第一章 夜空に彷徨い、猫は出逢い
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靴音。それは猫のようにひそやかに。
夜の中を駆ける音は最小限にするりとと、けれど風より早く走る影。
ただ本人にとっては『夜の散歩』程度なのだろう。静まり返った市場を抜け、店の並ぶ商店通りへと入っても、軽やかなまま。
こつんっ。と時折、ブーツの底が小さな音を立てる。石畳で舗装された道路は、気儘な少女、リゼの遊び場だった。
あるいは気晴らしか。迷いの表れか。
広場に出る、リゼの赤い姿。立ち止まると同時に、緋色の髪の毛と、ロングケープがさらりと流れていく。
やはり全力ではなく、リゼにとっては早足。息は穏やかで、物静かな雰囲気はそのままだ。夜の中で、赤い色彩を流れるように咲かせている。
静かに水音を立てる、広場中央の噴水の傍。ようやくルビーのような瞳が街を見た。
見下ろす形となったのは、ここが中腹である為。さっきまで夜をするりと抜けて来た場所は、やや上へと向かう坂だ。
下には色んな職人の工房や宿。市場に詰め所、この都市ならではの寮が無数にある。
そして、ここは元々は要塞都市。山をひとつ使った、天然の城だった。中腹から見れば、城壁が遠くに見える。今やその高さは削られているが、囲う壁の堅牢さは失われていない。
山を削って作られたため、段々の街並みは広がっている。当然、上にいけばいく程、豊かな人々の住まう高級地だ。中腹程度がごく普通。下の方はといえば苦学生や、この町に滞在を許された商人と学者たち。
ここは、世界でも類を見ない学生都市――かつての要塞都市を作り変えた、『賢者』の為の。その卵たる若者たちを育てる為の場所、教育都市とでもいうべき場所だった。
にぎやかで、騒がしく、明るい街も今は眠っている。夢見ている。
何をみればいいのか判らないリゼのようなものばかりが、四つの月に誘われて、夜のしじまと風に、身を預ける。
それで答えなんて、ではしないけれど。
太陽よりは、月と夜と、星は悩むことに、苦しむことに、優しかった。
錯覚かもしれない。けれど、夜の穏やかさに、抱きしめられているようだと想うのだ。
夜風に緋色の髪と、ロングケープを靡かせて、リゼはすん、と鼻を鳴らす。
続けて傾げられる小首。違和感。何時もとほんの少し違うと、都市の上層部を見る。
この街の夜を、リゼはよく知っている。
迷うように、彷徨うように。夜を歩けば、いろんな断片が散らばっているのを知っていた。悩んで、苦しんで、或いは祈るように。強すぎる光に耐えられない何かが、優しい夜闇に包まれたがっているのを、他ならないリゼが感じている。
だから、歩く。
ほんの些細な灯りを見つけて、リゼはまた風のように流れていく。
身体能力強化の魔術は恒常発動。人の領域の外にいるのは五感もだ。ブーツが石畳の上を滑るように、リゼは駆ける。勢いは増して、硬い靴音。
――こつんっ、
ただ、それは地面からではない。
流れる緋色は、地面ではなく上、空へと流れていた。ロングブーツの靴底は、三階建ての建物の壁へと触れ、瞬くよりも早く、蹴って更に上へと跳ねる。気づけば屋根へ。段々となっている階層を繋ぐ階段を嫌って、建物の上と側面を跳ねていく緋色の姿。
赤い蝶が、夜に舞う。
纏うロングケープを緋い翅のように揺らし、月灯りさえおとす重力に逆らって。
リアリティのなさから、幻想的な優美さすら感じてしまう。止まることなく夜空へと昇る。ひとの眠る、街の上を。
こんな事、街の誰も彼もは出来はしない。
夜だから起きる、まるで赤いユメ。
けれど、それもすぐに終わる。壁を駆けあがって上層部に辿り着き、目的の場所へと。囲うような高い壁がどんなに垂直でも、触れた途端に上へと跳ねるリゼを止めたりは出来ない。
現代の兵士が全員が全員、リゼのような体捌きと疾走が出来れば籠城戦をするものはなくなるかもしれない。そうでなくとも、城壁の意味は薄くなる。だが、そこに壁はあり、それを飛び越えるリゼは常識という軛からも外れていた。
でも、ただそれだけだった。
――こつんっ、
と、着地。その音だけが、やけに高く、大きく響く。
狭く、入り組んだ路地。削りだされた石が組み合わされた、通路と壁と、建物。
砦の、見張り台のひとつ。
下は広い庭のような訓練所。騎士を育てる為の、施設のひとつ。
そこで、夜の沈黙が破られる。
「今晩は、いい夜ね」
唐突に、気配もなく、けれど一瞬で現れたリゼ。夢か幻か、それとも幽霊かと思わせるような突拍子のなさ。
その場の空気をぴんっ、と張り詰めさせるような、綺麗な声。
緋色の髪と、臙脂色のケープが流れて揺れる。赤い翅のように、火の揺らめきのように。
「…………」
神秘的。或いは、いっそ夢か幻のよう。
気づけば夜の中に、瞬きした一瞬で、鮮やかな赤を帯びた綺麗な少女がいるのだ。
幽霊か妖精。そう思った方が納得してしまう。表向きの理由があるほうが、人はどんなにありえなくても落ち着く。 そう感じたのは、きっと想いの熱量。想いや感情、祈りや願いが、音のひとつもたてず、けれど消えることなく鮮明にあるからだ。夢を織りなすのは何時もだって想い。少女の纏う雰囲気は周囲に漂い、現実感を奪っていく。
そこに最初からいた、その場の主であった筈の青髪の少女は唖然と絶句を繰り返して言葉を出せずにいる。雰囲気と空気に呑まれている。
何処から来たのか。いつ現れたのか。戸惑い、そして、応えたのは別の存在。
にゃあ、と、青髪の少女の足元で黒い猫が鳴く。突然現れたリゼにも、全く警戒せず、懐いた様子で、先ほどまで触れていた少女の白い足に額を摺り寄せ続けていた。
どうして、立ち上がったの?
と、聞くように。
アレは怖くないよ?
そう問いかけるように。
黒猫はとても敏感で、臆病で、そして、優しく、気高かった。
腰に釣るした長剣に伸びた手を、猫の金色の瞳が不思議そうに見ている。
「猫の方が先に応えてくれたわね?」
くすりと微笑み、にゃぁーっ、と黒猫が応じた。
ほんの少し、くすりと笑い。
――ちりんっ、
とても遅れて。それこそ遠くから響いたかのように、澄んだ鈴の音色。
月から聞こえたの。と、リゼが言ったら、一瞬だけ信じてしまうかもしれない。本当は違うけれども、そんなミステリアスさがあった。不思議な事に、ひとは騙されてしまいたいときがある。
やさしい嘘は、とても甘いのだ。
鳴り響いた鈴がリゼのロングケープに結われていると気づいて、青髪の少女は少しの間だけ戸惑い、そして、何故だか、頬を緩ませた。
「……リゼ、さん?」
唐突に表れた、赤い少女。
その名前は有名だった。七不思議に数えられる位に。もしかすると、それ以上に。夢や御伽噺として語られる存在なのだから。
夜に彷徨い、鈴の結われたロングケープを靡かせる、儚くて綺麗な少女。
良くも悪くも、リゼはこの学園都市で有名だった。実力も、その容姿も、そして境遇と今いる立場と地位も。
「そうだけれど、私の名前だけ知られているのは、少しだけ、嫌ね。あなたの名前、教えてくれるかしら?」
淡々と、感情の抑揚のない声。ただ、それは夜の静けさに似た優しさを感じる。
「それと、猫の名前も。傷ついているモノの名前を知らずに触れるのは、ちょっとだけ、怖い」
「え……っ…と」
黒猫をよくみると、後ろ足に包帯がまかれていた。
たいしたことはないだろう。少なくとも、今はそうだ。が、青髪の少女が手当てしたのだけは、足元にある薬箱が示している。
こつんっ、と一歩。
ちりんっ、と、鈴が示す。
「悲しいも、傷、よね?」
ルビーのような瞳は、優しさの欠片もない、澄んだ赤色を湛えるばかり。
よく分からなかった。不思議だった。でも、どうしてか、すとんと、不安や恐怖、驚きが落ちて安堵に変る。
「……噂通りの人ですね? リゼさんって」
少し、不満そうにリゼが小首を傾げる。
そんな仕草も浮世離れしていて、『七不思議』なんて数えられている、『少女』なんだなと、笑ってしまった。
噂とか、ひとが勝手につけたもので、自分を表してほしくない。わかった、フリをしてほしくない。
どんな噂かもわからないならなおさら。
そんな、少女らしさを感じ、くすりと、ようやく笑って。
「セレン。セレン・レヴィ・ユリアス」
胸に手をあて、青い海色の長髪を揺らして名を告げる。
これで正しいのかと、戸惑い指先が流れる。その先は騎士や剣士。武門の『賢者』、武の頂きを目指す『剣と菖蒲』の意匠を懲らした銀のブローチ。所属を表すそれに恥じない仕草かと、胸の印に指を這わせながら。立場を示すブローチへ、少しだけ爪先をあてて。
「私はセレンで、この子には、名前、ないです。野良なので。勝手につけたら、怒るかなーって。元々、名前は持っていたかもしれないですし」
「野良猫なのに?」
「ですよ。野良猫になる前、があるかもしれないじゃないですか」
「……そうね。そういうものも、あるわね。出逢う前の名前と、姿と、印象って」
スタッカートを含むリゼの声。
ふわりとケープを靡かせ、鈴を鳴らし、靴音を、ひとつ、ふたつ。
続いた言葉は、するりと、セレンの胸を刺した。
「あなたも、昔は別名だったの?」
「…………」
理由も根拠もない筈の言葉。
けれど、反論や返す言葉どころか、息に詰まったことが、正しさを示していた。紅玉のような瞳は、息の詰まったセレンの姿を見つめていた。
リゼという少女の纏う雰囲気が、浮世離れしているから。
唐突の出逢いで心が乱れているから。
理由は、幾らでもあった。ただ、嘘はつけないと直感した。
「手、怪我しているもの」
擦り切れた手袋の下、慣れない剣を振り続けたセレンの指は、確かに怪我をしている。
「そして、あなたは、貴族じゃない。猫の手当てなんて、貴族のお嬢様は、しない。なのに爵位のミドルネーム。ううん、猫の手当てをする貴族のお嬢様はいるのでしょう」
すっと、触れるぐらいに近くに。
伸ばされたリゼの指は、黒猫へと。
「けれど、寂しさに、悲しさに、猫に触れたりはしないと思う。怪我した猫に、自分でこっそり手当てするのは、優しくして欲しいから? 野良猫なら、拾ってあげないの?」
「…………」
「拾ってしまったら……閉じ込めてしまうものね」
するりと、言葉が流れる。
風が巻き起こる。出逢いを、言葉を、印象強くするように。
リゼのロングケープは、結われた鈴を楽器のように鳴り散らし、赤蝶の翅のように瞬かせる。躍らせる。緋色の髪と一緒に。
夜闇でなお舞う赤織の翅――それは誰かに空を飛ぶ力を与えられた証。
鈴が鳴る。迷い子を、見つけられるようにと結われた鈴が。
喉が締め付けられるような感覚と共に、瞳は、月を見上げた。
「捨て子のままだったら――よかったのになぁ」
にゃぁと黒猫が、同意するようにないている。
ないている。風も、鈴も、月も、声も。
「……どうして、才能なんてあるんだろう。どうして、好きな場所に進めないんだろう?」
それはね、と、猫に手を叩かれたリゼが、小さな吐息と共に、呟いた。
「産まれた時に、もう、命は閉じ込められているの。運命の檻に。世界という牢獄に。それでも、必死に外を目指すの。それだけは、許されているの」
「……不思議な、ひと」
綺麗で、儚く、神秘的。
そしてどうしてか。この人を嫌いになれない気がした。
傷だらけの猫が、夜道に迷っているように、想えたから。
飼い主がつけた鈴が、風に揺れて、音を立てる。
絶対に見つけると、約束(まほう)をかけた、その澄んだ音色を。
鈴が、なく。
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