第2話 織恵百合絵という少女
織恵家は明治頃に洋服の流通に尽力し栄えた家で、この街に繁栄をもたらせ
た。この街の歴史は織恵家の歴史。遊園地にあるような城に住み、人々から羨
望を集めている。
織恵家の人間に近付きたいがためなのか、やたらと服屋が多く、住民は人一
倍身だしなみに気を遣っているように見受けられる。下手な恰好をしていると
白い目で見られることもしばしば。この間、電車で知らないおばさんに声をか
けられて服の着こなしがなっていないと怒られた。余所者には少しばかり肩身
が狭い街かもしれない。
そんな、お洒落なお家柄の。洒落にならない金持ちの城にお邪魔することに
なろうとは心にも思わなかった。
「実は織恵家馬鹿なんじゃ……」
屋敷の前には可動式の大きな橋があり、セキュリティのためなのか橋の半分
に差し掛かった所で九十度に上がっていた。近くにあったインターホンを鳴ら
すと使用人らしき男の声がした。医者の紹介で来たことを伝えるギリギリと音
を立てながら橋が降りてきた。
――さて、屋敷に入ってからが長かった。
橋を渡った先には森があり、森を抜けた先にはまた橋があり。その橋を抜け
た先には、崖があり……。
――後半はひたすら何も考えずに歩いた。昇っていた筈の太陽が、沈んだ頃
ようやく本邸に着いた。
正直家に帰りたい気持ちで一杯だったし。来た道を戻るというのは考えたく
もなかった。
「お待ちしておりました」
と執事が洗練されたお辞儀を見せてくれた。
「お嬢様がお待ちです。さぁ、こちらへ」
客間に通されて、依頼人を待つ。
屋敷の中はやはり広く、煌びやかで豪奢の限りを尽くしていた。
広すぎて、どこにいていいのかわからなくなる。
鋭いノックがして、はい、と応えた。
「遅い……どうやったらそんなに遅く到着出来るの?」
依頼人はご立腹だった。
僕も疲れていたので、反論する。
「いや、あの距離を歩いたら」
「え、歩いたの?」
「橋のすぐ側に移動用の列車があったのに気付かなかったの?」
駅があるなぁとは思った。思ったが、それが専用車であるという発想力を持
ち合わせてはいなかった。
「ご苦労様」
少しは憐れんでくれたのか、表情が柔らかくなる。
「私は、織恵百合絵といいます」
少女の肌は白く、艶のある黒髪は日本人特有のものであった。けれど、何故
だか西洋の気配が強かった。部屋のレイアウトのせいなのか、服装のせいなの
か。巧い喩えが見付からないけど、洋服の似合う日本人形という感想を持っ
た。
「貴方はサイガヨシハルで間違いない?」
一瞬反応が遅れ「ああ」と返事をする
織恵百合絵という少女は大人びていた。英才教育の賜物か。喋り方には気品
があって、知性を感じさせる。
「悪いけど、あの医者から簡単に事情は聞かせて貰ったわ。貴方がお金を必要
としていることを」
「なら話は早い。僕には金が必要だ。一体何をすればいい? 血液提供だけで
いいのか?」
「詳しい話とかは訊かないのね」
百合絵が僕に渡してきたのは契約書だった。
業務内容が事細かに記されている。彼女を主とし、満期まで仕える契約。使
用人として雇うというもの。雇い主である彼女に有利なことしか書かれていな
い。有り体に言って隷属契約だ。
主の命令は死んでも遂行しろ、か。ブラック企業も真っ青な内容だ。その代
わり報酬が桁外れだ。年収かと思ったら月額だった。
「血を試飲させて貰ってもいいかしら?」
「へい、どうぞ」
「どちらでもいいから腕を出して頂戴」
僕は、右腕を差し出した。注射器でも使うのだろうかと思えば、そんな上品
な手法ではなかった。右腕を掴まれ、噛み付き血を飲み始めた。
痛、いたたたたた、結構痛いな。何の遠慮もない。
しかし、獣のようにしばし我を忘れたかのように血を啜るその姿は蠱惑的な
ものだった。
満足したのか、彼女が離れる。噛まれた傷は間もなく消えていた。
「少し変わった血の味だけど……まぁ問題はないわね」
とても嫌な予感がする。彼女の次の句が出る前に鳥肌が立った。面倒ごとに
首を突っ込んでしまった感触があった。
百合絵は目を爛々と輝かせていた。血の味に満足して貰えたのなら、それに
越した事はないのだが。
この女は、僕のよく知る人物にどこか似ていた。人の言うことをまるで聞か
ず、我が儘で、そして簡単に無理難題を言う。
「さて、ヨシハル。私はヘマトフィリアではない。何らかの原因で吸血鬼にな
っている。あなたには私を人間に戻す方法を見つけ出して貰うわ!」
とびきりの無理難題だ。
断る、と言ってやりたかったが。
「はい、喜んで」
即答と以て応じた。どんな苦難もお金には換えられない。元より選択肢はな
いのだ。僕には金が必要で、彼女の元で働けば暫くお金には困らない。
「ただし一つ無理な相談をしても?」
「私に出来る範囲なら、ね」
「報酬の先払いは出来ますか?」
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