しあわせの歩幅、夕暮れに
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それはしあわせの歩幅。
ふたりにしか判らないだろう、距離とリズム。
どんな時、どんな場所でも決して見失わない。
足音と鈴が鳴る。
ふたりを結ぶように、変わらない。変えられない。
そうで信じていたし、信じたかった。世界もリゼも、変わっていくのに。
一日の授業が終わりクレリアが戻ってきたあと。
セレン達には誘われても、リゼは首を振るばかりだった。後からいくように、というのに『多分』という言葉でヒビキとセレンを納得させて、帰り道。
リゼとクレリアは夕食の買い出しに出かけていた。
夕暮れの商店街は行き交うひとびと、その姿と音で満ちている。
優しく淡い橙色の光に照らされながら、沢山の人が巡る街の通り道。
どちらかというと市場に近い形だろうか。
緩やかなカーブを描く傾斜の両側のある店。どれも壁や硝子で店内を覆わずに外からよく見えるようにと開いている。商品の入った棚を店の前に出して見せ、客を呼び込んでいた。
行き交うのは学園都市の学生と、それを支える職人や仕事を終えたひとびと。疲れながらも夕食を決めようと、店前に並べられているものを見て、笑っていた。
リゼにはあまり興味がない。
視線はいろんなものへとついと流れるが、すぐに一点に戻る。
店の中からの声。店主と視線があい、甘いよと勧められた葡萄の一房に、首を振っていらないと応えてみせた。すぐにまた戻る。
いつだって、リゼの足は、ひとりのあとを、その背中を追う。
そのひとばかりを追いかけ、視線を向ける。横に並ぶことは、まだ出来ないと知っているから。
決まった歩幅。変わらない距離。これだけ人が行き交っても、まるで透明な紐で結ばれているように、変わらない。手を繋いでいるように、乱れたりしない。
けれど、その距離が縮まることも、やはりない。透明な紐は、ぴんっ、と張り詰めている。
リゼとクレリアの、歩く距離。
決して隣り合わせにならず、三歩ぐらい後を、リゼが追う。
たったの三歩。
でも遠い。
だから、こつん、と靴音を響かせるのだ。
いつもは猫のように、足音ひとつ、戦いの中でも立てなかった少女が。
鼓動のように。ここにいるよと。音なく走り抜ける少女が、求めるよう吐息のように靴を鳴らすのだ。
応じるように、クレリアが声を紡ぐ。
「パンは買ったし、後は野菜かな。リゼは何が食べたい?」
「クーが作ってくれるものなら、なんでも」
「じゃあ、やっぱり野菜のスープと、鶏肉かな。最近は大分寒くなったし」
肯定するように鈴を鳴らすリゼ。
ロングケープに結われたそれは、クレリアから貰ったお守りだ。
見つけるように。見失わないように。今使っている方法とは少し意味が違うけれど。
ここにいるよと、靴音と鈴を鳴らす。
夕焼けの商店街。その騒がしさの中でも、決してお互い見失わなない。音は、声は、必ず届く。
ふたりの、ふたりだけの幸せの歩幅。
いつもは鳴らさない足音を、幸せの歩幅と刻む。
――ここにいるよ、
だから安心して欲しい。リゼは、ここにいる。
吐息のように、伝わっていると信じているから。
どういう訳か、午後の授業が終わってからクレリアは何時もと違う。どうしてだろうと振り返って、自分が炎の剣を彼に向けたせいだとリゼは思いつかない。その程度で揺らがない、強い人だと信じている。
事実、積み重なりがクレリアの表情を僅かに、曇らせている。
ただ、それに気付くのは本当に近くにいないと無理だろう。それこそ、三歩くらいの、しあわせが、感情の響きが伝わる位の距離でないと。
そういうものが伝わるのは似たもの同士ということなのだろう。
何処か現実離れした雰囲気。綺麗なのに掴み所がなくて、物静かなのに、強い気配。似通っている。リゼは炎だ。クレリアは、流れ星だ。
揺れて、瞬いて、瞬間に美しさを残す。
「クーの作るものなら。なんでも好き」
「それは、ちゃんと料理してくれるなら、ということかな」
ゆっくりと振り返るクレリア。
少しだけ苦笑しているのは、リゼの我が儘に対してだ。
「出来れば、お肉とかも、クーが焼いてくれたのが好き」
肉類を売っている店のひとつにクレリアの視線がいっていことに、リゼは小さくと不満を表す。
時間がない時や、疲れた時には既に調理済みのものを買った方が楽だ。
その場で肉の部位と量、火加減をいえば焼いて出してくれる店もある。ついでにパンや野菜を横の店で頼めば、挟んで買い食いも出来る。
家に帰った後、温め直せばいいだけの出来合いの品が用意されたりしているのも、学園都市ならではだろう。
ただ、やはりリゼはクレリアの作った料理が好きなのだ。
柔らかく、困ったように、それでいて嬉しそうに微笑むクレリア。
「ただ、今日はこの後も、ちょっと顔を出すだけでいいけれど、信仰の塔の会議に呼ばれているからね。時間はあんまりないよ」
「なら、仕方ないわね」
判っている。知っている。
それでも一度ぐらい強請ってもいいと思うのだ。
一日に何度いっているか、時折、数え忘れてしまうけれど。
「リゼは我が儘だね」
「クーが、甘いから」
間髪をいれずに言葉が重なり、足音が続く。
距離は変わらない。いつもとおなじ。銀色の髪の毛と、黒と白のローブを追っている。
もっと傍に駆け寄りたい気持ちはあった。
でも、これぐらいが暖かい。もう少し走って手を伸せば、掴めそうな、今ぐらいの距離が一番いい。駆け出せば届くかもしれない。そうぼんやりと考えるのが好きだった。
時折振り返る横顔から、クレリアが何を考えているのか。投げかけられる声はどんな感情と思考なのか。考えるのが、楽しかった。子供のようだけれど、拾われて五年がずっとそうなのだ。仕方ない。
それをどういう感情なのか、判らないままに。暖かくて幸せだから、それでいいと思って、止まっている。
そうだ。クレリアはとても『大賢者』だなんて思えない。
片手に紙で出来た買い物袋を抱える青年の姿は、『大賢者』という大層な存在には見えない。世界の導き手にして、この学園都市を設立したのもまたひとりの大賢者。
賢者とは何か。設立者は問いを投げかけたという。
知識か。強さか。
魔術も剣技も、異能も奇跡も大差ない。
この現実を知り、そこにないものを体現するものこそ『賢者』。真実や、真理に触れて、なお新たらしいものを生み出す可能性。
それ自体が希望なのだという。
そうなろうとする子供は、すべからく、自らの願望を叶える環境を与えてやらねばと、この学園都市は設立された。元をただせば大賢者という商号、冠は、十二使途と共に龍と世界の敵、『異灰の災厄』と戦った百名に与えられた名。それを受け継いでいる。
終わりゆく世界に希望を。龍が愛を持って支えるなら、夢を繋ぐように。
そんなものを増やしたい。そんな夢を叶えたい。
優しく、強く、気高い思想は、まるで龍のように。
でもクレリアは、とてもそれに近くて、とてもそれに似合わない。
少し頼りないぐらいに細くて、その癖、決してリゼのように揺れたりしないひと。空に昇ってもゆるゆるとしているだろうし、その癖、何か、ぽっかりと穴があいている気がする。
沢山のことをしっている。経験している。積み重なったそれは、心の中に一本の芯を作っていた。感情に、心に、穴があいてもその一筋の想いは決してクレリアをくじけさせない。背を伸ばして、歩ませ続ける。
だから、その背中を見るのが好きなのだ。柔和なせいで、小さく感じるそれが、とても心強くて優しいものだとリゼは知っている。同時に、何処か側に寄り添いたくなる、何かが零れそうになる。
そう。本当は駆け寄って、寄り掛かりたくなる。
クレリアはリゼに甘いから、それを許してしまうだろう。
「本当は新しい友達の歓迎会にいって欲しいのだけれど」
それではダメだ。依存して、頼り切るだけではダメなのだと判っているけれど。
「食事はクーとがいい。それが一番いいの。向き合っていられる。顔を見て、見られていられる、一番の時間。それだけは、譲りたくない」
こうやって甘えてしまう。
独占欲だろうか。所有欲だろうか。
料理をしてくれている姿も、好きだった。楽しそうなクレリアを、見ていると、どうしても心に軽やかなリズムが産まれる。
何時までも出来る訳ではない判っている。
願った事。叶えたい祈り。夢を真実と形に結ぶ為には、全く逆の道と言動だ。
欲が、欲望が、決していいものとは思え得ないのだから。
なのに零れる言葉は、止まらない。
「クーは……私と食べるの、嫌? 私にご飯作ってくれるの、嫌?」
一度唇が紡ぐ途端に、不安という苦さが口の中に広がっていく。
独占欲。所有欲。なんだろう、それは。まるで、何かしら強すぎる繋がりがないと解けてしまうような関係、モノとして手にしたい訳じゃない。ただ、クレリアと離れたくない。離れたくないと、不安がゆらめく。
何かを言わないといけないと思う。それでいて、しあわせな距離は、靴音と鈴の音が続けている。
決して壊れることのない、ふたりを結ぶ、絆。
ゆるりと振り返ったクレリアは、やはり優しく微笑んでいた。
こつっ、という音に合わせて、口を開く。頬は優しい橙色に塗れて、けれど、影が何処か濃くみえた。
「そういっても、リゼは、一緒じゃないとご飯食べないからね。たべる時もあるけれど、気分屋の猫みたいに我が儘だし。今日は冷めても美味しいものを作るよ」
違う。瞳だ。瞳が色褪せてなお灰色のよう。何処かで見た色合い。何かを言いかけて、唇がうまくひらかない。
何処かの誰かに似ている。
夜。つい最近出逢った、仮面をかぶった子。セレンという、演技が上手すぎた、子。
かわいそうな、瞳。
「出来るだけ早く帰ってくるから。我慢できなかったら食べてていいし、我慢できたら、一緒に食べよう」
何だろう。
何時もと違う。何時もより、何だか、遠い。
そういうのを、昔、見たというのだと思い出す。愚かで、未熟で、弱くて脆いリゼ。だが、同時に鋭く、聡く、その感性は焔のように激しい。
実際は自分が揺れて記憶が呼び起こされているのはある。が、自覚はない。料理を強請っている甘えは精神を自ら幼くしようとする防衛本能。思考もまたぼんやりと。が、感性がそれを許さない。
まるで相反するかのようでも、それが焔というもの。一度、燃えさかるように廻り出せば答えへと絶対に辿り着く。誰が何といおうと、天の理が間違っていると告げ、正そうと手を伸ばしても、決して変わらない。だから愚かなのだ。だから弱いのだ。考えは途中でやめていい。苦しければ眼を逸らしていい。なんて、決して出来ない脆くも激しい焔。
揺らめくように、身体を震わせる。
脳裏に浮かぶのは、セレンが泣き叫ぶように剣を振るった光景。あれを見て、胸に刺さって、何かが苦しみ、軋むのだ。そのまま、自分も焔刃に舞わねば泣いてしまいそうな位に。
ああ、だからか。リゼは、リゼだから納得する。自分のことには鈍感で鈍くても、それを他者に置き換えればすとんと納得するのだ。
この点で重要なのはセレンがどう想ったかではなかった。どうしてあんな苛烈で危険なことをしたのかではない。
それを見たリゼが、無性に、暴れたくなった理由。そちらのほうが大事なのだ。つい視線を逸らしてしまう事実がそこにある。
いったはず。言葉にはならなかったかもだけれど。
クレリアの傍にいたい。
その為に。それが全て。
クレリアはどうだろう。
愚問だ。今までの、可笑しな関係性と距離が答え。
ちりんっ、と鈴の音。壊したくない。繋がっていると思っているから、決して変わらなかったしあわせの歩幅。
ちりんっ――こつんっ、と、止まる。
「ね、クー」
それはまるで世界の時が止まったかのようだった。
リゼとクレリアのふたりだけが、世界の最果ての向こうに放り出されているかのように、異様なほどに透明感のある空気と雰囲気の中で、声が響く。
小首を傾げるリゼ。赤い髪と、夕焼けの赤橙。
じんわりと優しい赤をいれてたセピア色の風景。人々は、影のように過ぎていく。雑音は、どうしてか聞こえない。
そして、クレリアの足音もだ。ぴたりと、前へと進もうとする姿勢のまま、縫い止められたように止まっている。
しあわせの歩幅は、止まっただけでは変わらないのだ。
顔はもう見えない。ただ、セピア色が影を作っている。
それよりも深い影を、背負っている気がする。ぞくりとリゼの背筋が震えた。どくんと、鼓動が脈打った。
赤い、赤い眸が、夕焼けの中で鋭く輝いた。
「私は、ここにいるよ」
それは発想の反転。焔は生命と死の二つを属性として持つ。
陽あれば陰があるのは当然。では、感情ではどうだろう。見ていると安心する焔がある。見ていると、危ういと判っていても、離れられない揺らめきがある。まるでそんな風に、根幹を同じとしながら分かれた性質のようにクレリアとリゼは似ている。
リゼは、不安だった。
傍にいられるだろうか。クレリアに届くだろうか。
何かが出来るようになりたい。してあげたい。だが、裏腹に食事を作って欲しい、一緒に食べたい。可笑しい。前後が繋がっていないし、矛盾している。セレンを見て、その思いは不安と焦燥へと加速した。
リゼの想いとぬくもりは届いている。それで微笑んでくれるクレリアがいる。
何かをしてあげたいと想ったのは、料理を作って食べさせてくれたからだった。
美味しいか判らなくて、小さくかじって食べる姿がリスのようで可愛いといわれて、嬉しかったのだ。じゃあ、何かしてあげたい。何か、とても嬉しいことを。そんなアタリマエが起点。ただ、そこに沢山ある。
ころころと転がっていく。何かしてあげたい。こんなに幸せだから。笑ってくれた。ちょっと困らせて、そして、また何かしてくれて。困ったように笑ってくれている時点で、もう、それは出来ているという事。
何か、は、もう出来ている。届いている。
――もう、ずっと前から、与えられるばかりではなかった。
ロングケープという贈り物。鈴という魔法。サーベルは、名前こそ教えて貰えなかったが、かなりの大業物らしい。
本。部屋。寒いといったら毛布を探してきて。雪が嫌だといったら、楽しい冬の娘の話をしてくれた。結末が悲しいといったら、実は、と即興で作ってくれたのだ――実は結末を知っていたリゼの悪戯。我が儘。多分、最初の。
思い出せば、思い出すほど溢れてくる。
どうして。
そんなの、どうでもいい。このひとにも暖かい気持ちになって欲しい。
貰うだけじゃいやなのだ。奪うという側面以上に、クレリアに本当の意味で何かをあげたい。
けれど何も思いつかないと、ごまかしのしあわせを続けていた。
不安は加速する。濃淡を経て、波となる。
――奪うだけを愛といいたくない。
だったら、『だけ』ではなくなったら愛になるのか。
いいや、そうしたらきっと別の何かでごまかす。そうリゼは理解している。この、靴と鈴の音のように。
影法師を踏んだ。でも、触れられない。
――距離を変えられずにいる。踏み込めずにいる。
しあわせの歩幅のままで、二人は言葉と息を交わす。
「…………」
「クーは、何処にいるの?」
赤い、赤い眸の裡で、想いが焔のように揺らめく。
綺麗で、鋭く、物静かで、激しく。決して、決して嘘など通じないのだと、声色に乗せる。
「そうだね。クーは何時もそこにいる。私が踏み込んだ分だけ、この距離は近づいたりしない。いつも『そこ』にいて、私との距離は変わらない。……そうだよね、変わらない関係性なんてない。私が変わって、世界が変わって、クーが変わらなくても、この歩幅は変わっている筈」
三歩ぐらいの歩幅。それは、何年前からのだろうか。
何かになろうとして、何になりたいのか判らないセレンを放っておけなかったのは、きっと似ているからだ。いや、似ていると勝手に思い込んでいた。そうであって欲しかった。
「判ったの。私がなりたいものは明確で、ぼんやりとしていると夢のように見るように。夜、夢に見すぎて、クーの傍から離れてしまうくらい」
「リゼ」
呼吸の詰まった青年の声に、クレリアの貌は美しく、鋭く、夕暮れのセピア色の中で儚く、脆そうだ。
こんな貌を何度も見た。ひとこと、ふたことで崩れそうで、壊れてしまいそうで、嘘を、ついた。
でも、嘘は距離を作る。傍にいたいという本音に、さらに嘘を重ねる。
そうしていったら、このしあわせの歩幅は、いつか遠くなっていくのだろうか。嫌だと、ぎゅっと掌を握りしめた。三年前も三歩ぐらい。ただ、その時より物理的に距離は離れている。そして、ずっとはいられない。
いつか、すべては流れて消えていく。夕日のように音もなく、後悔に赤い涙で泣くように。
風で赤い髪が靡く。ゆらり、ふわりと。それはクレリアに届かない。届かないけれど。
「私は、なりたいものになれていた。ただ、怖かった」
だから、糸は切ろう。
クレリアが微笑んでいると心地よいのだ。
幸せそうにしていると、どうしてか鼓動がゆったりとしたリズムを身体中に伝えてくる。それは、確かに幸福なのかもしれない。
「クー。あなたに告げたいことがある。あなたは今が幸せ? 私は幸せ。きっとクーもそうだと思う。奇跡的なバランスと距離で、こんなひとときは許されている」
だから、この距離は切ろう。
いった筈だよ、と。
「私は許されなくていいの」
とんっ、と靴音が後ろへと飛ぶ。
身を旋回させ、臙脂のケープを翻す。赤い髪、踊らせる。
腕だけはクレリアへと向けて。判っている。知っていた。ただ、見ないふりをしていたし、それはとんでもない嘘と演技だった。
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