第7話二十三歳ー6

 ある日、正美は風邪で寝込んでいた。

 看病は、恋人と別れて正美の元に転がり込んだ母親が看る。

 このときの最高体温は三十七度五分だが、平熱が三十五度の正美にとっては辛いことだった。

 一年間で三回以上風邪を引くので、熱で体が浮く感覚は慣れているはずだった。

 けれど今回だけは、体が浮いたり沈んだりして体が怠いと訴えた。

 重い頭痛だけでも十分堪えるのに、全身が心臓と化して全体を巡る血脈が激しく疼く。

 嫌な予感しかなかった。

 ベッドに潜ってから一度も時計を見ていなかったので、現時刻が分からない。雀と烏の泣き声で朝夕を判断するだけだった。

 どちらも鳴かないことから、昼もしくは夜中だったのかもしれない。呼び鈴が突如鳴った。

 正美の体が小さく跳ねた。ベッドが揺れると、瞼に力を込めて視界を遮った。

  一方、正美の事情をほとんど知らない母親は、招かれざる客を部屋の中に入れた。鍵や呼び鈴、インターホンの役割などを無視して。

 「ただ、あの子風邪を引いているのよ」

 「ああ、お構いなく」

 スリッパを履かない、靴下の擦れる音が徐々に大きくなる。

 こうなれば狸寝入りしかない。正美は寝室にて肩を揺すられても体に力を抜くように努めた。

 「ねーぇ、正美ぃ! せっかく緒方君が来てくれたのよ? 起きなさい」

 「正美? 正美?」

 声は二人分、母親と緒方の物だった。けれど気配はそれ以上の人数分把握していた。

 無言の圧力が、正美の全身を覆っていて、たとえ狸寝入りをしていなくても瞼を開くことができなかった。

 気配は消える予兆もなかった。

 人間に戻るための試練なのか。

 腹を括った正美は、重い瞼を慎重に開いた。

 霞がかった視界には、人影が四つあった。

 残りの二つは誰なのか、声を発していないので、目覚めた直後は判別できなかった。

 母親の手を借りて上半身を起こすと、視界の霞は徐々に薄れた。

 物体の輪郭がぶれなくなると、正美は喉を掻き切られたような痛みを感じた。決して風邪だけが理由ではない。

 「久しぶり」

 「どうして連絡をしてくれなかったの?」

 これまで何度も聞いた、記憶から消したくても消えてくれない声。

 緒方のアップである新田と、妻の希利だった。

 携帯電話が傍にあるのに、本体からは音が漏れていない

 実物にほぼ近い立体映像が、ガラケーで再現されるはずもないのに。

 正美はひどく混乱した。三人の招かれざる客を指差すことも、かすれ声を発することもできなかった。

 「何か言ったらどう? 成人した大人でしょう?」

 希利の口調は、母親の手前、柔らかいが、眼差しに棘があった。

 三人からしたら、当然のことかもしれない。

 正美が徐々に、彼らにとって都合の悪い存在になり、遂に連絡を絶ったのだから。

 仮にネズミでなくても、不愉快に感じるはずだ。

 何か、応えなければ。

 『ネズミ、辞めます』

 せめて言わなければ。

 己の沈黙を破らなければ、何も進まないことは、熱で火照った脳でも理解できた。

 けれど、必ずしも体が理屈に従うとは限らない。

 その一例が、このときの正美だった。

 「……確か、喉が弱いと言っていたな。声が出ないのであれば仕方がないな」

 三十分の沈黙を破ったのは、それまで胡坐をかいていた新田だった。

 立ち上がり、正美の母親に一礼すると、希利と緒方を率いて帰路に向かった。

 「え? 正美、どういうこと?」

 このときの心情を、六年後の現在まで何一つ母親に打ち明けていない。

 ただ、咳き込むだけしかなかった。

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