ねぎまは焼きたて!

 体はメタボ、頭は中年二次元病、しかしマイソウルは機械仕掛けを見ると心が躍る純朴な少年の俺様。

 カメラスライダーを見て興奮あらわにするも、残念ながら今の俺様は屋台で寸劇を演じるエキストラだ。

 マイソウルが涙を流すのは俺様が一番わかる! しかしここは目の前の仕事を全力でやり遂げるのが大人ってものだ。


 再び体をひねり、主演様一行の演技の流れを眺める。

 監督さん自ら主演様一向に演技の指導をしている。これだけでも熱いシーンだ。

 ちょうど俺様の左手奥、もんじゃ焼き屋台さんの周辺を入り口に見立てて、そのあたりから主人公一行は駅構内へ走ってくる。

 俺様の後ろ(とは言ってもかなり離れているが)を通り、夜の上野駅構内を突っ切る一行。

 その横をカメラスライダーに乗ったカメラが併走して撮影する。

 途中で、前述した酔っ払いサラリーマンの集団とぶつかりながらも奥へと向かう。

 なるほど、カメラ自体が動くことと、酔っ払いサラリーマンとぶつかることで、主人公一行が脇目もふらず同僚を探しに来ていることを演出する訳か。


 しかし、酔っ払いサラリーマンさん一行は主演様と第一種接近遭遇するなんて、実にうらやまけしからん!

 ふと思う、もし俺様が着物ではなく背広を着てきたら酔っ払いの役として主演様と接近遭遇できたのか?

 しかし、仮定の話をしてもむなしいだけだ。

 それに俺様は強欲商人から成り上がった悪徳社長の皮を被ったカルガモになりきって、集団就職生を引き連れた大役を成し遂げた。それでいいじゃないか。


『練習いきま~す!』

『練習!』

『ハイ! 練習!』

 ここで主演様一行を交えたリハが始まる。

 二度ならず三度までも、主演様は俺の後ろを通り過ぎる。

 でもよ、それでいいじゃないか。

 エキストラとは裸一貫! 体一つ! 

 よく言うだろ、漢は背中で語るってな。

 俺たちは歩き一つ、仕草一つ、背中一つで視聴者や観客に語りかける役なんだ。

 決して銅像やマネキンとも違うんだぜぇ。


 そして主演様や助演の女優さんもな、背景と化した飲んだくれ親父の背中を踏み台にしてよ、より高く舞い上がって、誰にも負けない一番星となって輝いてくれよ。

 ……おっと、グズッ……酒を飲んでもいないのに涙がチョチョぎれてくらあ!


『用意! スタート!』

 左奥から、背中に感じる緊張。

 左斜め後ろから、背中に聞こえる靴音や息づかい。

 真後ろから背中にぶつかってくる酔っ払いのへべれけを感じながら、俺たち三人のエキストラは乾杯をする。

『きゃっ!』

『うおっ! ……とっとぉ!』

『ごめんなさい!』

『おう! ヒック! #$%&!』

 マイクに拾われるであろう主人公一行と酔っ払いのやりとり。


「へい! お待ち!」

 そして、決してマイクに拾われない、ねぎまが乗ったお皿を差し出す親父さんの威勢のいい掛け声。

 カメラは見ていなくても、俺たち三人は親父さんを見ているぜ。

『ハイ! カットォ!』

 屋台の中ではコップとお皿を親父さんに返す、何度目かのやりとりが再び行われる。

 やはり主人公のシーン故、そのチェックや指導は我らエキストラの比ではない。   

 待っている間、親父さんはつぶやきながら、七輪の網の上に乗ったねぎまを何度も裏返す。

「……早く終わってくれねぇと、こいつ焦げちまうからなぁ」

 そうか! なんだかんだここまで三十分近くっている。

 練習中はお皿の上に乗っているとはいえ、撮影のチェック中は網の上に戻される。


 だがちょっと待って欲しい。

 別に網の上に戻さなくても、このねぎま達はすでに十二分に焼けているではないか。

 『練習!』や『本番!』の掛け声がかかってから網の上に戻し、リハや撮影が始まってから皿の上にのせて俺たちの前に出せばいいのではないか?

 だが俺様の心の叫びにも、親父さんは頑として網の上からねぎまを下ろさなかった。


 だってそうだろ。寸劇の流れをもう一度ご覧になればわかると思うが、開始時点ですでに親父さんはAさんの前にねぎまをお出ししている。

 ということは、練習開始のかなり前に、Aさんは親父さんにねぎまを注文しているとみていいだろう。


 時系列で表すとこうなる。

 【すでに座っているBさん】

→【椅子に座るAさんと俺様】

→【ねぎまを注文するAさん】

→【ねぎまを焼く親父さん】

→『練習いきます! スタート!』

→【清酒を注いでくれる親父さん&乾杯】

→【「ヘイ! お待ち!」と親父さんはAさんの前にねぎまを出す】


 客が来て注文を受けてから、ちょこっと焼いて湯気も立たない生ぬるいねぎまをお客に出す屋台がどこにある?

 いや、場末ばすえの屋台ならあるかもしれないが、そんな屋台は少なくとも、親父さんが演じる屋台ではない。


 たとえば主演様、助演さんは物語の核になる故、時にはアウトローな役も演じる必要があるだろう。

 しかし我らエキストラは、特に指導がなければあくまで善良な一般人を演じなければならない。

 丸めたゴザを脇に抱えたホームレスも、酔っ払いのサラリーマンも、そして屋台の親父さんも……。

 視聴者が心に描く、素朴で純情で、ちょっと間の抜けた、でも愛くるしい人間でなければならないのだ。

 さらに、そういった一般人を知らなければ、当然、演技として表現することができない。


 おそらく親父さんの体には、そういった無垢な一般人の表情から仕草、心構えまでが数え切れないほど刻み込まれているのだろう。

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