異なる現実にこそ、理想の夢を見て

「……クー」

 瞬きのような気まぐれだったらどうしよう。

 そんな筈はないのに。だったらあの夕暮れの帰り道なんてない。泣きそうな、クレリアの声はなかったことになる。そこにあった悲しみも、不安も。ぎゅっと、貰ったケープの胸元を指先で掴んだ。

 いいや、それでは足りなかった。こつんっ、と足がもう部屋の中なのに駆けだしている。虚空の先、手は伸ばされた。

 螺旋描く過去は不安を煽って、片付けるクレリアへとリゼは抱きついていた。それは怖がって腰に腕を回す幼子のようで、少しだけ、リゼは自分が嫌になる。

 爪を立てたい。何故かふと、そう思って見上げると、上から髪の毛を撫でられた。

「座って?」

「…………」

 猫のように爪を、甘く歯を。傷をつけてしまいたい。そうでなければ、この人は本音を出してくれそうにないのだ。泣かせて、しまいたいのだろうか。首筋へと、爪先で触れた血の感触はありありと。

 浮かんだそれから逃れるように、するりと何時もの場所へと座るリゼ。

 先ほどまでクレリアが片付けていたソファの上。とても落ち着かない。ふかふかしているのが、雲の上のようで、そのまま落ちてしまそうなのだ。確かな足場がない。

 喉が真綿で締め付けられるよう。心臓にいつの間にか、か細い針があった。

「リゼ、どうしたのかな」

 その横に座り、背を向けたリゼの赤い髪へと触れるクレリア。

 そのまま、近くのテーブルの棚に仕舞っていた櫛を取り出し、ゆっくりと、リゼの髪の毛を梳いていく。

 撫でるように。確かめるように。それでいて、何処か、祈るように。

 それがふたりのいつも。リゼの髪を梳いて、撫でるクレリア。

「…………」

「…………」

 優しく、穏やかだった。硝子のように綺麗な光景。ただ、硝子のように、とても壊れやすい。

「ね、クー。どうして、クーが私の髪を梳きはじめた?」

「あのね、君が髪の毛をしっかり乾かさないから、風邪を引いたんだよ。それもひどい高熱で」

 苦笑して答えるクレリア。覚えていない、のではなく、どうでもいい事だったから、ああ、とリゼは頷く。

「ん、そうだった。でも、それでクーも絶対じゃないって思ったの」

「魔法は得意だけれど、風邪を引かないようにとか、龍や、その十三の使徒じゃないんだから」

「魔法使いでも、無理な事は無理だしね」

 クレリアといたら安心。そう思って、春先の頃に髪の濡れたままに寝てしまったのだ。そして、寒暖の差の激しい時期。急激に寒くなった朝には、高熱を出して震えているリゼがいた。

「凄く慌てていたクーに、びっくりした」

「びっくりしたのは僕だけれどね」

 さらり、するりと髪の毛を梳きながら、梳かれながら、思い出を確認していく。さらりと髪とともに流れる穏やかさ。

 それは物静かで、月夜の中でも暖かく、微笑む赤い少女は幸せそうだった。

 髪を梳く青年は、幸せを確かめるように優しく手を動かしている。でも、まるで壊れ物を扱うようだった。そして、十字架に祈るような、何処か痛みと祈りがあった。

 崇拝。信仰。似ている。でも違う。触れられるリゼだから、より、深く感じる。


 この幸福を捨てた時に、何があるのだろう。

 もっと幸せなのだろうか。不幸せなのたろうか。

 判らないから、瞳は、揺らめく炎のように想いを浮かばせる。


「びっくりするクーは、珍しい」

ゆっくりと振り返る。

「見ていた。見てみたい。驚かせたい。……そういうのダメ? 風邪を引いた後は髪の毛を拭いて、梳いてくれるようになったの、嬉しくて、髪の毛を伸ばし始めたの。可笑しい? ……そういう私は、ダメ?」

「ダメ、じゃないよ」

「セレンみたいに真っ直ぐな髪じゃない。ヒビキみたいにしっとりとしていない」

 緩やかな癖のあるウェーブの髪質。だから余計に丁寧に梳かれているのだろう。

「……ふたりが、羨ましい」

 クレリアもああいう髪の方が触れていて、心地よいのだろうか。

 ルビーのような瞳は、リゼ本人が気付かないまま、情動の炎を揺らめかせている。不安。好意。嫉妬。けれど、一番奥にあるのは、信頼。

「リゼは、リゼだから。そうじゃなきゃ、嫌だよ」

 揺れる情動の視線を、柔らかく受け止めて笑うクレリア。

 手は変わらず、リゼの赤い髪の毛を梳いている。それが幸せのように。繋がっている、確かな時の長さであるように、愛しそうに。

「………っ…」

 クレリアに触れて貰える時間を延ばしたくて、髪を伸ばした。

 触れ合った時間が、そのまま、髪の長さのように流れて、梳かれていく。綺麗に。丁寧に。優しくも、何処か、距離をとって。

 決して、傷つかないように。

「クー」

 だからとても単純な話。

「……クーって、どれくらい、風邪とか病気になっていない?」

 二十その辺りに見えたとして、それは外見の話。

 髪が濡れたら風邪をひく。そんな当たり前、気付かない位に忘れるのは、どれくらいの時がかかるのだろうか。

「私が風邪を引かないように、注意しているのがクー」

 酷く慌てた顔は覚えている。

 可笑しくて笑って、咳で呼吸が止まりそうになったのも。

 医師を呼び、薬を処方されたあと、ずっと付き添われたのは懐かしい。ぽやぽやと熱に浮かされながら、何か物語を詠ってと強請ったのも。

 ただ、そんなに大切で、いつも世話をする位なのに。風邪をひく、なんて当たり前に気付かないことなんてないだろう。

「最後に病気になったのは、何年前?」

「…………」

 さらっ、と髪と言葉が流れて落ちていく。 

 けれど、クレリアの瞼は落ちない。真っ赤に、揺れる火のようなリゼの瞳を受け止めていた。

 何か言えるだろう。だが、それが不誠実で誤魔化しにしかならないと気付いているから、黙している。

「私と出会ってから、五年? 風邪のひとつもない。可笑しいわね。うん、クーだから。凄いから。そんな、『凄い』なんてものじゃないもの」

「…………」

 異常だ。クレリアの体調不良のひとつ思い出せない。

「傷は瞬く間に治るもの、クー。私を守って」

 庇って、怪我して。でも、傷跡は何処に。五年という歳月は、決して、短くない。

 今のリゼの赤い髪のように、想いは途切れず流れていた。

「そう。涙のひとつ、なかったよ」

 リゼの指先が、クレリアの首筋へと運ばれる。

 震える。怖い。本当に踏み込んでいいのか判らないのだ。

 悲しそうなクレリアは知っている。苦しそうなクレリアも。困っているクレリアの顔は好き。だって、リゼの悪戯とお茶目に困っているから。

 だから――剣で斬られ、牙で噛みつかれても、瞬く間に治った身体に、残った赤い一筋に触れるのだ。

 この五年。瞬きでは消えなかった、たったひとつの線。

「私と出会う前。クーが最後に泣いたのは、いつ」

 リゼという少女の爪が傷つけたそれが、まだ癒えずにそこにある。

 悪魔と呼ばれるものに焼かれても治った肌が。狂った精霊に裂かれた肉も、まるで幻の存在であったかのように。

ああ、思い出した。

 銀狼の刻印を剣に施した教会騎士達に襲われ、リゼを庇った時も、大量の血だけを残し、肉は癒えた。肌は白い。

 教会に、龍に命を捧げる騎士達が恐怖した。命をかけて、リゼを殺そうとしたのに。

 彼らは強かった。当時のリゼではひとりでも対等な戦いになるかどうか。剣は神聖魔術を施され、当然のように、龍の加護をもって奇跡の術繰り出す――教会の精鋭たち。それでも、決してクレリアに傷は残せないのだ。

 振り下ろされ、突き出され、薙ぎ払われた刃は、どれかひとつでもリゼに届けばよかった。誰かひとつでも、クレリアの守りを掻い潜り、命を捨ててもリゼを切り裂ければと。

 捨て身。自己犠牲。最初から特攻で身の守りなんて捨てている、ようなヒトタチが、まともな『奇跡』を剣に宿している筈がなくて。


 それが総て、クレリアの身で受け止められて、困ったように笑われた時――彼らは絶望したのだろう。


 傷つかないなら。届かないなら、何度でも。

 命をかけて突き刺した剣が、庇ったクレリアを刺して、呪いとなった祈りが、単純な魔力の差でヒビ割れていって。

 そもそも、狙ったのはリゼ。あえて剣でも魔術の結界でもなく、身体で庇ったクレリア。

 バケモノといったら、バケモノ達に失礼なほどに異質で異端。

 頬にかかった血は、熱かった。てもすぐに止まった。負傷と呼べない。

 引いて欲しいと、優しい声で、無力さを諭す神父のように、信仰に命を奉じた騎士達に笑った、何か。

 きっと、クレリアには絶望と恐怖、狂騒にかられた騎士たちがそのまま無謀な特攻を繰り返すという、人間の当たり前が判らなかったのだ。そのまま砕け散った剣は、肌に何の跡も残せなかった。

 彼らは、ただ、無駄に死んだ。海に剣を抱えて飛び込むように。

 異常な存在は、どれだけの空と夜を巡ったのか。判らない。死なない事に長けすぎて。『異灰』というものに触れすぎて。けれど、こうしてリゼの傍にいる。それがいいと、困った少女の我が儘に応じて手料理を作りながら。

 しあわせだというのだ。求めれば幾らでも手に入る筈のひとが。

 何も求めない。何も願わない。ただ、ただリゼの傍に。

 クレリア程の存在がどうして。考えなくていいと、優しく、悲しそうに笑った。そうやって考えて出ない答えが沢山あって――それを剥がすように、爪を立てた。

 そこに残った、赤い、一筋。

 いままでになかった、もの。

「だから気付くの。絶対に、どんな事があっても泣かなかったクー。私が風邪を引いて、剣で刺されて、焼かれても」

 悪魔の炎がぬるいわけない。

 狂った精霊が加減など知るわけがない。

 常識の外にあるものたちに傷つけられ、それで、微笑むのだ。

 リゼが無事でよかったと。

「……だから想うの。涙をください。クーは、何かに、誰かに縛られている。ううん、誓っている。涙を捧げている」

「…………」

 ロマンチックに過ぎる話だ。お伽噺でもそうそうない。

 恋を題材にすればあるかもしれない。例えばそう、龍が決して、ひとりきりの空で月を支えて続けても、孤独さて泣かないようにと、涙を捧げただとか。

 悲しくなんてないと、恋人と一緒に、泣けない事にしたたとか。なんて、ふたりきりたけの幸せ。外から見れば甘い悲劇。

「だから、クーは、あなたは救われない。報われない。ううん」

 首を振るう。違うのだ。結局、そんなキレイゴトではない。

「……あなたが、私より先にナミダをあげたヒトを知りたい。そのヒトより、私が大切って、感じたい。安心したい。あなたは、一番大切なヒトだから」

 もう一度、赤い線を爪先で。傷つけるように。

 癒えきっていない傷口は、つぅと赤い雫をこぼしはじる。ため込んだ涙のように。

 いいや、癒やさないのだ。触れあいの、跡は。その事実を。

「あなたを救いたいから。……あなたを縛る涙を、私にください」

 こんな傷口、簡単に癒やせる筈。

 それでもしないのはどうしてだろう。言葉にして欲しい。きっとこうだ、ばかりではすれ違うばかりだと、さっき思ったばかり。

「クーの、涙(ココロ)の全てを、ください。……私じゃ」

 いたぶるように。泣いてと懇願するように、指先で傷口をなぞる。

 そして、躊躇いを振り切って、赤い眸に想いを乗せて言葉にする。

「……涙を貰うの、私じゃ、ダメ? 私じゃ、いや? クーが、愛しいの。好きだから。他のひとにあげているものを、私だけにして」

 特別は自分だけがいい。傷つけていいのは私だけ。

 そう指先が血を滲ませ、すっと流れる赤い眸と髪の毛。

「……んっ」

「リゼ」

 咎めるように声は、けれど、決して止める響きではなかった。

 抱きつくように身体を寄せ、傷つけた首筋へとリゼは唇を触れる。

 舌で舐める。赤い血を。錆び鉄のひどい匂い。なのに、これがクレリアなのだ。他の誰も知らない、クレリアの味。他のひとに流させることも出来ない、きっと――命と涙の合い混ぜの。

 ぞくりとする。

 背徳感と、支配欲。ああ、このヒトを許す代わり、救う代わり、このヒトが欲しい。私だけものにしたい。

 世話をして育てて貰っている。それは一方で、リゼはクレリアのもののようなもの。クリレアなしにリゼは生きていられないだろうし、今まで生きられなかった。

 だからこそ、クレリアもリゼなしに生きて欲しくない。何て、何て酷い。酷い、願望。

「……リゼ」

 血を舐める。啜る。どうしてか、それが止められない。

 リゼの背に腕が回される。

「ゆっくり」

 落ち着かせるように、支えるように。もう一方の手は、リゼの後ろ髪を撫でていく。何処までも優しく、何処までも震えている。

「ゆっくり、話して、いいかな」

 傷口を、舌で抉るようにして返事をする。ゆっくり。ゆっくり。

 ふたりのリズムでいい。重なる身体の、鼓動が、落ち着いていく。いつもの、暖かい火のように。

 ねちゃりと音がする。いいや、リゼの舌が立てたのだ。

「……凄く真っ直ぐな女性だったよ。ひとつの祈りの為に、世界を駆け回る。輝き、みたいなヒト」

「…………」

 文字通り、それは血を吐き出すような、涙のような声色。

 苦しそうで、怖がっていそうで。クレリアの腕のほうが震えている。

「好きだった。愛していた。……でもね、それは、祈りを捧げる彼女の姿だった。彼女の信仰が、正しいと信じていた」

「……ん」

 一瞬だけ唇を話して、クレリアの首と肩の付け根に視線を落とす。

「彼女のユメが、僕のユメだった。そうある事に、彼女が誇らしく笑ってくれた」

 それはクーは凄いと誇るリゼのようだったのだろうか。

 いいや、違う。少女だから判る。それは、決して違うのだ。何しろ、自分は誇ったり自慢していたのではない。

 だから唇を肌に寄せて、歯を突き立てる。抗議として。我が儘として。ぷつりと肌と肉を裂いて、埋もれていくリゼの白い歯。すぐに血で赤く染まる。

 誰も傷つけられなかったクレリアに、リゼが甘く噛んで傷痕をつける。

「……っ……」

「…………」

 誰も痛みを覚えさせられなかったクレリアの心に、リゼは何かを響かせる。息を、詰まらせる。

 ゆっくりと瞼が落ちていく。けっして完全には閉じはしないリゼ。クレリアの瞳は見えなくても、この瞬間を、全ての感覚で覚えていたい。

 耳元にかかるクレリアの息づかい、体温、鼓動。血の味。嚥下しようとして、うまくいかず、流れる血は零れて唇をルージュのように染めて濡らす。

 ふたりの服を、血が穢す。それが、ふたりの繋がりのように。

 クレリアの服を、リゼの色で染めていく。

「だから涙を捧げるって誓った。そのヒトが、消える前に。あなたの祈りは、涙を呼ばないって」

「…………」

 それはどんな想いだったのか、よく、わかった。

 あなたが欲しい。クレリアを許したい。だから涙が欲しいリゼとは違うのだ。正反対。

 決して許されない。あなたのものではなく、あなたの祈りであろう。自分を捨てるという意味で、それは成された約束。

「愛されていないって知っていた。愛は、周囲に振りまくもので、道行く人と、僕とで、彼女の中では違いはなかった」

 バケモノ――、一種のそれだ。

 愛は普遍で、限りなく注ぐ。ただし平等に。

 そしてその体現である為に、決して涙であってはならない。

「彼女の信仰を、祈りを、願望を叶える為に、流離った。……死んだからね、死んだ時の、遺言だったから、ね。もう、覚えているのは、僕だけだろうけれど」

 かくしあれかし。それを詠うように。

 血を呑むせいだろうか。その気持ちが分かる気がする。でも、すぐにそれが勘違いであって欲しくなる、リゼ。こんなことしなくとも、クレリアのことは判りたい。

 でも、止められない。

 想いに。血に。飲み干した胸の奥で揺れる恋慕に酔ってしまいたい。

「だから、擦り切れて。何も想わなくなっていった。同胞も擦り切れて、祈りを忘れた。彼女の、祈りを」

 止めさせない。互いに。

「そして、ひとりになった。……リゼに出逢うまで」

 ぎゅっ、と強く抱きしめられた。唇が離れて、上手く飲み込めなかった血が、堪え続けた涙のように沢山零れる。

 赤い、涙。

 赤い眸。髪。唇。喉。

「リゼは、出逢った時に、僕を救ったよ。ある筈のないものを、求めていたんだね。……途中で変わった。孤独は心を変える。孤独は、ヒトを殺す」

「それは」

 首を傾げるリゼ。

 赤い瞳は何時も澄んでいる。でもルビーのようではない。

 複雑な思いがうねり、波打ち、炎のようだ。

 決して宝石のように単純じゃない。単色ではない。そういう風に誤魔化しきれない想いが、ありすぎる。

「それは、私が、そのヒトの祈りを、壊した?」

「そうだよ」

 リゼの鋭い感性は、その答えへと行き着く。

「だから、リゼを守らないとと想った。この世界ではありえない筈のものだから。奇跡って陳腐な言い方だけれど。大切にしたいと想った。……うん、泣きたい位に嬉しかったよ。喪いたくないと感じるものが、胸にまだあった」

「あなたを、救いたいと云われて?」

「それを、出逢った瞬間にだよ。……君は彼女のようで、それでいて、彼女を否定して、越えていた」

「……ん」

 不満げに赤い眸を揺らすリゼ。

 違う。そういうことではないのだ。複雑な慕情は、募った時間という燃料の分だけ燃えさかっていく。

「そういうのじゃ、ない。よく覚えていないよ。あのとき、私は……『異灰の災厄』になったものから、救いを求めた」

「そうだね……リゼは自分がどうなってもいいからと、救いを求める、愚かな美しさだった」

「違う」

「違わない」

 クレリアの胸に顔を埋めさせ、抗議する。

 あのあと、殺意を抱かなかったといえば嘘。剣と魔術、強さを求めたのは、まずは、復讐の為だった。そんなものが、リゼなのだ。

 それが、変わったのはクレリアで……貰ったものがなければ、きっと、今と違う。

「違わないから、どうしても、全てを捨てて、リゼの先を見たかった。彼女の祈りが満ちた世界では、絶対に、リゼという魂はありえないのだから」

「…………」

 ぎゅっと、肌に食い込むほとに爪立てるほどのリゼ。

 それを落ちつかせるように、愛しそうに撫でるクレリア。


 だから、なのだ。


「だから……出逢いじゃなくて、少しずつ笑うようになったリゼが、愛しくなってきた。我が儘が、お茶目が、ほんの小さな仕草が」

「…………」

「出逢いが特別だった。だから何だろう。僕が特殊だった。だから何だろう。リゼが、リゼだった。それだけで、好きになってしまった。……ううん、好き、だよ」

「卑怯なクー」

「大好きなリゼ」

 いつものリフレインが壊されて、リゼの頬も真っ赤に染まる。

「………っ…」

「リゼの前だけで泣きたい。……うん、風邪を引いた時にしたお伽噺がそれ、だったね。恋人を生き返らせる代償に、ナミダ、を渡した少女の話」

「そ、そう……?」

「そう。……どんなに悲しくても、痛くも泣けなくて、伝えたいことが伝わらなくて。泣かないからと心配されて、嫌になっても、泣けなくて」

「…………」

 力強く抱きしめられるリゼ。

 ああ、これが男性の愛情という強さなのだ。痛いぐらい。苦しいぐらい。でも、それにくすくすと笑ってしまう。なぜだろう。全てを、許してしまいたい。

「だから泣きたくなったら鈴を鳴らしてと、自分の瞳を鈴にして渡した恋人。嬉しくても、泣けないことが、結局、互いにナミダを流せないのが一番辛い。そんなお話」

「ひどい、お話をした。クーらしい」

「そうだよ? 昔はとても酷くて、沢山、ヒトを殺したから」

「……変わったの?」

「変えられたんだよ」

 当たり前の言葉を交わしている。

 血で染まって。それを洗い落とすように、ぼろぼろとクレリアが泣いて、リゼを抱きしめながら。

「……そんなのが、リゼを濁すのだけは嫌だった。リゼはもっと素敵でキレイに、幸せになれるって。それが」

「私は、クーの傍がいい。クーの想いが欲しい」

 クレリアの幸せという痛みが欲しい。

 ふたりだけの幸福というナミダを、混じらせて、濁らせて、欲しい。


 それが愛ではないだろうか。

 貰うばかりでは奪うのと変わらない。

 それを恋だと想いたくない。愛だといいたくない。

 なら混じって、濁っても、ふたりだけにとっての、ナニかが――



「クーが欲しい」

 どれだけ生きたか判らないモノにいう。

「リゼという愚かな少女にとっての、祈りは、地獄の否定」

 それは誓いだ。リゼが生きる為の、出逢った時の。

「クーとなら地獄とでも一緒にいたい。クーとなら、地獄でもいい。でも、クーの為に、地獄を焼き祓いたい」

「それは」

「それは」

 云わなくても判っている。

 交わさなくても判っている。

「……『冬の白帝』。それが、私の孤児院を襲った、『異灰の災厄』の名。そういうものが現れる場所を、本来、何というか知っているよ」

 クレリアの灰色の瞳を、至近距離から見上げるリゼ。

 だってそうなのだ。

 こんなに優しい人が泣けない世界なんて、酷すぎる。この言葉がきっと正しい。

「この世界は、地獄、何でしょう」

「…………」

「だから審判と断罪の焔剣を。クレリアと、私の住む場所を、氷結した極寒の地獄の中に」

「君は」

「私は……クーが欲しい。クーの幸せが、私と一緒なら」

 涙ばかりは落ちる。

「……彼女の遺言が何だったか。忘れて、零れて、なくなってしまったね。泣いたから、涙と一緒に。この世界は――そう、地獄だ。神に見捨てられた場所を、他にどういえばいい」

「そんな場所で、クーは、私といてくれる?」

「リゼの言葉だけを、聞いていたい。涙も、想いもあげるから……リゼが欲しい。剣も、焔も、翅もあげるから。魂、さえ」

 あげられるものはすべてあげたいと、囁かれる。

 クレリアの指が、何度もリゼの髪を撫でていく。

 何万という死を産んだ指先が、たったひとりを、愛しそうに。

「――クーのナミダも、ネガイもヨクボウも、ユメちょうだい。あなたの幸せを見て、幸せになりたい。あなたが、そうあるように」

 背伸びするように。それこそ、月に届けと、夢見がちな少女がつま先立ちになるように、唇を触れ合わせる。

 血の味が移る。

 匂いが、生きる、というもののそれが、混じる。

「それとも、私じゃ……嫌? 私じゃ、ダメ?」

 ゆっくりと降りるクレリアの顔。触れる唇、誘うように、優しく、思い出すように唇同士を。そして、舌が。

 ゆっくりと、押し倒されていく。

 そうだね。と。

「……クーのナミダもネガイも、私だけが知りたい。私だけ。……私じゃ、嫌? ダメ? 他の人が知っているは嫌。私だけ、がいい。あなたの綺麗な願望も、焼け付くような欲望も、一緒に胸に秘めるものは。そう、あなたの涙(ココロ)と鼓動(イノチ)が、欲しい」

 二人して倒れたソファは、硬すぎて、散らかって狭すぎて。

「だったら、同時に、僕の絶望もあげよう。――リゼが絶望しない限り、僕も絶望しない」

「私は、クーの、希望」

「希望の焔。焼かれてみたいくらいに」

「……イノチは、燃えるものだもの」

「触れたら痛いのが、熱だから」

「触れたら痛いのが、愛だから」

 どさっ、がさっ、と沢山の本が落ちていく。

 ダレかに記された物語はもう必要ない。

 リゼはよくても、クレリアと二人で横になるには、狭すぎる。


 世界は広すぎた。ひとりでは。

 ふたりで生きるには、狭すぎるけれど。

 

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