちはそのユメを謡っていた。
炎蝶と灰色の聖書 第一部~赤い蝶が求める炎~ 藤城 透歌 @touka-kutinasgi
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