台本を捨てた台詞、縋るように爪跡を


 どうして。と、セレンは聞いた。

 名前の由来や、自分の出自。隠し子であり、捨て子だったのを、途中で拾われたのをどうしてわかったのかと。

 一目見て判る、とは思えなかった。それだけ頑張って、取り繕ってきた演技には自信があった。

 だからこそ。

「演技、に見えたの。名乗りの時の仕草ね? 貴族って、どう相手に見えるか、どう映えるかというのも大事にしているわ。印象って、最初が大事。相手の心に、最初の一歩を刻むもの」

 ともに草の上に座り、語らう中で、リゼは詩を諳んじるように語らう。

 耳朶に触れる言葉は軽やかで、風の音色のように心地いい。だから、多少、長くても聞いていて不快ではなかった。

「――だから、相手じゃなくて、自分に向けた仕草があると、少しだけ、不思議に思う。自分に、これでいいの、と、挨拶が終わった後に迷うのは、とても、珍しい」

 そういうと、リゼは自分の左胸にある銀のブローチに触れる。そこにあるのは『月と月下美人』の意匠を凝らしたものだ。信仰、宗教。そういった方向性の賢者を育てる為の、四つの塔のうちのひとつ。

 聖職者や、神官戦士というのもある。巫女や、聖歌や龍奏といった儀礼のものもいるが、あくまで方向性だ。『月と月下美人』は幅広く、何かしらの信仰や信念に殉じる事をよしとする。

「後は、こんなどうでもいいもの、に、爪での引っ掻き傷があったものだから。ね、こんなの所属や階位を示す程度のものなのに、そんなに執着するの? 傷だらけになったら、変えてもいいのに」

 傷痕の数だけ、指で触れたということ。

 それも強く。跡が残るくらいに。それこそ縋るようなもので、幼い子供が落ち着く為に、自分の大切なものに無意識で触れ続けようとするものだ。

 不安の度、確かに触れていた気がする。

 自分がここにいていいという証明は、これだけだったから。

 ただのブローチ、なのに。

「血筋なんて、見えないですからね。なにというか、触れて確かめられるもの、が欲しいのかもしれません」

「そして、心には触れられない。触れても貰えない。なら、感情のこもったものを、なんて、思うもの。星や星座に、指先は届かない。だから代わりに、自分だけの宝石や宝物を、なんてね」

 夜空に星。見上げれば星座。触れられないそこに、たくさんの想いや物語が輝いている。星に願いを、なんていうけれど、心細さの全ては拭ってくれない。何か、そんな夜のお伽話や童話より、今触れられるものが欲しかった。

「……そうですね。入学してからずっと、身につけてますし。誇らしかったし、焦ったし、孤独だったし、でも、ずっと傍にあった、私の感情のこもった、星座の欠片、不安と一緒にずっといてくれた。なら、せめて、星屑であって欲しいのかなって」

 ぽつりと、セレンは口にした。その膝の下、スカートの布地の上で黒猫は丸くなっている。

「ロマンチックね。……でも、そういうのを語れるのも、夜だけだからいいんでしようね」

「ははは……恥ずかしい、なぁ」

 僅かに、リゼの瞳が猫に向く。リゼは嫌われてはいないし、好かれているだろう。が、セレンの元が落ち着くというように、黒猫はリゼを無視している。 

「それに、貴族サマだったら、傷ついたブローチは、すぐに取り換えるもの。物に感情を託す、ということはあっても、地位や居場所を示す、この紋章には何も抱かない筈よ」

 編み上げのロングブーツに、ショートパンツ。動き易さを重視したリゼは、それこそ猫が丸くなるように自分の膝を抱え込み、赤いロングケープに包まれるようにしている。

 風は涼しかった。ただ、長い時間いると、少しだけ身体が冷たい。

「自分だけのナニカがあれば、それを大事にする――形がなくても、持っていればそれでいい。貴族様なら、家系の紋章のモチーフとか。形があって、確かめて触れられるものだけが大事とは過ぎらない。……それがないから、夜に、輪郭を喪う時刻に出てしまう」

 きらきらと輝く星屑たちに見つめられながら、どこか、けっしてほどることのない孤独感を、抱く。硬いそれを、夜気が包む。まだ、焦らなくていいと、吸い込んだ風が心を落ち着かせる。

 迷っていいいのだ。

「なんて、ね?」

 涼やかながら、鋭い流し目。

 赤い瞳に射貫かれたように、鼓動が跳ねた。現実に引き戻されたかのような、目覚めに似た感覚。ふと振り返れば、恥ずかしいなどといいつつ、よくもあんな言葉を並べられたものだとセレンは思う。リゼに雰囲気に酔って、飲まれてしまったかのようだった。初対面の少女と、交わす言葉ではなかった。

 続く言葉も何処まで本当か分からない。

 物語の登場人物めいて、けれど、そこが現実と地続きな部分なのだろう。

「私も孤児。クーに拾われるまでは。その前は、更に孤児院にいた。戦争で焼けてしまったの、二つとも。産まれは北の国で、とても寒い場所。廃墟になってしまった場所で、雪が降って色を染める中、クーと出会って拾われて、ゆらりと流れるように、数年前にここにね。……そういう意味では助けられた、のかしら。クーに」

 リゼは何処まで云ってもミステリアスで、そう、触れると消えてしまいそうな儚さと、触れると危うい鋭さが同居している。

 鋭さ。リゼから感じるそれは何。と、一瞬過ったセレンの疑問を、リゼの問いが掻き消した。

「……? そういえば、どうして、私がリゼって?」

 思わず、肩の力が抜けた。溜息。それにリゼが小首を傾げている。無自覚そうだった。脱力して、息を吸い込む。

「あの。もしかして、自分がすごーく有名人だって、自覚ないです? 学園内でも最高位の魔法剣士。入学して僅か三年目にして『焔蝶』の称号を大賢者から頂く、というある種のレコード持ちじゃないですか」

「……そういう意味だと、今の『獅子と剣』は天才と鬼才、そして化け物の巣窟じゃない。『魂斬』、『無窮』、『逆理』の三名が筆頭を争い、僅か僅差で下の学年の五名が追随する。実力で言えば、彼ら彼女らの方が、私より上」

 淡々と指を折り、今、武門の頂きを目指す『剣に菖蒲』の在学生、その中でも称号を得た者たちを並べていく。本来であれば、称号を得た時点で『賢者』と認定されるものであり、この学園都市で『賢者』となれば、一国の将とまでいかなくとも、その近くの地位や、大国の近衛に任命される。

 事実、ここで称号を得る事が、騎士としての三代名誉である役職のうちのひとつ、『ドラグーン・ガード』に任命される条件としている国もある。

 逆に言えば、リゼもまた、その領域か、それに近しい処まで達している少女なのだ。

 まだ、幼さの残る、十五、六の歳で。

 加えて。

「夜の七不思議。『焔蝶の夜迷い』なんてものがあるんですよ? 迷っている人の前に、夜にふらりと現れて、って」

「……?」

「その後は、死神のようにその人を殺したり、不吉や呪いが、とかもありますけれど、大抵は、悩みが解決した……とかとか。半分、妖精みたいな扱いですよ、授業に出ないですし」

 よくない噂も多い。信仰は反面、表立った武力を持たない為に暗殺者なども多い。リゼの体術はそれに近い。

 そこまで思い至って、顔から血の気が引いた。

 リゼの腰の辺りを見ると。革製のベルト。その先には、螺鈿細工の施された柄を持つ、暗がりでも優美だとわかる程に見事なサーベル。

 此処まで美しく拵えられたものが、鈍らである筈はないと断言できる程の。セレンは武器に詳しくない。なんとなくでも、そうとわかる。

「…………」

 殺されりしないよね。

 さっきいった自分の言葉を思い出して、冷や汗がつぅと流れる。死神。確かに、とてもこのリゼには似合う。

 自分の立場を考えて思うが、殺そうと思えばもう殺しているだろうと、深呼吸。不吉な思考を断ち切るために続ける。

「そう。昼間の授業にあまり出ないし、他の塔とだと合同だと余計にって。まあ、噂になりそうなのは、私が体験してよく分かりましたし。その上で……と」

 ちらりとセレンが見ると、リゼは黙って聞いていた。きょとんとして、それがどうして噂になるのかわかっていない様子だった。深夜徘徊の不審人物、しかも、凄く強い。言い方は悪いけれど、それだけでも理由になるのに。

「ほ、ほら、ですねー? 教師の、しかも大賢者に認定された、クレリアさんと一緒に住んでいるって」

「ん、そうね。クーと、一緒に住んでいる、けれど」

 それが何か、と余計に首をかしげる。緋色の髪が疑問と共にさらりと流れた。

「教師、それも、大国が求めるような大魔術師と一緒に、住んでいるですよね?」

「クーとは一緒」

「……えっと、教師と生徒ですよね? で、生徒であるリゼさんは天才で有名。一方、教師のクレリアさんも『星辰』の称号を、大賢者の席と一緒に譲り受けたヒト」

「うん、クーは、凄いから」

 少しだけ、頬を綻ばせるリゼ。そういうのが、どういう風に生徒や他の教師たちに見られているのか、判らないのだろうか。

 いや、判らないのだ。

 確実に。絶対。下手に浮世離れしすぎていて、ゴシップなどの俗な噂を感じ取れない。

 なら、よかった。

 だが、セレンには予感があった。

「……クレリアさんと付き合ってますよね?」

「ん、クーと私は、契約とかはしているけれど……師弟、だと思う」

 凄く、勘違いを呼びそうな単語が出る。成程、と真剣な顔になってセレンはき頷く。

「恋人じゃないんですか?」

「違うわ」

 そこはきっぱりというリゼ。

 嫌な予感が、セレンの中で膨らむ。ああ、これはと少女の直感が警鐘を鳴らして、単刀直入に聞く。

「好き、とかは?」

「……?」

 きょとんとされた。

 何か判らないものを聞かれた子供の表情をされた。

 もっというと、突然何かを差し出された猫みたいな驚き方。

「一緒に住んでいて、生活していて、恋人じゃなくて?」

「クーと私は、クーと私、だけれど?」

「うん、うん、うーん、うん」

「恋人でもないし、好きとかは判らないわ」

 垣間見えたのは幼い少女の情動だった。言葉も所々、幼さが見えた。

 時折、この学園に来て見て知ったものがある。天才と何とやらは紙一重というが、ひとつのことに長けすぎて、感性や思考、感情が一方向にだけ成長しすぎた存在がいる。そういう人は、そちら以外がまるっきりの子供なのだ。

 目の前の少女は多分と。セレンの予感は膨らむ。


――恋愛に、自覚していない?


 よくある話で、そして、一番親しい存在だから、恋とか自分の好意が異性に向けるものだと判らない。特別過ぎて、別の何かが恋心より前に出る。クー、と青年のことを語る様子と言葉と、声色は、幼さを強く残している。まるでそこで、その青年との関係の成長が止まったかのように。

 おや、と好奇心が向いた。仕方のない事だ。セレンは元々、宿屋の娘で、市井で育った街の娘。貴族のお嬢様を飾ってはいるが、中身はこういう話が大好きなただの少女。

 どうしようか。どう聞こうか。悩んでいる中、ぽつりとリゼが口にする。

 ただとリゼはつづけた。その瞳は、月を見上げている。

「……でも、愛は、判るつもり」

「え?」

 四つの月が、それぞれの色と形で浮かんでいる。

「少しだけ、愛は判る。どういうものか、向けること、向けられることは判る。……だから、私のはそうじゃないって、判る」

 聖書に語られるような龍の愛の話だろうか。

 何だか違う気がした。

「愛は、痛くて、暖かいの。……自分の何かを、たくさん、あげるの」

 少しだけ、悲しそうに、リゼは唇を動かす。

 黒猫が、心配そうに瞼をあけて、リゼを見上げた。

「ううん、そうじゃないって、信じたいの。……信じたい。これは恋じゃない。奪うだけのナニかが、恋であって欲しくないって」

 リゼの指先が、自分が纏う臙脂色のロングケープを撫でる。きっと、クレリアに貰ったものだろう。その先に結ばれた鈴を、ひっかくように、愛しそうに触れる。

「冷たいものを暖める。それは優しさ。でも、冷たい肌は、ひとのぬくもりを奪う。ケープで隠して覆って、暖めても、どうしようもないものはある。ぬくもりは、身体のことだけじゃないのね」

 セレンに指摘したことを、リゼも無自覚にしている。

 恋は盲目だ。愚かになる。他人には言えるのに、自分には何も言えなくなる。どうしようもない、不治の病。

「愛じゃないから、好きじゃ、ない」

 一瞬、ルビーのような瞳が赤く揺らめいた気がした。その奥底で、炎が灯った気がする。錯覚というには、余りにも強く、鋭くも鮮明に、熱を帯びた吐息がリゼから続けて零れた。

「……愛であれば、よかった? それなら、クーの心を暖めてあげれた?」

 それは、夜の中でも包み切れない、赤い想い。

「私は、クーの為に何かできない。ずっとしてもらってばかりで、早く追いつきたいのに、並び立てない。傍にいるのに、遠い気がする。……ね、貰うばかりなんて、愛じゃないと思う。何かしてあげられないと、愛じゃない」

 愛であればよかった。リゼの嘆きは、それに直結する。

「……貰うばかりでは奪うのと、変わらないわ。それを恋や愛だなんて、思いたくない。思えない」

 ああ、そうだ。

 貰うばかりでは――自分の価値が示せないから。

 セレンも知っている。判っている。相手が求めてくれなければ、価値はないのだ。家の後継ぎがいないからと、必死で探された変わりのお人形。それが、セレンだから。


――他に、もっと優秀な別の姉や弟がいれば。


――私が、セレンが、家の名を継ぐにふさわしくなければ。


 人形に、価値なんてない。

 喉が締め付けられる。指先が、掌が熱を帯びる。剣を振るわないと、と焦せる気持ちが鼓動を早くする。

 騎士になれば。騎士と認めれれば。

 そうだ。そうなれば、きっと捨てられない。家族を失ったあの瞬間の、生きているのにもう二度と交わらないという、絶望にはたたき落とされない。

 人を、人と認めないモノは――。

「……セレン?」

 呼ばれてはっとする。

 だが、自分の裡にあったものより深い、深紅の瞳に見据えられた。

 

「……リゼは、きっと、クーさんを暖かく、できるよ」


 本音を言えば、ぞっとした。深く、静かに、積もった想いは雪のように静かだが、その本質と熱は烈火だ。触れればどころか、閉じ込めた心の蓋をあければリゼ自身も焼いてしまうのだろう。

「何か、リゼはクーさんに、してあげたいの?」

 だから、そう。

「嫌」

 少しだけ泣き笑うようなクーの貌に、微笑んでしまった。



「クーを、クーと呼んでいいのは、私だけ」



 それが、彼にとって、きっと特別で暖かいものだと気づかないのだろう。

 もう、暖かい何かをあげられているのだろう。

 ああ、だから判る。理解してしまう。そんなものじゃ足りないぐらいに、青年に、少女は、大切なものをたくさんもらったのだ。

 それは愛じゃない。

 けれど、恋というには、秤皿から落ちて過ぎる程に、たくさんの記憶とや想いがある。

 ころころと転がっている。転がっておちいく。

 気づかないうちに。気づかないまま。だから止まらない。恋に落ちるのは、止まらない。どんなに苦しんでも、やめられない。


「誰も彼も、恋していることに気づかないまま」

 

 そっと、セレンは戯曲の一文を風に乗せた。

 不機嫌そうな顔をしたリゼに、それは届かない。


「じゃあ、リゼ。ううーん。いつのまにか、呼び捨てだね。でも、いいよね。……友達になろう、リゼ。少しだけ、助けて。変わりに、少しだけ、手伝うから」

 

 この夜もまた、それは起こらなかった。

 リゼという少女の愚かさは、神秘性は、情熱は、恋慕は、深海に揺蕩う赤い歌のように、未だ、誰にも届かない。

 ……歌声が響き続けていることに、誰かが気づいても、あなたには届かない。


 

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