第10話二十五歳ー3

 「『ほのか』って女の子、知っているよね? なんか、すごく仲が良かったみたいだね?」

 正美の手から室内用スリッパが滑り落ちた。お世辞にも衛生的とは言えない寮だったので、裏面の八割が黒ずんでいる。

 震える手ではスリッパを拾うことが難しい。正美自身が分かるほど、動揺していた。

 ここまでか。私の人間生活は。

 翌日の休日にハローワークに出向くことを覚悟し、正美は未沙の顔を見上げた。

 「会いたいときは連絡したら? きっと喜ぶよ」

 未沙はそれ以上、穂乃香に関する話題を振らなかった。

 目を細めて笑うだけで、自室のある二階への階段を上った。

 「おやすみ」

 「……ん」

 正美は頷くだけで精いっぱいだった。それ以前に、未沙の挨拶すら、何かの摩擦音にしか聞こえなかった。

 ドドドドドドドドッ! 心臓の鼓動と頭痛が共鳴する。

 未沙は不審に思ったかもしれない。

 もしかしたら、正美が元ネズミであることを知り、揺さぶりをかけたのだろうか。

 翌日も出勤の未沙は、会社で正美の過去を言い触らすのではないか。

 己を負の状況に陥れるだけの思考が過り、身体の悲鳴に拍車をかける。

 スリッパを拾うことも、黒のパンプスから履き替えることもできず、正美は玄関にて蹲ってしまう。

 「うっ! うぅ……」

 幸いなことに、正美の帰宅から四十分間は未沙以外の誰の足音もしなかった。

 深呼吸をし、ナメクジのような動きでスリッパを手に取り、踵の高さを低くした。

 正美は人間らしくない速度で、玄関から三メートル先の自室に向かった。

 その後、未沙は一度も穂乃香ほのかの名前を口にしなかった。

 それは同僚に対しても同じことだったのだろう。未沙と正美に共通の知人がいることを、誰一人正美本人に問いただしたことがない。

 現場第一で働く同僚との人間関係は比較的良好だった。

 同部署の同僚とも、時間さえ合えば未沙とも食事やカラオケに行き、仕事の鬱憤を晴らした。

 他部署間の確執があるとはいえ、正美は人間として一年半の間、その会社で働いた。

 正美の過去を知らせないこと、知っていたとしても知らぬふりをしてもらっていることで、未沙に対して罪悪感を抱いたまま。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る