第4話二十三歳ー3

 正美がネズミだったころ、携帯電話を手放すことができず、利用料金が四万円を超える月もあった。当時は通話し放題という料金プランがどの携帯電話キャリアでも存在していなかったからだ。

 高額請求の四分の三以上は通話料金、残りの四分の一は基本料金とメールの受信料だった。受け取るメールの内容は、ネズミへの強い批判と、アップの新田からの叱責のみだった。

 友人としての食事の誘いなど、一通も来なくなった。

 また、正美も単なる食事の誘いをしなくなった。否、できなかった。

 毎日数十件、勧誘の電話をかけること。毎晩十一時ごろに一日の活動報告の電話を新田にかけること。この二つを強要されていた。

 本来自己主張が弱い正美は、報告はもちろんのこと、昔話を省いた勧誘の電話が苦痛でたまらなかった。

 心が重いあまりに一切通話をしない日もあったが、日付が変わるころに、新田から怠惰を叱咤する電話がかかってきた。

 一回の通話につき一、二時間かかるのは当たり前のことだった。

 二回目の叱咤を受ける時点で、正美はすでにネズミの世界を抜け出したいと渇望した。

 それでも正美は携帯電話を手放すことができなかった。アルバイト先からの連絡が入る可能性があったことも理由の一つであった。

 しかしそれ以上に、ネズミたちが謳う縛りのない世界を完全に諦めることができなかったのだ。

 深くなくとも、新田の洗脳が正美の脳に刻まれていた。

 インターネットでの批判は己の顔を世間に知られないから、好きなように書くことができる。

 一方で、生身の人間の、とくに友人の声は信頼関係があるから信憑性がある。

 初対面の際、新田から最初に言われたことだ。

 ネットワークビジネスに限らず、一理ある意見だった。

 現代において、インターネットの情報だけを信用することは、生き上で最も危険なことの一つだ。

 出会い系サイトを通じての性被害が絶えないのは、ネット上の仮面を過信するからだ。もちろん、加害者にも問題がある。

 ネズミの世界を抜け出して以来、正美はネットの口コミと生の声の両方を器用に利用している。ネットワークビジネスを通じて、インターネットの情報の一部にも真実があると悟ったからだ。

 正美は現在、ネズミ経由の情報一切を手放している。

 処分したのは、洗脳、情報だけではなかった。

 ネズミになると、真っ先に提出を求められる一冊のノートだ。

 百円ショップなどで購入したノートに、ネズミにとっての豊かさを手に入れた際叶えたい夢を百個書く。

 その内の一つをどうしても叶えたくて、正美はネズミの世界を抜け出すのに時間がかかった。

 その願いは今も心の中で温存しているが、別の方法で叶えようと懸命に励んでいる。

 かつて正美の足枷だったものが、今では真っ当な道を進む上でのエネルギー源になっている。

 かつて新田が夢を武器に変えて正美を追いやった。今ではその武器も新田にとっては何の価値もなく音沙汰もないが、正美にとっては大事な宝物だ。

 だからこそ、正美は過去をバネにして懸命に生きている。

 ネズミの世界の住人には到底理解できないことだろうが、お互いにとってはどうでも良いことだ。

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