第9話二十五歳ー2
休日を転職活動に費やし、アルバイトをこなす日々を繰り返すこと七カ月。
正美はようやく正社員の求人に採用された。ホテルフロントの仕事だった。
月収十三万円、社会保険付きというありがたい物だったが、正美にとって何よりの魅力は社員寮が設置されていることだった。
現住所の市外が勤務地であり、自動車を所有していないことから、採用の際は社員寮に入ることが必須だった。
ホテルのシフトは交代制で、早朝出勤もあれば夜間退社もあるからだ。南北と県都市から離れた田舎では、バスも電車も交通の便が悪い。
どちらも、一時間に一本、もしくは二時間に一本しか発車しない。
けれど、正美にとってはそのような不便は気に留めることではなかった。
湿度の高いコンビニの雰囲気、いつネズミが訪れるか分からない部屋、市から離れることができる。寮の所在地をネズミに知らせる必要がない。
ホテルの顧客の特徴も、正美を引き付けた要素の一つだ。
ホテルに泊まる際、一泊二食付きのプランであれば最低でも一人当たり一万円の宿泊費が生じる。それに加えて夕食での飲料代、土産代、往復の交通費もしくは車のガソリン代。
楽しい思い出を得る代償として、多額の出費を覚悟しなければならない。
製品代以外に出し渋るネズミが、好き好んで出す金ではない。
そもそも、よほどの物好きでない限り訪れることのない僻地だ。
ネットワークビジネスへの理解がない住人に自ら近付こうともしないはずだ。
ホテルならば、安価な商品を扱い不特定多数の顧客が訪れるコンビニのように突然の訪問もない。
ネズミに怯えることなく仕事ができるはずだと正美は考えていた。
いざ入社すればホテルのハードな業務に息切れすることがほぼ毎日あったが、それでも正美は纏わりつく物を振り払うように勢いをつけて仕事を物にした。
ただし、電話業務のみ慣れるのに半年かかった。
現代の固定電話に着信番号が載るとはいえ、正美にとっては得体の知れない不気味さと恐怖を感じるだけの物だった。
毎日休むことなく鳴る携帯電話に怯える過去があるからだ。
受話器を取る手が震えることなど、数え切れないほどあった。
「お前は人が怖いのか?」
その一言がなければ、四年後の現在でも正美は電話応対がいまだにできずにいただろう。
先輩の言葉を肯定するのは簡単だった。問題は理由を問われる場合だった。
合理的な思考の持ち主であるので、電話恐怖の原因を突き止め、後輩の恐怖克服に力を注ぐに違いない。
恐怖の原因、つまり正美がネズミであった過去を知られることは本人にとって負の極みである。
穢れた日々を楯に、正美は己が心身ともに同僚から攻撃されるのではないか。己の居場所を失うのではないか。
不安ばかりが正美の脳裏に過った。
結果として正美は他部署間の確執により業務遂行の困難を覚えて退職するが、本人の過去に触れる者は一人も現れなかった。
業務に慣れるにつれ、正美に親しい同僚、後に友人と呼べる存在ができた。
正美と同じくフロントを務める
他には同じ女性として尊敬に値するフロント主任、
三人とも仕事への姿勢は非常に厳しいが、プライベートモードに入ると、気さくで年齢差、勤続年数差を感じさせない。
後に最も深い交流を深めるのは、未沙だ。
彼女は正美と同年ということもあり、会話に敬語を抜くのに多くに時間を要しなかった。
また、直子と未沙は正美と同じ社員寮で生活していることもあり、休日が重なればともに外出することも、三人のうち誰か一人の部屋で晩酌をすることもあった。
他愛もない会話をし、好きなアーティストのプロモーションビデオを観て、雑魚寝をする。
ネズミにとっては一円の利益にもならないことだが、心を許せる物にしか見せない所作を目にする度、正美は普遍的な日常に感謝した。
人間でなかった日々を彼方遠くに置き去りにしたとまで思い込んだ。
未沙のある言葉を耳にするまでは。
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