初めてのアドリブ

 心の中で吐血しても仕方がない。

 俺様は観客ではなくエキストラとして、この舞台に降り立ったのだ。


 カレーライスでたとえるのなら『カレー』と『ライス』という二大看板でもなく、お肉やジャガイモ、にんじん、タマネギという助演ですらない。

 エキストラとは正に十把一絡じゅっぱひとからげで原材料に表示された『カレー粉』そのものだ。

 カレー粉の中にはターメリックやクミン、シナモン、カイエンペッパーとそれぞれ名前はあるのだが、食する人間からすればどうでもいいこと。


 お忙しい主演俳優様ゆえ、時には別撮りなんてことも昨今あると聞く。

 むしろ、一般参加のエキストラでありながら、主演様と同じ舞台に立てることをほまれとしなければならない。

 オッケー! 最高の『切符を買う中年親父』を演じてみせるぜ。


『練習イキマース!』

『練習!』

『練習ぅ~!』


 眼鏡を外し、風呂敷包みをつかむ俺様。

 これまでより緊張という名の血液が俺様の体内を巡る。

 なぜって? ちょっと考えてみるといい。

 俺様は切符を買う中年親父の役だ。

 自販機すらない一九六〇年代に切符売場の窓口に立ち、無言で切符を買うことができる人間がどれだけいようか?


 そう! 演技をするのであれば、何か台詞を口出さなければならない。

 今までは、ほぼ無言で撮影現場を歩いていた俺様だが……とうとう封印を解く時が来たようだな。


『鼻孔、オールクリアー!』

『声帯ロック解除』

『腹式呼吸、いつでもよし!』

 ”アドリブ”という、役者の技量がもっとも試される領域へ俺様は今! 足を踏み込もうとしている。


『へっへ! どうした? ビビってやがるのか? さっきまで葛藤していたように、ケツを巻くって逃げ出すのなら今のうちだぜ?』

 演劇の悪魔が俺様の耳元でささやく。

 さながらシェイクスピアの戯曲、『ファウスト』で、ファウストを誘惑するメフィストーフェレスか?

 いやいや、そんなご大層なモノではない。単に俺の怠け癖が顔を出しただけだ。


 だがもう迷わない。何も恐れない。

 一般人でも、エキストラという名を授かれば、舞台の上で演目のために踊りつづけるのみ!

 たとえこの命尽きるとも……。いやいやいや、そうなる前にスタッフさんに助けを求めますって。


 効果のスタッフさんが煙を巻く。

 確かに、二百人近くの人間が撮影現場を右往左往するんだ。土埃つちぼこりも半端じゃないだろう。


『用意! スタート!』


 助監督さんの合図と共に、主演様を交えた最初リハが開始される。

 俺様の最初のアドリブには最高の舞台だぜ!


 ホームに見立てたメインスタンド側からぞろぞろとやってくる中学生の一団。

 彼らを率いているのが『秋田職安』、『福島職安』や『みんなしっかり頑張れ! 東京労働局』などの旗を掲げた職安の職員や引率の先生。


 主人公一行は茨城出身の為、『茨城職安』の列の旗の下やってくる。

 赤いコートを着た主演様と、紺色のコートを着た幼なじみ役の人達だが、周りが漆黒の学生服の為、主人公の赤いコートがまるで戦国武将の赤備あかぞなえのように映える。

 確かに、百人以上いる学生の中、主人公として際立たせる為には致し方ないであろう。


 こうして、人口密度が増えた駅構内は、より喧噪が激しくなり、熱気に包まれる。

 そんな俺様は人混みを縫い一路、切符売場の窓口へ向かう。

 いかにも切符を買いに来た中年親父という雰囲気を醸し出すために、売場の上に掲げられた路線図をさりげなく見ながら歩むことも忘れちゃいないぜ!


 窓口にたどり着いた俺様は”よっこいしょ”と窓口の前のカウンター? と呼んでいいのか? 出っ張りに風呂敷包みを置くと右肘を置き窓口に向かってアドリブを口ずさむ。


「冷たい俺の心を熱くするマルガリータを一杯」

ではなく

「マティーニを一つ。俺の心みたいにう~んとドライにしてくれ」

でもない。そもそも俺様は酒は飲まないのだ。 


 どうせなら、そうつぶやけばよかったなぁと思うが、この時の俺様は糞真面目モード。ごく普通に

「名古屋まで。大人一枚で」

と、閉じられた窓口にいるであろう、切符売りのお姉さんに向かって言った後、たもとにに手を突っ込んでお金を出し、切符を受け取る演技をする。


 そもそもカメラは俺様の斜め後ろに、しかも背中を向けている。従って時空が歪まない限り、俺様の迫真の演技やアドリブがカメラのフレームに入ることなぞ決してない。

 そこまでするか? との疑問にさいなまれる。


 しかしそこは撮影現場。ただ本編だけを撮るのではない。

 あらゆる映画でおなじみのメイキング映像を、本編撮影用のカメラとは違う、メイキング用のカメラでこの撮影現場を撮っていたのである。

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