第3話 NEIGHBOR


 まったく、信じられないよ。

 午後6時半の新宿駅西口だぞ。改札を出たところの花屋の店先を覗いて、ふと隣を見たらそこにお前が立ってたんだ。あのときあの場所にいったい何人いたんだよ。こんな偶然、あるもんなのか。

 あれから何年経った? いいよ。料理なんて待ってられない。とにかく乾杯しよう。あの街から遠く離れた場所での再会に……いや、おれは大学を出てから一度も戻ってない。本物の豚骨ラーメンから遠ざかって久しいよ。いまじゃあの頃みたいに無茶な替え玉なんてできないな。血圧とも血糖値とも仲良くやっていかなきゃいけない年頃さ。お前もきっと、同じだろう?

 え? なぜ花屋の店先にいたかって? 昨日まで郡山に出張だったんだ。ゆうべビジネスホテルでシャワーを浴びてるときにその日が結婚記念日だってことを思いだしたんだよ。身体を拭いてスマホを確認したら、女房からはなんの音沙汰もなかった。気づいてないはずないのにな。七年目だよ。結婚なんてそんなものかもしれないな。既読スルーですらない。お互い、なにも云わないんだ。

 さっき、ふっとそのことを思いだしてな。花でも買って帰ろうと思ったんだ。信じられるか? 夕方の埼京線に、花束を抱えて乗ろうとしたんだぞ、おれは。お前と会わなきゃそうしてたろうさ。まったく、どうかしてるよ。

 おまえはどうしてた。なんの仕事をやってるんだ……へぇ、カタカナだらけでずいぶん洒落た職業じゃないか。いや、むかしからお前は洒落てたよ。入学後のオリエンテーションに、びしっと決めたオーダーメイドのジャケットで現れるようなやつだった。はじめておまえの隣に座ったとき、おれが話しかけたことばを覚えてるか? 「その腕時計いくらするの?」だぞ。そりゃ卑屈にもなるさ……ああ、いまだから云えるよ。おれはお前に憧れてたんだ。あの頃はシャツでもペンケースでも、なんでもお前の持ってるものを真似してたっけ。

 お前にも帰りを待ってる家族がいるんだな。そんなに長居もできないだろう。

 なぁ、どこかでお前に会ったら絶対に話そうとこころに決めてたことがあるんだ。料理が尽きるまで、昔話につきあってくれるか?



 あの頃、お前が住んでた家を覚えてるか? 風俗街のど真ん中の薬屋の二階。まったくどこであんな物件を見つけてきたのやら。

 あの近くに、橋があったろう。地元の口さがない連中は×××橋って呼んでたっけ。橋の下を汚れた水が、居眠りでもしてるみたいにとろとろと流れてた。あの川の本当の色をおれは知らないんだ。だってお前のところに遊びに行くのはいつも夜だったし、その頃にはあの川を色とりどりのネオンが染め上げていたからな。

 あれは、大学三年の秋の終わりだった。おまえと絶交するほんの少し前だ。ずいぶんと肌寒い夜で、ピーコートのボタンをいちばん上まで止めていたのをはっきりと覚えている。おれはいまにも死にそうな顔で、橋の下を見下ろしていた。両手でつかんだ欄干が指に吸いつきそうに冷たかったっけ。

 あぁ? いや、違うよ。お前の考えているようなことじゃない。身投げするんだったらもっと高い場所を選んださ。あの橋から飛び下りたって足を折るくらいで済む。そこまで馬鹿じゃない。

 欄干をにぎりしめたまま、どれくらい悩んでいたのかわからない。

 やがておれは背中に背負ったグレゴリーのバックパックを降ろして、両手に抱えた。覚えてるか、あの頃おれは毎日あのバックパックを背負っていたろう?

 三歩くらい下がって、助走をつけてふりかぶって、おれは川に向かってバッグを投げ捨てようとした。

 そのときだ。

「ぷる~~~~は~~~~!」

 SHAKEのイントロみたいな世にも奇妙な叫びが聞こえた。若い女の声だった。

 振りかえる間もなく、声の主がおれに襲いかかってきた。手も足もハリガネみたいに細い女の子だった。年頃はその頃のおれと同じくらいだ。真っ黒な眼帯が右目を覆っていた。

 見てとれたのはそれくらいだ。あっ、とか、わっ、とか叫ぶヒマもなかった。おれはダンスを踊るみたいに女の子と縺れあい、バランスを崩してあっさりと欄干を乗り越えた。頭っから真っ逆さまさ。川のなかに飛び込むまでの時間が妙に長く感じたよ。

 すぐそばに住んでたお前だって、あの川の水の味は知らないだろう。とてもお薦めできるようなもんじゃなかった。

 激しく咳き込みながら、おれは立ち上がった。両足がつくくらいの水位だったんだ。本格的な冬になっていたらもっと水かさが少なくて両足を複雑骨折くらいはしてだだろう。思い返してもぞっとする。

 ショックで喉がつまって、おれは両膝に手をついて背中を丸めてぜいぜいと喘いだ。やっとの思いで顔をあげると、前の前にずぶ濡れになった女の子が立っていた。雨なんか降っていないのに緑色のレインコートを着て、髪の色はいまどきめずらしい黒色で、切りそろえた前髪の下に覗く顔は寒気がするくらい美しかった。女の子は濡れた顔を拭おうともせず、おれに喰ってかかった。

「まったく、なにを考えているのですか!」

 おれは唖然とした。そのセリフはおれが云いたいセリフそのまんまだったからだ。

「光ディスクは衝撃に弱いんです。落下、割れ、変形、あらゆる事態が致命傷になりかねません。それを投げ捨てるとは。なんたる……なんたる」

 女の子がおれにむけた人差し指は怒りに震えていた。

「あ、悪魔! 外道! あなたには人のこころがないのですか!」

「ちょっと待ってくれ……一から十まで意味がわかんねぇ」

 やっとのことでおれは口を開いた。

「光ディスク? なんのことだよ? おれのバッグをおれが捨てるのは勝手だろ」

「出た。現代人の闇」

 陶磁でできたような美しい顔が、恐怖に歪む。

「なんたるこころの荒廃。なんたる他者への共感の欠如。なげかわしいですよ、ノノムラリュウイチ」

 え?

 ああ、そうだよ、その女の子はおれをその名前で呼んだんだ。ずいぶんと話が面白くなってきただろう?

 つづけるぜ。

「いったいあんた、誰なんだよ」

 おれは云った。

「どうしてこんな危ないマネをするんだ」

 そう口にしたとたん、女の子の表情が一変した。きらんと目を輝かせ、なんだかわからん決めポーズを取った。

「ふふふ、知りたいですか」

 女の子は不気味な声で笑いながらそう云った。

「わたしは蔦谷ツタ子と申します。人はわたしを“TSUTAYA最後の娘”と呼びます。カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社より特命を帯びて馳せ参じました。善哉ぜんざい善哉ぜんざい、以後、お見知りおきを」

 髪の毛の先からだらだら水滴をこぼしながら、得意満面でツタ子はそう云い、それからぶるっと身体を震わせて、くちゃん、と小さくくしゃみをした。



 蔦谷ツタ子と名乗る女の子の話はこうだった。

 レンタルストアのTSUTAYAはその頃、店舗の閉店が相次いでいた。サブスクリプションの勃興期だったからな。そういう時代の流れだったんだろう。当然、レンタルDVDの流れは滞る。ツタ子はTSUTAYAの店舗の代わりに、借りっぱなしになっているDVDの回収に来たと云うんだ。そこまではまだ理解できるだろう?

 ところがだ。

「いま、なんて云った?」

 おれとツタ子はまだ川の真ん中で立ち話をしていた。

「ですから、あなたに義務を果たしていただきたいのです」

「義務」

「今夜、あなたが持っているDVDを必要とする人が現れたのです。あなたはその人の元にDVDを届けねばなりません。欲しい映画を欲しい人に。それこそTSUTAYAの理念。理念を実現できるかどうかは、今夜のあなたにかかっているのです」

「そのDVDがおれのバッグに入ってると?」

「はい」

「それをおれに運べと?」

「はい」

「でも、TSUTAYAの理念とおれはなんの関係もないしなぁ」

「やっぱりあなたは悪魔です。そういうこと云う」

「だってさぁ」

 ツタ子は歯ぎしりしながら地団駄を踏んだ。ばしゃばしゃと飛沫があがる。

「もー、なんで云うことをきいてくれないのです。もー」

「そんなこと云われてもなぁ」

 そこで、あ、と声が出た。

「というか、バッグは?」

 投げ捨てるはずがおれ自身ごと落下してしまったグレゴリーのバックパックは、いつの間にかなくなっていた。

「ああ、それならあっちです」

 ツタ子は雑作もなく、川岸の方を指さす。意味がわからなかった。ツタ子の指さす方角には屋台が一軒出ていてぼんやりと明るかったけれど、その灯りは川面まで照らしちゃいなかった。早い話、まわりはなにも見えなかったんだ。

 おれたちは並んで川岸をめざした。泳げるほどの水位でも水温でもない。当然、川の水を蹴りながら歩いた。

「バッグを回収したら、ちゃんと中身を届けると約束してくれますか?」

「そんな約束、しねーよ」

「見下げ果てた男ですね、ノノムラリュウイチ」

「まったくだ。ノノムラリュウイチは最低だよ」

 おれは笑いだしてしまう。ツタ子は妖怪でも見るような目でおれを見つめていたが、どう考えても妖怪はそっちだ。

 そのうち、岸の様子が見えてきた。

 護岸工事もしていないむきだしの河原はススキに覆われていた。粗末な階段を国道にあがったところには一軒のラーメン屋台があって、提灯の明かりが斜面を照らしている。川の縁っぺり、ほとんどススキに頭まで覆われるようにして、小さな女の子が立っているのが見えた。

 女の子の顔に浮かんだ警戒心はMAX値を叩きだしていた。ぎゅっと口を引き結んで、いぶかしげにこちらを見つめている。海水浴のシーズンをとっくに過ぎて、水遊びしている男と女。たしかにおれとツタ子はどこからどう見ても怪しかった。

「こここここんばんは」

 ツタ子が云った。見ると、顔にはひきつった微笑が貼りついている。どうやら子供のあしらいは上手くないらしかった。

「よ、良い夜ですね、いやぁもう、ほんとに。よろしかったらそのバッグをこの人に返していただけませんか?」

 みるとその女の子は、胸元におれのグレゴリーのバックパックをぎゅっと抱きしめていた。

「やだ」

 女の子はにべもなくそう云った。ツタ子が情けない顔をする。女の子は五歳か、六歳くらいだろうか。夜にひとりで出歩いていい年頃には見えない。

「お前、親はどうしたんだよ」

 おれが訊ねると、女の子は岸の上のラーメン屋台を指さす。

「こんなところで何をやってるんだ」

「ニャーちゃんを捜してたの」

 女の子はたどたどしい声でそう云う。

「さっきまで遊んでたけど、ニャーちゃんいなくなっちゃったの」

「ニャーちゃん? お前の飼い猫か?」

 女の子はうなずく。

「ニャーちゃんを探してくれたら、これあげる」

 女の子は胸に抱えたバッグを揺さぶる。おれはにやにや笑いながら、横にいるツタ子を見つめた。

「だってさ。どうする?」

「探しましょう」

 鼻息を荒くしながら、ツタ子はレインコートの袖をめくる。

「どうやらそれ以外にバッグを返してもらえる方法はなさそうです。時間もないので、なるはやで」

 そんなわけで、おれたち三人は河原でネコを探しだした。ニャーちゃん、ニャーちゃんと口々に呼びながら。まったく奇妙な時間だったよ。いま思いだしても笑えてくる。

 しばらく経って、河原でうずくまっていたツタ子が急に叫び声をあげた。

「ぷる~~~~は~~~~!」

 見ると、ツタ子が二メートルくらい空中を跳躍して、うしろに跳び退ったところだった。そのままバランスを崩して、背面から川にダイブする。おれはあわててツタ子に駆け寄った。

「なにやってんだよ、お前」

「な、な、なんですかあれは!」

 ふたたび水浸しになりながら、ツタ子は大きく口を開けて叫ぶ。

「なにやら奇妙な生き物が。ふわふわでもこもこのけしからん生物が!」

 ツタ子が指さす方を見ると、ススキの根元にちいさなキジネコがうずくまって顔を洗っている。女の子がニャーちゃん!と叫んでネコに駆け寄り、抱き上げる。

「どうやら解決したみたいだぜ」

「あ、あれがネコ。信じがたい。許しがたい」

 ツタ子は興奮に目を潤ませて、ぶるぶる震えている。どうやら生まれてはじめてネコを見たらしい。

 おれは目線を河原の階段に移した。がたいのいいエプロン姿の兄さんが、ゆっくりとこちらに降りてくるところだった。お父さん、と云って女の子がネコを抱えたままお兄さんに駆け寄る。

「あんたら、うちの娘と遊んでくれとったとね?」

「ニャーを探してくれたんだよ!」

 女の子は嬉しそうに父親を見上げる。父親は笑いながら、かたわらの娘の頭を撫でた。

「それやったら、なんかお礼ばせんといかんね。うちで一杯、喰うていきやい」

 そう云うと、父親は返事も聞かずに屋台に戻っていく。おれはまたツタ子の顔色をうかがった。

「どうする?」

「なんだかわかりませんが、ご馳走になっていきましょう。時間もないので、なるはやで」

 河原で濡れた服を絞ると、おれたちは女の子が置き捨てにしていったバッグを回収した。そのまま国道に上がって、屋台のベンチに腰かける。店は繁盛しているらしく、それで満席だった。ツタ子と隣り合って座ると、触れた腰から温かな体温が伝わってきて、どきっとした。

 あらためてツタ子の横顔をまじまじと見つめる。無造作な髪と眉をなんとかすれば、モデルだってやっていけそうな美形だ。

「お前、いつもこんな無茶やってんのか」

「他にやることもありませんので」

「たかがDVD一枚のためにここまで身を張る必要、あるのかよ」

「ありますよ」

 ツタ子は微笑む。それがまた、こころまでとろけてしまいそうな素敵な微笑なんだ。

「映画とはとても良いもの、らしいです。わたしは観たことがないのでわかりませんが、それで救われる人もいるのです」

「映画で? 救われる?」

 思わず馬鹿にしたように笑ってしまう。荒んだおれには、そんなのただの戯れ事だと思った。

 ムッとした顔をしたツタ子が口をひらいたそのとき。

「へい、お待ち」

 ラーメンがきた。

 ツタ子が絶句した。どんぶりから立ち上がる湯気に目をぱちぱちさせる。

「なんですか、これ」

「なにって、ただのラーメンだろ」

 おれはさっそく割り箸を割って、麺をすする。

「うん、美味い。オーソドックスな豚骨だな。お前も食べてみろよ」

 ツタ子はおれの真似をして割り箸を手に取り、不器用に割ると、おそるおそる麺をすすった。

 とたんに額をハンマーでぶち抜かれたように、ツタ子は海老ぞりに仰け反った。

「えっ、なにっ、神の食物ですか、なにこれ、なにこれ、バリうま。」

 ツタ子は両目を見開いて震えている。瞳孔がひらいていた。おれは呆れた。

「お前、この街に住んでて、ラーメン食べたことなかったのか?」

「ないです。バリうま。えっ、食べていいんですか、これ」

「誰も取らねぇよ」

 ツタ子は、ずぞぞ、と大きな音を立てて麺をすすり、その度に天を仰いだり、万歳をしたり、そりゃあもう大騒ぎだった。

 父親が屋台のなかで、照れたような苦笑いを浮かべている。

「姉ちゃん、いい食いっぷりだねぇ」

 ツタ子の隣に座ったスーツ姿の男が、にこにこと笑いながらおれに話しかけてきた。

 ふいにその笑顔が凍る。眼光が鋭くなった。スキンヘッドの男の顔が、急に恵比寿から仁王に様変わりした。

「おかげでおれのスーツに汁が飛んじまったんだけどなぁ。どうしてくれんのかなぁ」

 さあっと空気が変わった。自分の頬が強ばるのがわかった。ツタ子だけはマイペースにスープをすすっている。店長の顔が、人好きのする父親の顔から、修羅場を乗り越えてきた男の顔に変わった。

「近藤さん、この子ら、娘の友達やけん」

「なにもしねぇよ。お話をしたいだけだ。なぁ、兄ちゃん、こっちおいで」

 スキンヘッドの男と、隣に座っていた若い衆が同時に立ち上がる。近藤さんと呼ばれた男はおれに向けて顎をクイッとさせると、店から遠ざかっていく。

 二人が背中をむけた瞬間、おれは慌ててツタ子の肩に手をかけた。

「おい、ヤバイって」

「まだスープが残っています」

 ツタ子は丼に齧りついたまま平然としている。

「それどころじゃない。逃げるぞ」

「なぜですか。お話をするだけでしょう」

「そんなモンで済むわけないだろ。バイトの給料日前でおれは二千円しか持ってねぇ。逃げるしかないだろ」

 ツタ子がテーブルに丼を置いた。

 ふわぁ、と満足げな吐息を漏らす。

「ありがとうございます。とっても美味しかった」

 ツタ子はそう云って微笑んだ。店主はとまどったように、ただ頷いた。

 ツタ子は立ち上がった。テーブルに手もつかない美しい動作だった。しなやかに身をひるがえし、男たちの後を追う。

 空席のランプをつけたタクシーが車道に列をつくっていた。歩道は明るくてどこにも逃げ場がない。ちょっと離れた神社の石段に、近藤とそのツレが座りこんでいた。火のついたタバコを口にくわえたまま、こっちを見てにやにや笑っている。

「お待たせしました」

 涼やかな声でツタ子が云った。

「お話とはなんでしょうか。先を急いでいますので、なるはやで済ませていただけるとありがたいです」

 若い男の方が、下品な笑い声を立てた。

「兄貴、こいつら何もわかっちゃいませんぜ」

「簀巻きにして川に放り込むたぁ云わねぇよ」

 近藤は、やたらと大物ぶった喋り方でそう云った。

「ちょっとばかり、誠意を見せてくれればナ」

 投げ捨てたタバコをエナメル靴の底で踏みにじると、近藤はゆっくりとツタ子に近づいた。舐めるような視線で遠慮無く上から下までツタ子を見つめる。

 すうっと手を伸ばし、ツタ子の尻を触ろうとする。

 ツタ子の右手が電撃のような疾さで動いた。近藤の手を逆手にねじり上げると、身体をその下に差しいれる。

 近藤のエナメル靴の爪先が、虚空に綺麗な放物線を描いた。

 地響きを立てて、近藤の身体が地面に転がる。見事な一本背負いだった。

 ツタ子は緊張を解かない。身構えると、そのまま近藤の喉元めがけて指先を揃えた手刀を叩きこんだ。

 きゅう、と声をあげて近藤は気絶した。ツタ子はその胸元をやさしくぽんぽんと叩く。

「はい。寝んね」

「顔上げろ。前!」

 おれは叫んでいた。

 階段を駆け下りてきた近藤のツレが、猛然とツタ子に襲いかかろうとしていた。

 ツタ子が顔をあげると、男は急ブレーキをかけて足を止める。

 舌打ちすると、男は急におれの方にむかって駆け寄ってきた。

 おれは咄嗟に、腹をかばおうとした。刺されると思ったんだ。でも、そうじゃなかった。男はおれが片手にぶら下げていたバックパックを奪うと、そのまま反対側の方角へ猛然と逃げていった。

「おい!」

 男の背中に向けて叫んだけれど、足を止めるわけがない。ふいにうしろから背中をどやされた。

「ぼんやりしないで。追いかけますよ」

「はぁ?」

 それ以上はなにも云えなかった。ツタ子がふいにおれの手をとって走り出したからだ。

 たちまちネオンの明かりが水みたいに視界の外へ流れ出した。おれはなんどもつんのめって転びそうになった。ツタ子の足がおそろしく速かったからだ。まるで肉食獣が獲物めがけて疾走するみたいに、前傾姿勢になっている。

「ちょ、ちょっと待って。ストップ!」

 おれは大声で叫んだ。それでもツタ子は走りつづけようとする。繋いだ腕をぐいぐい引っ張ってやっとその足が止まった。

「なんです? もう少しで追いつきますよ」

「いま気がついた」

 おれは叫んだ。

「おれは信じられないくらい馬鹿馬鹿しいことに巻き込まれてる!……もういいよ」

「なにがいいんですか」

「無理してあのチンピラを追いかけなくったっていい。追いついたってトラブルが増えるだけだ。あんなバッグ戻ってこなくたっていい。どうせ中にはろくでもないものしか入ってないんだ」

「あのバッグのなかには……」

「TSUTAYAのDVDが入ってるんだろ。わかったよ。おれの責任だ。あとで弁償でもなんでもするよ。二、三日でいい、バイト代が入るまで待ってくれ」

「いいですか」

 ツタ子がおれの両肩に手を掛けてきた。瞳を覗き込んでくる顔は真剣そのものだ。

「今夜です。今夜でなければ意味がないんです。誰かがいますぐあの映画を必要としている。いますぐに――」

「そんなもんがなんだって云うんだよ! くだらねぇ。たかが映画じゃないか」

 派手な音を立てて、おれの頬が鳴った。

 なにが起こったのかわからなかった。手袋をはめた右手を振り抜いたツタ子の姿を見て、頬をはたかれたのだとわかった。痛みを感じるより先に、悲しそうなツタ子の顔が目に焼きついた。

「わたしにはわかるのです」

 ツタ子は云った。

「あの映画を待っている人がいる。きっとその人は道の真ん中で叫んでいるわけじゃありません。泣いてすらいないかもしれない。いつもみたいに平然と夜を過ごしているように見えるかもしれない。でもこころのなかでは思っている。耐えきれないと。たった一つの真っ黒な考えに支配されて。たった一つの道を歩かされて。誰かが自分を驚かせてくれないかと思っている。ありもしない場所に連れて行って、ありもしない景色を見せてくれないかと。自分では考えもしなかったびっくりするような生き様を見せてくれないかと。たった一枚の円盤と、たった二時間の時間。それだけで……人は救われるんです」

 おれは何も云えなかった。

 ツタ子の語った、映画を待っている人の姿が、おれ自身に重なったんだ。

 おれも待っていたんだ。ついさっきまで。自分をびっくりさせてくれる何かを。

 何を云っていいかわからなかった。ただ、ツタ子に話しかけたかった。

 おれを見つめているツタ子の方に、おれは震える腕を伸ばして――。

 その腕をツタ子が握り、逆手にひねりあげた。

「痛ぇっ!!」

 おれは思わず叫んだ。耐えきれない激痛だった。狂ったみたいに身悶えしたが、ツタ子のロックは外れなかった。

「子供の駄々につきあっている時間はないのですよ」

 ツタ子が耳元で囁いた。

 そのままおれの脇腹に掌底をかます。全身の力が抜けたおれを、ツタ子は小荷物みたいにワキに抱えた。

 そして。

 跳んだ。

 斜めに傾いだ視界が急にブレて、最初はなにが起きたのかわからなかった。地面が急に遠ざかる。タクシーの屋根を見下ろしている。そう思った次の瞬間には空を見上げていた。あわてて首を動かすと、おれを抱えたままツタ子は街灯にぶら下がっていた。蜘蛛みたいに。

 眼下の車列から悲鳴みたいにクラクションが放たれていた。きっとおれたちの姿に気がついたんだ。そう思ったときにはツタ子がまた跳躍した。ブランコみたいに身体を揺らして、街灯から街灯へと飛び移っている。おれの胃袋はでんぐり返っていまにも吐きそうだった。降ろしてくれ。そう云おうにも声がでない。

 ツタ子は息ひとつ乱していない。いったいどんな身体能力を宿しているのか。そもそもこいつが人間なのかももうわからない。おれはもうすっかり酔ってしまって、喘ぎながら揺らぐ景色を見つめているしかなかった。

 視界になにか違和感のあるものが過ぎった。

 こちらに背を向けて必死で走っている男。さっきのチンピラだ。そう思ったときにはツタ子は街灯から手を離していた。おれは女の子みたいな甲高い声で悲鳴を挙げた。おれとツタ子の身体はもつれあって落下し、そのままチンピラの背中に斜めに着地した。

 肉がぶつかる鈍い音。

 おれは地面に投げ出されて、砂にこすれて唇を切った。でもそれ以外には打撲ひとつない。

 のろのろとおれは頭を上げた。

 真っ先に目に入ってきたのは地面に倒れて伸びているチンピラ。その背中をブーツで踏んだまま、ツタ子は振り返って微笑んでみせた。

「取り戻しましたよ。さぁ、急ぎましょう。なるはやで」

 ツタ子の片手には、あのバックパックが握られていた。

 覚えているのはそこまでだ。おれはそこで気絶しちまったんだ。



 その家はなだらかな坂の途中にあった。

 坂をのぼりきったところはちょっとした森になってる。静かで良い住宅街だった。空気まで美味い気がした。目的地はまるで教会みたいな三階立て尖塔つきの豪邸で、自分もいつか就職して出世したらこんな洒落た家に住みたいなと思ったよ。まぁ、いまとなっては虚しい夢だけどな。

「ここに居るのか。お前が云ってた、どうしても今夜映画を必要とする人間が」

「そうです」

「何不自由ない暮らしをしてるようにしか見えないけどな」

「わたしには、分かるのです。あ……DVDを出しておかないと」

 ツタ子はそう云って、バッグの中を漁り始めた。

「お前なぁ……そうやって他人のバッグを」

「他人じゃないでしょう。あなたのバッグです」

「違うよ」

 おれは云った。

「それはノノムラリュウイチのバッグだ」

 そうだったんだよ。

 なぁ、云ったろう。おれはお前に憧れてたって。身につけてるものだって、なんでも真似たってさ。

 その日の昼間、おれはお前と学食で一緒になったんだ。何を食べたか、何を話したか、もうみんな忘れちまった。ただ、そのときうっかりバッグを入れ替えちまったんだな。お前を真似て同じグレゴリーのバックパックを買ったから、間違えても無理はないんだ。気がついたのは下宿に返ってからだったよ。

 なぁ、笑えるだろう? ツタ子が探していたのは、お前だったんだよ。おれはそもそも、この話とはまったく関係がなかったんだ。

「中に何か入っていますよ」

 バッグを漁りながら、ツタ子がそう云った。

「これは……写真?」

「捨てていいよ、それ。空にでも、バラ撒いてくれ」

 ツタ子はきょとんとした顔でおれを見た。それから素直に、写真の束を空に放り投げた。

 ひらひらと、空の上からおれの恋人の笑顔が振ってきた。

 恋人だと思ってた、と云うべきかな。

 あの子の、あんな素敵な笑顔、おれは見たことがなかったから。遊園地と温泉で撮った写真だった。彼女はとても幸せそうだった。写真には日付が入ってた。彼女が風邪を引いて寝込んでるはずだった日だ。移すといけないからおれに見舞いにくるなと云った、その日だった。

 お前が、用事ができたから実家に帰ると云ってた日だった。

 どうした、ずいぶんと顔色が悪いぞ。大丈夫か。

 急に立ち上がるなよ。まぁ、座れ。いいから。

 座れって。

 昔話につきあわせて悪いな。まぁあともう少しで、終わるから。

「写真と……これはなんです?」

 ツタ子はまだバッグを漁っていた。

 ツタ子がバッグから撮りだしたのは、小さな果物用ナイフだった。おれがお前を刺そうと思っていたナイフだ。ああ、途中で気が変わったよ。だからバッグを川に投げ捨てようとしたんだ。

 ツタ子は鼻を鳴らした。

「子供の玩具ですね」

 そう云って、ナイフを地面に投げ捨てた。おれはなぜか、そのときほっとして、救われた気がしたんだ。

 写真とナイフのあとに、やっとDVDが出てきた。縁に黄色いラインの入った、TSUTAYAのレンタル商品だ。ツタ子はそれをおれに差しだした。

 ツタ子が指示する通りに、おれたちは裏庭に回った。広い庭のむこうに、灯りのついている窓が見えた。

 おれは窓から中を覗きこんだ。

 そこは子供部屋だった。壁紙は薄いピンクで、そこに青い飛行機がいくつも飛びまわっていた。部屋には小さな女の子がいた。大きな熊のぬいぐるみを抱えてベッドに腰かけ、パジャマ姿で泣きじゃくっていたんだ。

 どん、とツタ子が背中を押した。おれは窓に近づいてノックした。

 女の子はびっくりした顔をして泣きやんだ。近づいてきて、窓を開ける。

 その子の右頬が腫れ上がっているのが見えた。両親は家族経営の病院で医者をやってて、彼女は家にたった一人でいて虫歯に苦しんでいたんだ。

「やぁ、こんちは」

 おれは云った。我ながら冴えない挨拶だ。

「あのさ。おれ、映画持ってきてるんだけど、良かったら一緒に観ないか」

 おれはそう云って、まだびっくりした顔をしている女の子に、DVDを差しだした。

 女の子はDVDを受け取らなかった。夜にいきなり窓から男が挨拶してきたんだ。怪しむのは当たり前だと思った。

 おれはツタ子に助けを求めようと、振り返った。

 そこにはただ闇が広がっているだけだった。

 おれと、女の子と、一枚のDVDを残して、ツタ子は姿を消していた。

 じつにあっさりとツタ子はいなくなった。それっきり、会ってない。



 しばらくして、女の子はやっとおれを家に入れてくれた。

 彼女のすすり泣く声を聞きながら、おれは部屋にあったテレビをつけて、DVDデッキに持ってきたディスクを差し込んだ。

 映画は『スパイダーマン2』だったよ。覚えてるだろう。お前が借りたDVDだ。

 おれと女の子のあいだには、微妙な距離感があった。まぁ無理もないだろうな。ところが映画が始まるなり、そんなものどこかへ吹き飛んじまったんだ。

 おれたちは映画に熱狂した。スパイダーマンの跳躍に、女の子は驚きの声を挙げた。ピザ配達のシーンでは笑いだした。ドクター・オクトパスがメイおばさんを突き落とすシーンではふたりで悲鳴を挙げた。ピーター・パーカーが火事になった家から子供を救い出したときは、ふたりでハイタッチまでしたもんだ。あの映画は、最高だよ。

 そうして二時間の映画が終わる頃には、その女の子の虫歯はすっかり痛まなくなっていたのさ。

 その子とはいまでもちょくちょく会ってる。あれからすっかりアメコミとMCUにはまっちまって、もうおれなんかじゃとても知識じゃ太刀打ちできない。それでもいい友達さ。二年前には、一緒にサンディエゴのコミコン・インターナショナルまで出かけたんだ。彼女、むこうじゃちょっとした顔なんだぜ。SNSのフォロワーだって一万人からいる。

 彼女にはツタ子の話はしてない。なぜだか、その方がいいと思ったんだ。いつか、彼女のところにツタ子がDVDを受け取りにきたら。そうも思ったけど、結局ツタ子は二度と姿を見せなかった。きっと哀しい夜にスパイダーマン2を必要とするヤツが、もう現れなかったんじゃないかな。

 あのDVDは、いまでは女の子の宝物になってるよ。

 彼女とはなんども話せる良い友達だけれど、そのことだけは一生の秘密にしておこうと思ってるんだ。

 さぁ、これでおれの話は終わりだ。ずいぶん引き留めちまったな。しゃべりっぱなしで喉がからからだ。お冷やだけもう一杯、頼んでいいか。

 え? なんだって?

 おれがいまでも、お前を憎んでいるかって?

 そんなわけがないだろう。ツタ子がおれにあのDVDを差しだしたとたん、恨みなんかどこかへ消えちまったよ。

 だってお前が借りた映画は、スパイダーマン2だろ。

 1でも、3でもない。

 マーク・ウェブの『アメイジング・スパイダーマン』でもない。

 ホーム・カミングでも、ファー・フロム・ホームでも、ましてやスパイダー・バースでもない。

 サム・ライミの2だ。トビー・マグワイアの2だ。

 そんな映画を借りるヤツが、根っからの悪人のはずがないじゃないか。

 そう思って、ぜんぶ水に流すことにしたのさ。

 ツタ子が何者だったのかって?

 そんなもの決まってる。

 親愛なる隣人ユア・フレンドリー・ネイバーフッドだよ。きっといまでもツタ子はあの街で、誰かに映画を届けるために飛びまわってるんだ。誰かの哀しみを、少しでも和らげるためにさ。

 おれは、そう信じてる。



(To be continued)

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TSUTAYAの最後の娘 はまりー @hamari_sugino

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