第19節「祈(イノリ)という人間」

「御曹司・獅子堂光、あいつは完全な勝ち組さ」


 道中。奈由歌に向かって祈は語り始めた。


「今話題の経済格差における勝ち組ってだけじゃない。生物としての勝者さ。沢山愛人をはべらせて、きっともう何人か子供もいるよ。繁殖。生物の目的さ。彼のような勝者の遺伝子が、世界には残っていく。それに比べて僕はどうだ。僕という個体の存在意義さえ、世界に十分に刻めないまま、みんなの半分の時間で消えていくんだ。これではますます、『ここではない、どこか』への憧れを募らせるしかないね」

「イノリ。時々、その話してるな~。なんじゃ? その『ここではない、どこか』っていうのは、流行の『VRMMO』とか『異世界転生』とか、そういう話なのか?」


 雪降る街を、祈と奈由歌は並んで歩いている。二人の距離は、かなり近い。白色が、舗装路の表面を覆い始めている。


「いいや。僕が言ってるのは何と言っても『三島みしま由紀夫ゆきお』。そして『川端かわばた康成やすなり』。そういう話さ。『藤村ふじむらみさお』もイイね。悠々たるかな天壤てんじょうってね」

「あう~。それは文学者? よくわからないな~」


 二人は、焔の姉・真雪との待ち合わせ場所へと向かっている。


 復興部の部室を出た時点では、奈由歌は真雪と接触する方法を何も考えていなかった。


 そこは、気配りに関しては定評がある祈である。真雪が部室を訪れてきた日のうちに、SNSで真雪を探していたのだという。


 地下アイドルからAV女優までSNSをやっている昨今。ホステスとしての表の顔の真雪のアカウントはほどなく見つかり、相互フォローの関係になっていたのだという。


 今日、DMで焔の先輩であるという素性を明かした所、真雪は祈と奈由歌に会うのを承諾してくれた。


「正直、真雪さんには思うところもある。いかに焔君の養育費のためとはいえ、金持ちの愛人になるって、道徳としてどうなのかなってね」

「イノリ、そーゆう話になると、いつも機嫌悪くなるよな~。いーじゃん。ホムラのお姉ちゃんにも、イノリのお父さんの妾さんにも、それぞれ事情があったんじゃろ」

「ナユカの、そーゆーあっけらかんとしたところは好きだけどねぇ」

「御曹司とやらと比べなくてよいよい。イノリは、私と結婚して子孫を残せばよいよい」

「ま、その話はまた今度ね」

「いつもはぐらかされるな~」


 やがて二人が待ち合わせ場所――再開発地区にある、冬の間は凍結している噴水の前に辿り着くと、目的の女性は待っていた。


 真雪は傘も差さずに、シンシンと雪が降る中に立っていた。


 首元の紅いストールが、雪の上に咲いた鮮やかな花のようである。


 先日部室で話した時には、稚気と紙一重の少女性を感じさせられたが、ようは純真なヒトだということ。それなりにドス黒い世界も見てきた祈には、その存在の純粋さが、危うくも感じられる。


 強者が吐き出す原色のドロドロとしたものに、そのままでは塗りつぶされてしまうような白色の女性。しかし一方で、そんな殺伐とした現実に現れた「ゆらめき」を前にした時、彼女を襲う「澱み」があるなら払ってやりたい。みさきイノリは、現実社会との齟齬を軽減するために、アルカイックな笑みを浮かべていることが多い外見とは裏腹に、心の内にそんな気高い童心を持ち続けたまま成長してしまった人間だったりする。


 彼女の姿をしばし遠目に眺めると、やがて祈は、ハっと何かに気づいたようだった。


「なるほど、駒子こまこ

「マユキさんじゃろ?」

「川端康成の『雪国』のヒロイン、だよ。ナユカ、さっきの話、君の言う通りだ。やはり僕は、自分の事情を彼女に投影して、何か歪んだ見方をしていた気がする」


 奈由歌が祈の横顔を見やると、さっきまでのねた児童のような甘えは消えていて、凛然とした男の顔になっていた。


「僕がダメな人間であることと、焔君のお姉さんがダメになってしまっていいかどうかっていうのは、別のことだ。助けられるなら、助けられた方がイイに決まってる」


 そう告げた祈は、人指し指をルージュに模して紅でも引くように自分の唇をなぞった。


 彼なりの、内側の自分の気持ちと外の世界との繋がりを調整するための微笑を纏い直す儀式なのだ。


 そんな祈の横顔を見上げながら、奈由歌も心得たもので、二人の存在は真雪にとって明るい類のものだということができるだけ伝わればイイと、身振りを大きくしてイキイキと手を振りながら歩み始めた。

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