炎蝶と灰色の聖書 第一部~赤い蝶が求める炎~

藤城 透歌

序章 揺らめく火と、優しい痛み

 気づけば月光。夜は足音もなく訪れている。

 本の頁をめくろうとした少女の指先が躊躇うように止まる。

 太陽が落ちて、まだほんのしばらくだろう。秋の夕暮れは早く、そして静かだ。暗がりのせいで文字が掠れて読めず、そこでようやく、日没に気づくほどに。

 青白い光が夜の穏やかさと共に大きな窓ガラスから流れ込む。

 ふと吐息。細い指先は迷うように揺れて本に栞を挟むが、その本自体は腰かけていたベッドの上に。代わりに枕の近くの台へと腕が伸ばされ、小さな茶色の小箱を掴む。

 側面を押して出てくるのは、小さな棒。空気に触れた途端、それは小さな火を灯す。

 やはり音はない。油を燃やす匂いもない。僅かに箱に光の線が走り、魔術印を浮かび上がらせている。

 魔術の普及は多くとも、付与されたものは市民に行渡る程ではない。この程度のとはいえ、小さな火を灯すだけの贅沢品など、貴族の特権だ。

 が、その火が伸びたのはその横にある赤橙のガラスを重ねたスタンドランプ。アンティーク品ではあるが、模様はなくシンプルで、ところどころ、罅割れている。

 じゅっ、と硝子製の覆いの下におかれた蝋に火が灯る。柔かな赤橙の色彩が、ふわりと、部屋に広がっていく。

 優しい色合いの灯り。小首を傾げた少女の姿が浮かび上がる。




 それは静かに揺らめく炎のように、儚く綺麗な赤い少女。

 ひどく現実感を欠いた神秘さが、その幼さの残る美貌にはあった。

 赤い少女の纏う雰囲気は、思い出に酔わせるように、見るものの現実感を失わせていく。


――綺麗な炎(オモイ)が揺れているのを見ると、それが危ういものだとわかっていても、目が離せなくなるように。

 



「……?」

 照らし出された姿は、夜闇の中に浮かぶ灯りよりなお赤い。

 瞳はルビーのように透き通る赤。物静かな情動が、その奥底から濃淡として波打つのを感じるほど。

 整った顔立ちも儚げなのに、何故だか不思議と近寄ることを躊躇わせてしまう。

 髪の毛は瞳と同じ色。ゆるりと背まで流れていた。

 繊細で、美しく。けれど、何故だろう。

 物静かなのに、どうしてだろう。

 視線を引き寄せるのに、ずっと見ていてはいけない気がするのだ。

 瞳の奥底には刃のような、美しい鋭さがあった。暖かい夢の気配は、けれど炎のそれなのだ。

 危険で、繊細で、美しいもの。

 少女はそんな雰囲気を漂わせていた。

 今はただ、緩やかにその鋭利な感性を詩のように諳んじる。

「……ランプの灯りが、月明りを消してしまったわね」

 少しだけ寂しそうに、唇を動かして紡ぐ言葉。

「残念。夜は、好きなのに」

 綺麗で、儚く、繊細で――そして少し特殊な感性を、僅かに赤い瞳の裡で揺らす。

 流れる言葉に感情の起伏はない。本音なのか、それとも言葉遊びなのかもわからない。ただ、細い指は途中まで読み進めていた本を求める。

 ベッドの上には無数の本。アンティーク・ランプの置かれた机の上も相当の冊数だが、積み重ねに失敗して崩れ、シーツの三分の一ほどの場所をしめている。

 本にこれといった決まりや共通点はなかった。

 強いていえば、少女が読むような物語が少なすぎるというだけ。

 古代魔術印から、近代における飛躍した魔術論。そこから繋がるように付与魔術と錬金術の発展と、そこから発生した魔導具の技術論。

 戻って精霊魔法に、使役と召喚術。魔術に関するありとあらゆる本が、少女の知識欲のように四方に散らかりながら、ここに集められている。

 文献として国が指定して扱うような、古代の希書まである。どうしてこれほどのものを少女が、という疑問は、赤い少女の神秘性に掻き消されてしまう。

 


 そういうものだと、納得してしまう。

 夢は夢。異なるものだと見るもの自身に納得、させてしまう。


 

「…………」

 空を見上げる少女。

 月は四つ。白と、赤と、青。そして一番幼く、小さな紫。

 今宵は白が満月。欠けることなく、姿を現している。

「神は私達を見捨てたもうた」

 呟いたのは聖書の一節。何かを求めるように、瞼を閉じた。

 神秘的な雰囲気を纏うからこそ、その言葉は不可思議な余韻を夜の中に残す。

「完全を求めた神。けれど、不完全だからこそ、神に従う龍は、ひとを愛した」

 愛しきモノの為。決して世界の為などではない。

 神が見捨てたこの世は終末の淵にある。けれど、人を愛した龍が、空を支える。そう、支えるのだ。月が落ちないように。

「――なぜ、見捨てたもう? なぜ、孤独に空を支えたもう?」

 歌のように揺れて、流れる。僅かに熱を帯びたそれは、世界各地にある龍への信仰を元にしたものだ。

 世の八割から九割が、神が不完全な世界を見捨てて月を堕とし、ひとを愛した龍がそれを支えている。というものを起源としている。

 そこからの発生はあまりにも多く、多岐にわたるが、これが真実であることに異論を挟ませない程の広域にある。ともすれば海を隔てた島や、大陸。ここ三百年で発見された東方諸国もだ。

 だから事実で歴史。だから本当。

 そう完全に言い切るのは難しくとも、信じたいというのは否定できない程にひとびとに伝わっている。

「……なぜ」

 そう。そうなのだ。余りにも当然なことだから、誰も彼も口を挟まない。

 愛という言葉で全ての論議と思考は均されている。神に愛されたのか、龍に愛されたのか。差はその程度。

 では、少女の声色に痛みが走ったのは、どうしてだろう


 きっと、少女自身でも判らない。


 絶対、少女がもっとも大切な人でも理解できない。

「何故、龍は人を」

 違う。違うのだ。


 ――この胸に燻る想いを否定したいからこそ、誰にも、判って欲しくない。


 ルビーの瞳が揺れる。火がゆらめくように。

 足音。扉が開く音と共に、新鮮な風が部屋の中に流れ込む。

 ほんのすこし、少女の頬が緩んだ。

 足音は一定のリズム。それで誰か判る。そも、ドアの開け方だけでそのひとだと、赤い少女には判るのだ。他の人にはわからなくても。

 困ったような、青年の声が続く。

 それが本当は嬉しそうなのも、安心しているのも、赤い少女にしかわからない。

 自分しかわからない。そうじゃなきゃ、嫌だった。

 龍の気持ちと、同じように。

 或いは見捨てた神様と、同じように。

 決して、語られる必要はないのだから。

「また、着替えもせずに」

 苦い言葉は、灰色の髪の青年のものだった。

 穏やかそうな容姿。浮かべる表情や、声だってそう。

 けれど真っ直ぐに伸びた背と姿勢。足音から察する体重は決して軽いものではない。着込んだ衣服もまた青年の性質を示すように白と黒の、装飾の込んだ魔術師のそれだ。それも一流の身分を示すような、素朴ながら凝った装飾がある。

 ただ、僅かな青味を帯びた灰色の瞳は、まだ磨かれていない水晶のようだった。髪の色は、まだ原石として掘り出されたばかりの銀に似ていた。

 まだ若く、そして、先を感じさせる青年。ローブを脱ぐ前、部屋の中央に置かれたテーブルに、持ってきたトレーから二人分の食事をおいていく。

「リゼ、ベッドに座るなら、ちゃんと着替えなさい」

「……ん。また、後で出かけるから。食事だってまだだし」

「また夜歩き? ダメだよ。もう秋だから、寒い」

「コート、買って? ダメっていっても、クーのダメは、私、大抵聞かないもの」

「そうだね。大抵は聞かないからね。我儘」

「うん。だって、夜が好きだもの。我儘は、少ししか言わない」

 ベッドに腰かける少女が見上げた青年。クーと呼ばれた彼は、やわらかく、微笑んでいた。それで赤い少女、リゼの胸が痛んだ。どうしようもない優しさに、浸って、甘えて、出られていないような。

 子供な自分に、少しだけリゼも気づいていた。

「我儘はもう少しいって欲しいよ? 十個あれば、ふたつかみっつは断れるから」

「そうね。沢山の我儘をいうと、どれかは我慢しないといけないもの。だから、きっと新しいコートは駄目、ね」

「卑怯な手口まで真似なくていいのに」

 年何も一緒にいるような、淀むことなく流れる二人のテンポ。言葉。空気。感情。少しだけ、二人の瞳が優しくなる。

「食事は、シチューとパン、でよかったね」

「うん。野菜、たくさんで」

「ならよかった」

 それでも本を読むことはやめない。

 区切りがいい処まで、というように本に視線をおとす。クーと呼ばれた青年の足音と、ページが捲られる音は一緒だった。

 誰かがベッドに腰かける音。優しい匂い。瞼を落して、本を閉じる。

 栞は、何処だろう。どうでもいい。

 どこまで覚えているかなんて、幾らでも繰り返していいのだから。クーの傍にいれる時間のほうが、大事だった。空白の時間に、幾らでも本は読める。

 傍に。傍に。猫のようにするりと、リゼはクーの胸元に頭を預ける。何も見えない。ただ、音とあたたかさが、身体に直接、沁み込んでいく。

「ちゃんと晩御飯、食べるんだよ」

 上から囁かれる。

 こく、こくとゆっくり頷きながら、好きなものの傍に耳を寄せる。

 とくん、とくんと、脈打つ音。

 リゼは鼓動に合わせて、ゆるゆると力を抜く。心臓の脈打つリズムに、落ち着くように。ゆったりと、力を抜いて、身を預けてい。

「そんなに安心する?」

 上からの声に、頷いた。

 そこに理由は付けたくなくて、黙る。沈黙は卑怯だとリゼはわかっていた。理由を知りたくて、リゼの肩をクーは抱き寄せるのも、わかっていた。

 兄妹のような、灰と赤のふたり。

 恋人のような、銀と炎のふたり。

 炎と、灰のように。

 不安がゆっくりと焼かれていく。そんなことはないと、頭の中をよぎっていたものが消えていく。溶けていく。

「……リゼは」

 クーの声。躊躇うように。それでいて、愛しそうに。

「私は」

 沢山の想いは絡み合った糸のよう。

 よく分かららないままに、心臓を縛るのだ。痛い。未練が、後悔が、願望が、夢が。明日と昨日が絡み合って、心と魂を縛る。痛い、痛い、痛い。ねぇ、御願い。このままわからないという事にしておいて欲しい。

 愚かなのだ。元々は文字の読み書きも出来ない身分。

 例えば何故、たったひとり生き残った孤児だった私を拾ってくれたのか。育てるように暮らしてくれるのか。雪の降る中、凍えた手を包んでくれた暖かさは、ずっと忘れないし、今もなお続いている。

 一緒に過ごす日々はあまりにも穏やかで優しく、ぬくもりに満ちていた。こんな日常が自分にあっていいのだろうかと、戸惑う程に。

 そんな今に、理由なんて見えないふりをしたいのかもしれない。

 だから聞かない。聞きたくない。一方で思いは加速する。

 与えられるだけでは、奪うのと変わらないのだ。

 奪い続ける関係を何というのだろう。それが幸せだと認めてはいけない気もする。

 鼓動は嘘をつかないから。

 ただ表面をなぞるように、唇を動かす。

「私は、愚か、だから」

 貰うばかりの暖かさに瞼を落とすよう、思考を閉ざす。

 何にも気づかず、どうか、最初の願いの為に焔へと身を投じさせて欲しい。

 すべてを焼き払って、灰も残さず、風に流して欲しい。

 綺麗な月に届けと、リゼは囁く。


「クーの全てを貰って、私の祈りを叶える」


 空高く、気高く、そして愚かな龍よ。

 どうか、この焔の願いを、見届けていて欲しい。

「――救われる必要なんて、ないから」

 だからきっとこのまま。

 求めたのは断罪と審判。

 罪に塗れながら、咎濡れて生きる道を焼き清める。

 神様が捨てた、罪ばかりの世界で。

 ……幸せなんて、求めてない。

 では、どうするつもりなのだろう。どこまでやればいいのだろう。

 鼓動を聞いて、ゆっくりと、リゼは瞼をあける。

 答えは出ない。だから、歩かないといけない。



 夜の迷子は、心の向かう先を喪ったひとばかり。


 

 自分もまた、そのように。



「靴底が擦り切れているね。用意、するよ」

「…………」

 どうして、優しくするの。もっと厳しくして欲しい。

 肩を抱き寄せるぐらいなら、と思いながら、優しさに縋るようで痛いのだ。

 あなたという炎なら、と、想うから。

 その我儘だけは、胸の深くに飲み込んだ。



 これは焔の蝶と、銀色の流れ星の話。

 迷って巡って、たどり着いた、最果てに、鐘は鳴る。


――誰も彼もが、救いなんて求めていないふりをしている。


 或いは、このふたりだけが。

 


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