安息と苦悩のタペストリー
呼吸をひとつと思ったら、背筋がぐぅっ、と猫のように伸びるほどの溜息。
瞼をあければ、セレンの薄い青の瞳には、疲労の色。
海色の長髪は邪魔にならないように革紐で結んで止めていたが、妙に重たく感じて指でほどく。
ぱさりと青髪が踊り、首を振って揺らすように靡かせる。
「んー……しんどい、じゃないんだよねぇ」
ぐぐっと背伸びするようにしながら、授業の終わりと開放された教室の中で緊張をほぐしていく。
感情は、確かに軋むようだった。ただそれはふとした拍子に起きるもので、これといって特別なことではない。期待していた分、がっかりはしても、それも何時ものことだった。
「しょうがないな。……我儘しているもんね」
うんうんと頷くセレン。
そういう仕草が、自分の悩みや苦しみを内面に閉じ込めていることだと気づいている。
助けてというサインを出すのが苦手なのだと、自己分析はしていた。けれど、だからといって、どうすればいいのだろう。期待と不安。高揚と恐怖。複雑に絡み合った心を、持て余している。
そんな空白に、ひとつ。
靴音ひとつ。いや、それは本当に音が鳴ったのか。
ほとんど、猫が動く気配に近い。近づいたことを知らせる為に、わざと鳴くように靴音を、あるいは気配を出す。
それがこの赤く、神秘的で、綺麗で――危うい少女、リゼだ。
「どう、クーの授業、凄いでしょう?」
表情の鋭ささえ感じるような冷ややかさ変わらない。
だが、そのルビーのような赤い眸の奥底で、感情は嬉しげに揺らめいている。
隠すことをしないし、出来ない。危ういと思うのは、きっとそこだ。現実感がないと思うのは、このリゼという少女はそこにある。
感情が、想いが第一。
現実では大変で苦労する。嘘。欺瞞。そういうものがないのだ。
自分を隠さず、心をそのまま言動で表し、澄んだ瞳に浮かべる。それがどれだけ危ないことか。
「……どうしたの、セレン?」
神秘的に思えるのだ。物語の中の存在のように。
小首を傾げて問いかける表情に、自分の内面を隠し、止めるようなものはなかった。
「ん、よく、それで生きていけるなって。強いんだねぇ、リゼって」
「強いのはクー。賢いの、クー。私はいろいろ、学んで借りて、力にしているだけ。手伝って貰っているの」
「なるほど、だね」
誇らしげさなどひとつもない。
その不思議な雰囲気や言い回しを取り除けば、とても子供らしいのだ。
クレリアという特別な存在を友達に紹介出来たと、それが嬉しくて、静かに喜んでいる。
純粋さは澄み切った赤い瞳を宝石のように思わせ、その奥にある想いの熱量が炎のように波打っている。ただ、表現の仕方が凄く不器用で、想いがまるでその奥に閉じ込められているように表にまで出てこないだけ。
いや、待って。ならば、どうして炎だなんて。
「…………」
一瞬の違和感。だが、思考ごと視線を一度リゼからきって、口にする。
「それにしても、凄いね。これでも座学には自信あったんだけれど、ついていくので精一杯……ごめん、嘘だね。ついていけてないや」
セレンは腕を組みながら椅子の奥へとゆっくり背を預ける。
目の前にあるノートにはびっしりとインクで文字、魔術陣と式が書き込まれている。
新しい、真っ白なものを用意してといわれて用意した新品だが、皺ひとつもない表紙とは反面に中身の紙の半分ぐらいまでがもう消費され、黒い文字とそれを必死に書き込み続けた勢いで少し歪んでいるている。
「午前中の半分くらいが全部、座学……まあ、これ、出るだけで単位貰えるっていうのも納得だよ」
ただ、それも全て板書されたものをかけたわけではない。
最初はそうしようとしたのだが、書く為に理解する為の時間が削れていくのを感じ、必要だと思ったものを、あるいは重要点だけを記すようにしたのだ。
無理に書き込んでいけば、このノートが一冊、消費されたかもしれない。そして恐らく、それは間違いだと感じている。
疲れが手首の熱となっていた。だが、それよりも目の奥が熱いし痛い。
理論構築されたものではなく、構築する為のものの解説。基本、基礎の為のものだが、それに関する細かく、そして、斬新であったり、古すぎて忘れられたものたち。
どれが大切で、重要なのか。判断するのは自分で、授業の中で選択して拾い上げていく。
「んー…………凄い、ね」
「うん、凄い」
徹底した基礎の構築。それがどんなものだって重要なのは分かっている。
けれど、ここまでするものはいないのではないのか。世界にある方法、技術。それらを圧縮し、断片としてでも使用できるように教えている。
結局、全ては授業を受けた者たちが何を、どうしたいのか。
けっして、これだけで何かが出来るわけではない。けれど、それを支える確かな足場になるのだろう。
「うー……天才の世界って嫌だなぁ」
「そうセレンも、授業についてこれているわ。だから、大丈夫。……これだけだと、足りないけれど」
「足りないですか。リゼさま」
「そう。さまはいらないけれど、これでは、『何の為にこの術式を構築しているのか』という目標が曖昧ね」
ページを指で捲っていくリゼ。そこに記してあるものを、ほんの瞬き三つほどで読み込んでいく。流れる視線は理解と把握の気配。そして指は踊るように捲られる。
その動きは楽譜を読み込むヴァオリストのように毅然とした美しさがある。が、それは天才や鬼才の領域を踏み越えた者のものだ。
「自分の主目的。主体性。結局、基礎というのは、動き出す為の歯車よ。それだけでは、何の為に組み合わされているか判らない。判らない儘では、役に立たない。いい音色を立てるオルゴールは、緻密に、精密に、その歯車を組み立てるもの」
「ははは、そう言い切れるのが、怖いし、リゼって感じだね」
自分とは違うのだと思う。
敏く、賢く、けれど、反面で幼くて愚かな少女。
こういう存在が賢者になっていくのだろう。それは納得してしまうし、周囲を飲み込むような雰囲気は産まれもったものに違いない。
元からまばらだった教室も、生徒が散っていく。出入口は合計で四つ。リゼとセレンが入って来た後方の大扉と、左右に普通の大きさの。そして教卓側にある小さなもの。
どれかを使って出ていくが、その際、必ず扉に鍵を差し込んでから開いて、そして閉じている。あの白い岩にリゼがやったようにだ。
ひとりひとり、あるいは一組ずつ順番で、教卓側以外の三つの出入り口の扉を使っている。
「あー……確か、空間転移の術式、だっけ。あの扉って」
鍵と扉は、それぞれセットなのだという。
扉に対して鍵を差し込むことで、指定された地点へと跳ぶことが出来る。距離がそこまで離れていないから可能だというが、此処と何処かを繋ぎ、一瞬とはいえ距離を無とする空間を操る中でも高位に位置する魔術だ。
「そう。ただ、それもアーティファクトである鍵と扉を使うことで、限定的に。かつ、魔力は鍵に補充させてのね。……後は、この学園都市自体が各所に魔力を増幅させる為の陣や結界、施設などを用意しているから、それを利用しているの」
そういってリゼがポケットから取り出したのは銀色の鍵。よくみれば、それは紐で結ばれ、五本が束ねられている。
「願った場所に常に繋がっていると限らないのは、星の巡り……それこそ星辰の影響も利用しているから。扉がどの扉に繋がっているかは、その日にならないと判らない」
声色はゆっくりと歌うように、この教室の説明を続ける。
「それこそ、危ない場所とは繋がらないようにクーはしているけれど、どこが入口になるか、までは操作していないの。……クーが得意なのはこういう空間操作の系統の魔術だけれど、それを感じて、見つけて、辿り着くまでが最初のテスト」
それこそ何でもいいのだ。
力を示す。知識を収集する。そして試して、見つけるまで繰り返す。
それこそ方法はひとつではない。極論、セレンのように誰かに連れてきて貰ってもいいのだ。
「ただ、その後に鍵を貰えるかは判らないけれどね」
「んー。足りない感じ、かな。やっぱり、私だと」
一日中がクレリアの授業となっているとは聞いている。
午前は座学だ。一番期待していたのだが、どうしても、先に何になりたいと決まっている人ばかりだ。まるで、それが最低条件だといわんばかりに。
――絶望するなんて、必要はない。
それは、夢や理想を胸に宿せたものならではないのだろうか。
自分が何処に立っているか判らない者が、いったい、何処を目指せるのだろうか。
迷いは、苦しみになる。苦しみは、心の痛みになる。身体のそれなら耐えれるのにと、セレンの手が握りしめられるが、それで掴めているものはまだ何もない。
まだ何も、その手で掴めたものはない。
もう片方の手は、気づけば胸元のブローチに爪をたてていた。物悲しい金属のが、掠れた音がする。少し、震えている。
「お昼、どうする?」
リゼの小さな呟き。小首を傾げているのは、ついてくる、と聞いているかのようだ。
「そんな子猫みたいな仕草をされると、断り辛いよね」
「私は、私。子猫みたい、と言われても、リゼよ。それ以上でも、それ以下でもない」
ただ、その声に自信というものがない気がした。
いや正確にいえば自負か。
他人の評価を全く気にしていない。強く、美しく、気高くて、自由で……でも、それがリゼにとって何だというのだろう。
自分というものと、他人を比べない者にとって、どんな意味があるのだろう。
「……ね、リゼは何処で昼食を食べるの?」
このリゼという少女から、セレンが目が離せないのは、それだ。
赤い髪とその瞳。硝子じみた儚さと美しさ。神秘的で、浮世離れした雰囲気。
瞼を閉じ、思案する姿は同性から見ても綺麗だ。
でもその奥底に、それらを形作る何かがある気がする。そして、それは何処となく、あのクレリアに似ている気がするのだ。
絶対的な自分を構築する、祈りのような、願いのようなもの。
他人の価値観や評価なんて気にならない。そういうものを、強さと呼ぶのかもしれない。
ただ、触れることは躊躇ってしまう。その領域に踏み入るのは、怖いと思うのだ。
それがあれば、知れば、セレンはなにかになれるだろう。
でも、それを知れば、二度とセレンは戻れない。
「ん、こっち」
ふわりと臙脂色のケープを翻して、リゼはくるりとターン。
赤い髪と、鈴の音が続く。気儘に、自由には何時も通りでも、少しだけ楽しく、早い動きだ。
靡くケープが、まるで舞い踊る蝶の翅のように見えた。赤い想いで織られた翅。たったひとりの少女の為の、夢を飾るように。
「とと、まって。ノートとか、仕舞うから。それに、どこにいくの?」
急いで鞄に詰めて立ち上がる。そのまま駆けるようにセレンは後を追う。けれどリゼの歩みは軽やかに、教卓側にある小さな扉へと進んでいた。
誰も使っていない扉だ。ここだけは誰も使っていない。
いや、正確にいえば、ひとりだけ、この扉は使った。その人を思えば、この上機嫌のような軽い足取りも、少しだけ理解できてしまう。
やはり、自覚はないのだろう。
「いつも、ご飯はクーが用意してくれるの。美味しいよ、クーの料理」
ほんの少し、頬を綻ばせて、嬉しそうに微笑んでいることにも気づかないのだろう。
幸せそうだと思う。
でも、それだけに、きっと痛いのだろう。
扉に鍵を刺す。ゆっくりと、扉は開く。クレリアへの元へと、リゼという少女はいく。
けれど――リゼという少女が、クレリアという賢者の横に並びたてる時は来るのだろうか。
すべてを貰った少女は、すべてをくれた青年に、何かをしてあげられるのだろうか。
それはリゼには判らない。
だから、きっと、心の底から、微笑みを浮かべられない。
ちいさな、ちいさな笑顔だけ。
悲しいくらいに、一途な想いは、臙脂のロングケープを靡かせる。
それすら貰ったものだ。守ってくれますようにと、祈って織られた、クレリアの想い。ぬくもり。
風。
ちりんっ、と鈴が鳴った。
赤織の翅は――夢へと羽ばたくように、流れた。
陽だまりの中で、自らの夢の色を失わないように。
ちりんっ、と、鈴がなく。
幸せにひたっているだけでは、届かないものがあるのだと。
鈴がなく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます