崩れる季節

「サトっち、今日もおやすみなんだね」

 2時限目の始業チャイムから1分後。真後ろの席のアイナのぽそっとしたつぶやきに振り返る。

 現国のマサキティーチャーはまだ来ていない。

 だよね……、とアイナの右隣のホノカがぽそっとつぶやく。ヤバいよね、と同じく左隣のナナミが言い、私の左隣のユイカが、三日目になりますね、と深刻そうな小声でつぶやいた。

 私の右隣のカガワサトコが休んでいる。

 ユイカの言った通り今日で三日目。仮入部中の部活の欠席も入れたら四日目。高校入学してたった二十日ほど。ゴールデンウィーク前にセッティングされたテストは明後日だっていうのに。

 四人の視線がこっちに向けられる。私はやや大きく首を横に振って見せる。

 私はサトコと幼稚園からずっといっしょで家もそこそこ近い。仲もまあまあいい。でも、家の人とざっくばらんに話せるほどではない。

 スマホからあらゆる手段でサトコに連絡入れているけれども返信なし。原因不明。なので家に迎えに行ったら「ちょっと体調を崩しててね」とサトコのお母さんにやんわりと追い返された。

 サトコは小学校の頃からずっと長距離やっていて、細いくせに不屈でクール。ちょっと体調を崩しただけで、三日も休むようなタマじゃあない。

 今、目の前にいる四人とはここ二十日くらいの短い付き合いだけれども、たぶん、この子らにもそんなサトコの気質は伝わっているはずだ。

 だからこそ今、この空気なのだろう。

 重い。

 きっと不安なのだ。私も不安だ。

 新生活が始まったばかりなのにもう脱落なのか? なにがあった? ちょっと早めの五月病? もしくは私らがなにかしてしまった可能性は?

「そういえば今、ヘンな病気が流行っているらしいよ」

 ナナミが言った。

「ヘンな病気? サトっちがかかっていそうなって話?」

 アイナが怪訝そうに首を傾げたのを見、いや、サトっち関係あるかはわかんないけど……、と、少々前のめりになる。

「メンヘラの一種なのかもだけど、時間の流れがわかんなくなるみたいな」

「朝だと思って起きたら夜中で、それも寝た時から丸一日経っていたというような話でしょうか」

 いつも通りの堅めかつ深刻そうな口調でとぼけたことをユイカが言う。けれども先週末の彼女の実話だと知っている私らは特にウケもシラケもせず、どうなの? そんな感じ? とナナミを見る。

「それよりはもうちょっとヤバい……のかな」

 冷静に考えたらユイカの話もまあまあヤバい。

 ただ、ナナミのいう「ヘンな病気」というのは実際それよりももうちょっとヤバかった。

「今がいつなのかわからなくなるらしいんだよね。理解はできてもって」

 うん? 理解すなわち認識ではないのかと、私はそう思ったが、

「つまり、実感が湧かないとか、そんな感じ?」

 と、ホノカはすんなりとそう言った。

「たとえば今が春だって頭ではわかっているけど、全然春だと思えないみたいな?」

「え、それって地味にヤバくない?」

 うちのひいおばあちゃんが亡くなるちょっと前くらいから季節の区別がつかなくなっていたのだけど、あれはそもそも理解ができていなかったような感じだった。

 頭ははっきりしているのに、わかっているのに、認識できない?

「うん、ヤバいから病気なんじゃない?」

 ホノカはおっとりと頷き、ちがう? とナナミを見る。

「たぶんそう」

 ナナミ曰く、よその県で看護師をしているという従姉に会った時に「そういえば、あんたのまわりにこんな感じになっている子っていない?」と訊かれた、と。

 今がいつかわかってから、自分の認識している“今”とのズレに、だんだんおかしくなっていく――そんな人らが春先からちらほらナナミの従姉さんの勤める病院に来るようになったらしい。

 老若男女は関係ないそうで、特に若い人でそうなっているのを見るのがつらい、と、最初の頃はそう思っていたらしい。最初の頃は。

「だんだん怖くなってきたらしいんだよね」

 自分と変わらないくらい、ともすれば自分より若い、それこそ私らくらいの年の奴がそうなっているのを数見るうちに「いつか自分もそうなるのではないか」、そう思うようになるのは無理もない気がした。

 ――サトコも、やっぱり、ひょっとして、そのヘンな病気なのだろうか。

「従姉のおねえさん、それ、うつるって?」

 同じことを思ったのか、アイナが言う。

「わかんないって。でも、たぶん、メンヘラの一種だろうから風邪みたいな感じではうつりはしないけど、ただね、集団ヒステリーってやつになる可能性があって、それがヤバいかもって」

「集団ヒステリー?」

「精神的な集団感染みたいなやつみたい」

 私のつぶやきにナナミが応える。

 神妙な顔だったり曖昧な言い方だったりなのは、ナナミ自身よくわからないのだろう。従姉のおねえちゃんが言っていたのは――、と、ちょっと頼りない口調で前置きをして続ける。

「――誰かが気分が悪いって言い出して、そこでたとえば『何かノドが詰まるようなイヤな臭いがしているし』なんて言いながら、どんどん顔色を悪くしていったとする」

 言いながらナナミがくるりと私らを見まわし、私らもそれぞれ顔を見合わせる。

 とりあえず、みんな元気そうで何よりだ。

「それで?」

「それで、『大丈夫? 保健室行こうか?』で保健室に運んで終わればまあいいんだけど、別の誰かが『確かにさっきからイヤな臭いしているよね』って言い出して、見る見るうちに同じように顔色が悪くなっていって、また別の誰かが同じことを言い出して調子悪くなって……、というのをくりかえして、最終的にその場にいる全員がグロッキーになる」

「それが集団ヒステリー……?」

「うん、らしい。けど、しいて言うならば、それで原因不明なのが集団ヒステリー。このたとえの場合だと、あとから調べても『ノドが詰まるようなイヤな臭い』なんて、その痕跡すら出てこなかった、とか」

「まあ、フツーに原因があったり集団感染だったりしたら、そんなに悩まないよね」

 アイナが頷き、そっかー、そういう意味ではうつるかもしれないのか……、と天井を仰ぐ。

 私はどうも集団ヒステリーというのが呑み込めず、何も言えなくなって、黙り込む。

 もらいゲロに似たようなものということでいいのだろうか。でも、それはもらいゲロであって集団ヒステリーではない気がする。拡散する胃酸の臭いはキツい。私はもらわない自信がない。というか小学生の頃はよくもらっていた。

 じゃあ、もらい泣きが近いのか? 訳もなく泣いている人を見て、意味もなくもらい泣き……、なんて、それってどんだけ繊細なんだ。訳がわかれば泣くかもしれないし、卒業式のまっただなかで、たまたま自分も泣く寸前だったというなら話は別だけれども。

 私が集団ヒステリーというのにかかることはあるのだろうか。

 そして、ナナミのいう「ヘンな病気」というのも。

 よくよく考えてみたら、病院に駆け込む人はいったいなにを悩んでいるのだろう。

 今日は4月何日何曜日?

 すぐには思い出せないし、実はもう5月だと言われても、私はそんなに悩まない気がする。

「――今がいつかわからないというのは、本質ではないのかもしれませんね」

 いつの間にか下に落ちていた視線を持ち上げ、ユイカを見る。

「少々考えてみたのですが、生きていく上で支障がない気がするのです。というか、私は既に見失っています」

「え? 今の季節がわからないとか?」

 ホノカが驚いたように言い、そうですね、とユイカはなんてことないような顔をして首を縦に動かした。

「私自身の暦で動いている状態ですので、正確には『今がいつかわからない』というのとは違うかもしれません。ですが、明後日テストがあることや、部活の正式入部がいつなのか、今日が学校なのか休みの日なのか、それさえわかっていれば、春夏秋冬だったり、今日が何月何日何曜日かだったり、そういうのはどうでもいい気がしています。

 今は、と、やや強調された部分をなぞるようにつぶやく。それに応えるように、今は、とユイカは頷いた。

「勉強に追われて、部活の練習に追われて、しかし、それでも毎日楽しくて、明日に追われることが気にならないので、おそらく病まないのでしょう。そして、そういう人は決して少なくないのではないかと私は思います」

 今日は何月何日何曜日?

 そんなのわかってもわからなくても人はだいたい生きていける。

「今がいつか、それを到底許容できる状態にない、それがナナミさんがおっしゃる『病気』の本質のような気がします」

 そう言ったあと、見失ってもいいのですよ、とユイカは微笑んだ。

「無粋かもしれませんが、たとえば苺大福を見て春かと思い、吹奏楽コンクールの県大会で夏の終わりを感じ、芋栗南瓜で秋の到来を知り、アンサンブルコンテストで冬を体感する。定期考査も歳時記の一部と考えれば悪くはないです。今の私は今がいつかわかってもわからなくても構わない。それは幸せということなのでしょう」

 私は吹奏楽部じゃあないから夏と冬の話はピンとこないけど、でも、今日が何月何日だろうとあんまりショックなんて受けそうにないあたりは、ユイカと同じく、幸せなのだろう。

 ナナミも、ホノカも、アイナもまあまあ笑顔な辺り、たぶん、同じなのだ。

 そして、サトコも、そうであってほしい。

 この三日間、そんな「ヘンな病気」なんて関係なく、たまたま休みなだけ。

 きっと、そう。


 かくして翌日、サトコは登校してきた。

 なにごともなく、というわけではなくやや沈んだ感じだったので「風邪?」と訊くと「うん、少々嘔吐下痢をね」と、いつものクールさでさらりと言った。

 これならば大丈夫だろう、と、そう思った通り、それから淡々と私らの日々は過ぎていった。


 季節は巡り、廻る。

 ただ、あの日結局授業にこなかった現国のマサキティーチャーは、それから一度も学校に出てくることなく、夏休みの前に辞めてしまった。

 それと、サトコが三日間休んだあのあとからサトコのお母さんを近所で見かけなくなり、その代わりおばあちゃんらしき人が家にいるようになった気がするけど、私はサトコに訊けずにいる。

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