イタミ(木漏れ日)に、今は眠る蝶


 幸福という痛みを知る。

 それはとても暖かいもの。胸の中から湧き上がるもの。

 ぽろぽろと、琴を流し弾く音色のように零れていくばかりだ。

形がないから掬い取る手は虚空を切るし、本当の音じゃないから耳で覚えることもできない。

 やわらかいのだろうか。するどいのだろうか。

 分からない。見つめるだけの、セレンには。

「どうしたのかな」

 青みの強くなった瞳。希代の魔術師は、眠ったリゼを起こさないようにと、優しく、柔らかく、小さくも声を響かせる。

 問いかけは、セレンのもとめるものだった。

「あはは。お邪魔虫みたいで、居心地悪いというか。言葉通り、お邪魔虫だったかなって」

「そんなことはないよ。リゼは勘違いされやすくて、友達が少ないからね。連れてきてくれて嬉しいし、ついてきてくれたことに喜んでいたよ」

「そう、なんですか」

「嘘をいっても仕方ないし、リゼのことは、ある程度は判るから」

 ゆるゆると言葉が流れて、クレリアの指先がリゼの髪の毛を撫でて整えていく。甘える子猫とその飼い主のようだと想う。恋人の姿といったほうがきっと正しい。一方で、そんなふたりに嫉妬しない自分が、何だか悲しかった。

 こういう風なひとがセレンにもいたらどうだろう。

 そう考えてみて、何も思いつかない。結局、何になりたいのか判らないままなのだ。自分が何なのか判らないのだ。思い描く光景の中に、自分がいない。

 好きと嫌い。とても簡単な二分方がある。暖かいのと冷たいの、赤いのと青いの。どちらが好きで嫌い。そうやって自分を識ることが大事というひともいた。

「……君は、考えるのが苦手みたいだね」

「え」

「あんまり考えすぎなくていい、なんて、教師としては失格の言葉だけれど、セレン、君はそうだ。考え込みすぎて、逆にどこまで考えればいいのか判らないように感じる」

「む、難しいことをいいますね」

「考えるのが苦手だから、だろうね」

 からかうように微笑む姿は希代の魔術師とは思えないものだ。

 この青年は、中身が違うのだろうとぼんやり思う。セレンから見ると、リゼは炎だ。良くも悪くも、内面に秘めて揺れるそれは綺麗だ。触れると火傷しそうな熱と激しさがあるのに、側にいると安心するような暖かさがある。危うさと、優しさ。

「リゼはもっと考えるのが苦手だけれど」

「ははは。惚気話をこれ以上されると、砂糖をだぱーって吐いてしまいますよ」

「なら、少し進路の話でもしようか」

「…………」

 初めて授業に来た生徒にいうことではないだろう。

 けれど、クレリアに縋った所は、実のところある。失望も、あった。いいや、だからこそ、希望をもって、聞きたいのだ。

「君は、求められるままに、姿を変えているね。人生は長いひとつの劇だ、というけれど、劇の配役までは決まってないんだよ」

「運命という台本は?}

「その言葉は好きではないね。勘違いが混じりすぎている。あくまで、運命って、『命を運ぶ』ということ。その流れ。産まれて、たどり着く最後までは決まっているけれど、その最中、どう動いて流れるかは、そのひと次第」

「……運命は、変えられる?」

「命は変えられないよ。どう生きるかは、変えられるけれど」

 ざざざぁっと風が吹き抜けていく。リゼの髪の毛が乱れて口元近くの頬にかかったのを、指先で払うクレリア。

 触れ方はとても、とても優しい。

「たどり着く、その命がすべき場所まで運命は流れる。どう生きたかは別として。でも、そうだね。その命を燃やし尽くして、その流れを変えようとする人は、たくさんいる。世界ごと、変えてしまいたいって。ただ」

 瞳は薄らと青みを帯びた月のよう。

 鋭さもある。柔らかさもある。みる人によって受け取り方の違う、夜空の月のように。

「君は、考えなくていい。誰かとか何かを、比較しなくていいんじゃないかな」

「……比較、ですか。そういう、つもりはないんですけれどね。んん、何というか、こう」

 言葉に詰まる。何かになりたくて、何にもなれない自分が悔しいのだ。それを怒ったり、恥じたりしない自分は情けない。どうしても虚しさが先立って、感情が波打たない。

 だからこそ、クレリアの言葉は、嫌なほど、胸に響いた。

「自分の命を、決められるの自分だけだよ。君の胸ががらんどうなら、命さえない人形だ。他人の感情と思いを受け止めて、中に詰めて、演じるマリオネット」

「…………はは」

 自覚しているからこそ、痛い。

 何か話題を逸らしたい。そこに触れないで欲しい。クレリアにはリゼがいるのだから、その小さな少女の悩みの火に、火傷する位にふれあって欲しい。ダメなのだろうか。そうやった他人を想うのは。

「でも、君はヒトだよ」

 だから、触れないで欲しい。隠したカーテンを切り裂かないで欲しい。

 月に似た瞳は、まるで刃のように鋭い視線に変わっていた。クレリアという青年は、心を切り裂くように、言葉のナイフを振るっていく。

「本当にがらんどうなのだろうか。だとしたら、そこにある想いは。感情は。願いがよく判らない、というのなら、君はもっと怒って、泣いて、嘆いて、みっともなく八つ当たりと絶望をするべきだ」

 逡巡。セレンは付き合ってはいけない気がした。

 不吉というより、恐怖。唇が僅かに震える。リゼの、師であり、保護者であり、まるで……。

「さっき絶望する必要はない、っていってませんでした」

 そんな反論、通じるわけがないと判っていたのに、いってしまう。

 いいや、感じていたのかもしれない。判っていたのかもしれない。

 変にこびりついた感情が、ずっと、胸に蟠っているのを。それは長く、長く、そしていろんなことを経て膿のように溜まっている。

 なのに、外に出すことなんて、できなかったから。

「君は、何かに絶望するほど、想いをぶつけたことはあるのかな」

「…………」

「真剣に、一途に、それこそ心を刃と振りかざして、刃毀れしても。その刀身は心だから痛いよね。でも、君は、それほど自分を向けたことは、あるのかな」

「…………」

「叶わなかったどうしようと躊躇って、そこで足踏みしてしまう。得意じゃない考えごとを続けて、どうしようとまた繰り返す。そうだね。君は、君の願いや願望や、こうなりたいというカタチをもっていないのだろうね。だって」

 風は鳴り響くように、草原を走り抜けていく。

 小高い丘の澄み渡った空気は、少し怖いほどだ。綺麗すぎて。純粋すぎて、薄い。少し呼吸しづらい。痛い。

 まるで、刃のように風は走り抜けていく。

 運命の流れのように。抗わないと、そのまま流され、斬られてしまうかのように。



「君は、まだ、卵から孵ることも出来ていない雛鳥。親の顔も、外の世界も知らない。暗闇の中で、自分の顔も判らない」



 やめて、欲しかった。

 親に娘と認めて貰ったことのないセレンに、親がとか。雛鳥とか。判らない。呼吸が、止まる。言葉が、硬く、凍える。

 木漏れ日は優しく、暖かいままに降り注ぐ。けれど、それはとても残酷に思えた。世界は、決して、その中で生きるヒトの感情なんて考えてくれない。

「――だから、壊してしまえばいい。感情を、出してみるといい。君は、君を出すのが、とても苦手そうだから」

「わた、しは。……私は、感情、ころころ出す、ほうですよ?」

「それは本音? それは真実?」

 そう言われるから、どうしても続く言葉に、唇を噛みしめた。

 怒ったのだろうか。

 嘆いたのだろうか。

 リゼの炎を育てた青年は、優しく、弱くて脆いものに触れるように、語りかける。

 それは誘い。踏み込んでいけば、戻れなくなる一線。

 セレンが本当は気付いた、ひとつ。



「君自身が、真実を口にし、動かなければ、嘘ばかりになってしまう。君の本当の感情は、何だろうね」



 嫉妬しない。

 怒らない。絶望しない。嘆かない。

 針の道を歩み続けてきたと、痛かったと胸の中で呟きながら、ひとつでも不満を、苦悩を、怒声を吐き出しただろうか。

 風がはやく、はやくと答えをせかすように走り抜ける。

「君の本当の心は、何処にある?」

 指先の触れたブローチ。傷だらけになるまでひっかいた、所属と居場所の証。剣と菖蒲。銀細工。ただの、銀のモノ。

 そんなものに触れて本当に安心したのだろうか。思いのひとかけら、寄せたのだろうか。

 ああ、違う。違うから。

 本当は、ただ、誰かに認めて欲しいのだと、知っているのだ。

 それが怖くて、本音をひとつもこぼせない。

 否定されるのが怖くて、母親に問えなかったことを、悔いている。

 私は、あなたの娘として産まれた。

 そうあることを、一緒に喜んでくれていますか。

 じわりと滲む何か。

 でも、クレリアは遠い存在。だから、涙が出るほどに心をうたない。言葉は鋭くても、どれだけ真実を傷つけて、そこにあると痛みで教えても。

「……興味ないから、いえるんですよね」

「そうだよ。だって、君はまだリゼの友達、でしかないんだから」

 溜息。脱力。

 どうして、ここまで想っていて、恋人でもないのだろうか。

「そのリゼの友達だから、特別扱いしているの、気付いてますよ。私はリゼの付属品ではないんですよ」

 そうだ。

 なら証明しないといけない。

 この学園での実力者であるリゼの友達。そうありたいと想った。なら、示さないといけないだろう。

 何かが、じりっ、と胸の中で音を立てた。

 身体が少しだけ。暖かく、軽くなる。或いは、目以外の何処かが、熱くなっていく。多分、言葉を紡ぐ舌。

「正確には教師と生徒、でしょうに。リゼの友達って、その言い方は、まあ、何というか、ですね」

「……そういうのにリゼはとても悩んでいるから、解決する親友になってあげてくれると助かるかな?}

「ははは、教師が生徒に頼み事ですか。ええ、いいでしょう。受けてあげましょう」

 悩んでいるというか、不器用というか。

 それは二人ともでしょうにと考えて、ふと、少しだけ身近になった気がした。

 希代。天才。そういう二人も、恋で悩むような。

 外から見たら、とても簡単なことなのにと。本当に甘く、苦く、熱く、それこそ周囲に薫るほどに――相手への想いを募らせている。

「だって、全部を教えたら、リゼは……」

 風が、小さくなっていくクレリアの言葉をさらう。とめる。口を噤む。

 すこしだけ悲しそうにクレリアは笑った。

 伝えられない恋は、けれど、炎のような強さと弱さに揺らめくような色合いで織られている。

 リゼのケープのように。

 ちりんっ、となる。

 与えられるだけでは、奪うだけで恋じゃない。そういうリゼ。

 全てを教えたら、と、悲しく笑うクレリア。

 ああ、確かに、教えて、与えるのを奪うと勘違いされたら悲しいのだろう。一方で、全て自分の想うような、理想を演じる恋も愛もない。恋人ではなく人形へのそれだ。

 だから、ああ。

「なんだ」

 誰だって、何かを演じている。

 真似している。模倣している。それが嫌で、まだない何かに変わろうとしている。

「考えなくても、想っていた」

 リゼは、そんな悩みを忘れたように、まだ眠る。ゆっくりとした呼吸。なのに、これだけ話しても起きない。

 どうしてだろう。

 無防備でもクレリアならと安心と信頼。

 それとも、夜歩きのせい。

 とても、とても難しい。

 自然とセレンの顔は、考え込むようなそれになっていく。

 どうしてリゼにこんなに心惹かれて、思いを揺らされているのか、気づけずに。



――綺麗な炎(オモイ)を見ると、それがどんなに危険でも見て、触れたくなる。

 

 

 思いを、感情を、意識を、思考を。それこそ魂さえも惹き付けてしまう神秘と幻想を、ひとは何といっだろうか。

 儚い炎の蝶は眠る。目覚めの時、何を求めるかは、まだ誰も知らない。


 


 

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