金曜日のすれ違い

「有栖! 目を閉じて!!」

「十六夜、お前なにす……」

「いいから早く!!!」


 目を開けるとそこは自分の部屋の天井だった。

 仰向けに寝ていると右下の方の見えるか見えないかギリギリの位置にシミがある。

 初めてこの部屋で寝た時は、どうにもあのシミが『自分の部屋』という宝物を安っぽくしてしまっているようで、極力見ないようにしていた。

「……4時半、か」

 もちろんAMのである。

 あの時十六夜は一体何をしたんだ……。いや、そもそもあの日は木曜日。例えどんな魔法を使えたとしたって、十六夜の人間界での魔力はほぼゼロに等しかったはずである。

「でも俺たちは助かった……」

 気がつくと俺たちは砂浜に打ち上げられていた。永遠曰く、それまでとは比べ物にならない大きな波がやってきて、俺たちはその波に飲まれるようにして一旦姿を消したらしい。

 永遠達が慌ててレスキューの人達を呼びに行き、連れて来た時には偶然にも砂浜に流れ着いていた。

 ……と言えばそこまで不思議現象でもないのだが。

「でも間違いなく、何かしたんだよな」

 あの日から、一ヶ月が経過していた。

 十六夜は何となく素っ気ない。いつも通り家事はやってくれるし、一緒にご飯も食べるのだが、いつもみたいに俺をからかったり、馬鹿な会話をしなくなった。悶々として何となく寝付けない状態で枕に顔を埋めていると、

 ドスッ!

 顔の横で音がした。

「ちっ。外したか」

「……宿主を殺す気か戦闘狂」

 金髪のポニーテールに星のような(何かが光る時の十字っぽい形をしたアレ)髪飾りをつけた黒い服に身をまとった女の子が俺の部屋に姿を現した。

「この程度で死ぬような宿主なら最初っから契約しちゃいないさ」

「いや、当たったら死ぬからな。マジで」

 家に自動展開ゲートを設置するのも考えものである。俺は自分の意志でゲートを開閉する以外に、目が覚めたら自動で開く、精霊界と繋がるゲートを家に一つだけ設置している。そうしておかないと、ゲートを開く詠唱すら出来ない緊急時いまだかつて遭遇したことはないがに、宿主を守れないからという十六夜からの指摘によるものだ。

「それはそうと、今日はいやに早いお目覚めじゃないか、宿主。まぁ私としてはありがたい限りだが」

 金曜日の精霊。夜叉やしゃ。ちなみに夜叉とは元々インド神話における鬼神であるが、こいつは神様ってわけじゃない。そのレプリカとでも言えばいいだろうか。以前言っていたように、精霊というのは人間の想像によって創造され、記憶の中に生き続ける。なので、誰がその想像の発端かは知らないが、その荒々しい気性と戦闘能力だけ本家から引き継いだ金色夜叉が精霊として創造されたのである。

「またどこかで暴れる気かよ」

 ベッドに刺さったままの妙な形状をした金色の武器『不倶戴天ふぐたいてん』を見ながら呟く。相変わらず刀なのか槍なのかよくわからん形状だ。ハサミを半分にしたような刃物、という表現が一番的を射ているような気がする。

「そうだねえ。またクズ相手に暴れるのも悪くはない、が」

 夜叉は武器を引き抜き、そのまま俺のベッドに腰掛ける。それに合わせて俺も体を起こす。

「どうも宿主がうんうん唸っているのは座りが悪いね。一体どうしたのさ?」

 精霊達にも人間関係──いや精霊関係か、というものは人並みに存在する。

 ただ、夜叉は孤独を好み、誰とも仲良くしたがらないので、先日の出来事は知らないはずだ。

「いや、まぁちょっと考え事をな──」

 シャキン。言い淀んでいるとすぐ目の前に不倶戴天の矛先ほこさきが向けられる。

「話すか殺されるか、好きな方を選びな」

 夜叉が凄惨な笑みを見せる。普通の人間ならビビって両手を上げるかもしれない。

 だが、

「……どっちも断る」

 腐っても宿主だ。使役する精霊に幅を利かせられるようでは沽券こけんに関わる。俺は不倶戴天を手でゆっくり押しのけて夜叉の隣に座り直す。

「心配させて悪かった。ちょっと気になっていることがあってな。……まあ考えるより本人に聞いた方が早そうなんだが、どうもそいつも喋りたくなさそうな気がするんだ」

 それがあの態度なのだろう。明らかに十六夜は俺に詳しいことを聞かれるのを嫌がっている。

「ふん。馬鹿が変に気を遣うんじゃないよ」

「いてっ」

 夜叉が不倶戴天の刃の裏で俺の頭を軽く叩く。

「聞きたいことがあるなら聞けばいいじゃないか。答えるかどうかは相手の勝手だ。ただ、お前から聞かないと何も始まらないよ」

「始めていいのかどうかで迷ってるんだよ」

 俺が聞いてしまえば、そして知ってしまえば、十六夜にとっても俺にとっても、俺たちの関係が今までとは違ってしまうような気がして、それが嫌だった。

「ったく、スッキリしないねえ。あー嫌だ嫌だ。どうしてこんなのが宿主になったんだか」

「自業自得だろ」

 夜叉は本人の意志で俺と契約したわけじゃない。

 人間界、精霊界のどちらにおいてもその残虐性は失わず、ただ気に入らないというだけで精霊を殺し、気分が悪いというだけで人を苦しめる。

 その行動に手を焼いた精霊王は、最低ランクの曜日魔導士の精霊として活動することを罰とした。少なくとも俺と契約することで、金曜日以外は人間界で魔力を使えなくなるからである。

「こんなのいつでも殺しちまえばいいんだけどねえ」

 もう一度不倶戴天を俺の方へ向ける。

「どうしてだか。アタシはアンタを憎めない。納得のいかない殺しはしない主義なのさ」

 そう言って、不倶戴天を降ろす。

「俺もそういうお前が嫌いじゃないよ」

 そう言って、今度はこっちからその鬼神の頭を軽くなでる。

「ばっ、馬鹿なことやってんじゃないよ! まったく!! アタシは虚空こくう夜叉。悪鬼あっき羅刹らせつだぜ。いつだってお前の首をはねてやるんだからな!」

「死にたくなったらお願いするよ」

 そう言ってあくびをし、目をこすりながら立ち上がる。9月に入って少しは暑さもおさまるかと思いきや、連日熱帯夜が続いている。考え事をしていたのは本当だが、朝方になってクーラーのタイマーが切れるのも早起きの原因かもしれない。

「ま、考え事を忘れて物事に没頭するにはいい季節だしな。運動の秋、読書の秋、芸術の秋、食欲の秋」

 中秋の名月もあるしな。十六夜との距離感を考え直すチャンスかもしれない。

「有栖には食欲以外当てはまらない気するけどねえ」

「そんな大食いじゃねえぞ。……サンマは好きだけど」

 自分で食事を用意していると、なかなか魚には手を出し辛い(面倒臭い)。楽に食べられるような調理済のサンマが出回るのはありがたいのだ。

「サンマが出ると有栖が引っ込む」

「人をマッサージ機みたいに呼ぶんじゃない。大体、お前そんなキャラじゃないだろう。そういうのは」

 言葉に詰まる。さっきまでその話をしていたせいかもしれない。そういうお寒いボケ担当はあいつしか当てはまらない。

「……ふーん。ま、宿主の悩みは想像ついたよ」

 何故か少し嬉しそうに夜叉は笑う。

「気分がいいから少し散歩してくるよ。今日は人を殺さないでいてあげる」

「俺が頼んだ覚えはないが、まぁそうしてくれると助かるよ」

 夜叉は空を飛べるので窓を開けて身を乗り出す。天夜叉、地夜叉、虚空夜叉の中でも地夜叉に属するものは飛べないらしいが。

「ああ、そうだ。秋と言えばこんなのもあったね」

 と言って窓枠に手をかけたまま夜叉は振り返る。

「秋の夜と男の心は七度変わる。女心と秋の空。結局のところ、その時その時で思ったり感じたことを行動にすることが大事なんじゃないのかい。数時間後には何もかも変わっているかもしれないんだからさ」

「そうだとしても、俺はその一つ一つを軽々にするわけにはいかないんだよ」

 普通の人との付き合いとは違う。俺と精霊の付き合いは、人とのそれより随分と強く、そして儚い。

 どれだけ近くにいても、どれだけ心が通い合っていたとしても、俺が忘れてしまえば、それでおしまいなのだから。

「ま、いいや、精々悩んで成長しな」

 そう言い残して、夜叉は闇の中に溶けていった。

「……もっかい寝るか」

 部屋の時計は4:32を表示していた。最近少し遅れているので、実際には35分といったところか。

 ここのところ、体育大会の練習で毎日運動しなきゃならんので、寝ぼけていると怪我でもしかねない。

 再度眠りについた俺の夢の中では、巨大サンマがマッサージ椅子に座ってくつろいでいたのだった。


「負けたらその首はねてやるからな! しっかり勝ってくるんだよ!」

「無茶苦茶言いやがって……」

 体育大会当日。季節外れの台風が続き、順延を繰り返したため、当初日曜に予定されていた大会は金曜日に決行することになった。明後日の日曜日も天気予報で傘マークの下に90%の文字が出ていたこともあるのかもしれない。俺は大して運動神経もよくないので、全員参加の200m走と玉入れしか出る予定はなかった──のだが。

「ごめんね。木寺くん。無理言っちゃって」

「あ、いやいや全然違う話だよ。早帆ちゃ……稲家に誘われるなんて光栄の至りだって」

 俺はこの後の男女混合騎馬戦に出ることになっていた。男は大体騎馬となり、女の子が上に乗ってハチマキを奪い合う。早帆ちゃんの騎馬になる予定だった内山という運動神経抜群の男子が、さっきのクラス対抗リレーで足をひねったらしい。

「あの……木寺くんさえよければ……早帆でいいよ。そう呼んでくれても」

「あ、いや、その……そう?」

 やっべえ! 可愛すぎだろこの子!

 この仕草が見られただけで、俺はもう天にも昇る心地である。

「だったら連れてってやろうか。最も、私が連れて行けるのは地獄だろうがね」

「遠慮します」

 ふと後ろを振り返ると夜叉が着いてきていた。

 大人しく観客席で見てろっつーの。

 意外と好奇心の強いやつなので、争いごとには特に関心を示す。

 自分に全く関係ないこの体育大会でも自分の宿主が負けるというのはやつにとっては腹持ちならないらしい。

「……そっか。ごめんね、調子に乗っちゃった」

 早帆ちゃんが若干寂しそうな笑顔をして舌を出す。

 何が?

 そう思って会話の流れを思い返す。

 ──あ!

「いやいやいや、今のはそう……畏れ多いかなって! 俺なんかがそんな呼び方してもいいのかなってちょっと日和っただけ! 早帆ちゃんがいい! 早帆ちゃんって呼びます!!」

 何故かガッツポーズつきで宣言してしまった。

「あ……ありがと。で、でも、そんな大きな声で宣言しなくても」

 気がつくと周りからひゅーひゅーとはやし立てられていた。

 目の前では早帆ちゃんが、さっきまでとは違った意味で困った顔をしている。

「だったら私のことも智亜とお呼びになって。有栖様」

「出やがったな。健康不良児」

 ピッタリのニックネームを考えついたと思ったのだが、口にしてみると思っていたより語感が悪かった。現れたのは相手チームの騎馬に乗ったおなじみの召還魔導士、蘭智亜である。

 わかってはいたがこいつ、無駄に背が高い。女子にしては反則だろうその高さ。

「私が全員倒して優勝して差し上げますわ。そうすれば、有栖様も私の格好良さにメロメロですわね」

「相変わらずネジの緩い発言だな」

 小学生のかけっこの順位ですら、いじめの発生要因だとかなんとか手前勝手な理由をつけて、大人が責任逃れをしようとする昨今、そんなことで人の気持ちが釣れると思っているような馬鹿が実在することが衝撃だよ、全く。

 そんな俺の感想はお構いなしに、蘭は早帆ちゃんの方を指差し、

「稲家早帆! 有栖様をかけて決闘を申し込みますわ! あなたも決勝まで残りなさい。有栖様の前でコテンパンにして差し上げます」

 見た目に反した熱血キャラっぽい言い回しで宣言する。

 ちなみに蘭の頭髪は出会った頃の印象を忘れさせるレベルで肩甲骨の辺りまで伸びており、その肌の白さから喋りさえしなければ深窓の令嬢と言われても素直に受け入れられるような容姿になっていた。

「ま、負けないんだからっ!」

 おやおや? 意外と早帆ちゃんも負けず嫌いなのかな。普段の教室のイメージとは違って随分と熱血度が増している。

 まあイベントごとだし素直に盛り上がるのもいいのかもしれないな。

「有栖くーん! ファイトー!!」

 珍しく観客席から応援される。誰かと思えば純先輩がこっちに向かって大きく手を振っていた。いい人だなあほんと。爪の垢でも煎じて蘭に飲ませてくんねえかな。

 というわけで俺は残りの男子二人と騎馬を組み、早帆ちゃんを乗せる。ちなみに残りの男子の二人は、不健康とまでは言わないが、体格的にはひょろひょろの永遠と、永遠と仲の良い、これまた運動が大の苦手の男子。

 うーん、早帆ちゃん、ごめん、これ貧乏くじかも。俺は俺で、先頭のポジションなので、残念ながら早帆ちゃん──もとい、騎馬の様子が何も見えないが、後ろに彼女が乗っているとなると、それはそれでもう情熱の矛先が逆を向きそうだった。

 赤、白、青、黄の4チームそれぞれが6組ずつの騎馬を組んでまずは自由合戦。制限時間内にいくつハチマキを奪ってもいいが、ハチマキを奪われたらその時点で失格。残っている騎馬の分だけチームに加点される。つまり、奪った数そのものはあまり関係ない。また、制限時間が終わり、残っていた騎馬で一騎打ちを行う。

「にしてもあいつ高すぎるだろ、ほんと」

 前述の通り、蘭は背が高い。女子で170cmは優に超えている。加えて、騎馬の男子もラグビー部で固めており、準備万端といったところか。

「だいじょーぶ。騎馬戦は高さだけじゃないよ!」

 頭の上から早帆ちゃんの声がする。

 ああ……今俺の後ろに早帆ちゃんが……ってイカンイカン! 俺は彼女に勝利をプレゼントせねばならんのだ! 煩悩にさいなまれている場合じゃない。

「怪我せんようになー。あと反則じゃなくても危険な行動するやつがいたら失格にするから無茶するなよー」

 体育教師の野太い声が響く。皆思い思いの表情で構える。俺も少し緊張してきた。

「よーい、始め!」

 パァン!とピストルが鳴り、競技が開始される。

「よーし、木寺くん! ゴー!!」

 俺たちは開始前に相談して決めていた通り、まずはあまり強そうじゃない(背が低い)黄組の方へ回り込む。

 俺たちは決して足が速い方ではないし、体格もよくない。

 かと言って、ここで尻込みしてちゃ男がすたるってもんですよあーた。

「うおおおおっ!」

 黄組はやはりあからさまに弱そうだったのか、他の組から結構狙われていた。俺たちも最初の騎馬とぶつかる。

「オッケー!」

「え」

 見上げると早帆ちゃんが相手のハチマキを取り上げていた。いやいや、いくらなんでも早すぎないか。一体どうやって取ったんだ。

「木寺くん、次あっち。左のあの子狙おう!」

「ほいさ」

 疑問は残るが考えていてもしょうがない、俺は次の標的を狙い、後ろの二人とダッシュする。

 次の標的は騎馬の男子はともかく、上に乗っている女子は小柄ながらも反射神経が良さそうだ。

 確か剣道部じゃなかったか? あの子。

「いくよー!」

 早帆ちゃんの声に合わせて、俺たちは相手の騎馬とぶつかる。

「オッケー! 取ったよ!」

「うそ」

 見上げると、またも瞬殺で早帆ちゃんが相手のハチマキを取り上げていた。そもそもハチマキってそんな簡単に取れるもんなのか? 一体どうやってんだ?

「永遠、大丈夫か?」

「うん、何とか。次からもうちょっとゆっくりでもいいかな? 手が滑りそう」

「オッケー。一度立て直そっか」

 早帆ちゃんが片足ずつ足を上げ、俺たちが順番に手を組み直す。

 うーん、後ろで見ていた永遠からどうやって早帆ちゃんがハチマキを取っているのか聞きたかったんだが、何となくそういう雰囲気ではなくなってしまった。

 しゃーない。後で聞こう。

 と次の標的を探そうと顔を上げた瞬間。

「うわわっ!」

 早帆ちゃんがバランスを崩して前のめりになる。俺たちは必死でそれを受け止めるように前に動く。

「せーーーーふ! あぶなかったー」

 騎馬的にはセーフだった。俺たちが少し前に動いたおかげで、早帆ちゃんもバランスを立て直した。

 ──のだが。

「……」

「木寺くん? 大丈夫?」

 永遠の声も耳には入っているが頭に届いていなかった。というのも、さっきバランスを崩した時、早帆ちゃんが前のめりになったせいで、色々な刺激が後頭部から前頭葉にかけて駆け巡ったのである。

 ……いやー騎馬戦っていいもんですね。

「やれやれ、鼻の下伸ばしてだらしねえ宿主だ。ぼやぼやしてるとやられるぜ!」

 はっ! と夜叉の声で正気に返ると、いつの間にか後ろから狙われた早帆ちゃんが必死に自分のハチマキをガードすべく、体をねじって戦っていた。

 いかん! 俺が足を引っぱってどうする!

「ってあっちからも!」

 最弱に見られた黄組が全滅したからか、次は俺たちの白組が狙われる。青組は随分離れた位置に固まっていた。どうやら結束して決勝まで残るつもりらしい。蘭のいる赤組から集中して狙われそうになる。

「宿主が負けるのは納得できないね! ちょっとズルさせてもらうよ!」

「ちょ、お前なにを──」

 言うが早いか、夜叉は詠唱を始める。

「我が主との盟約に従い、一条の光となりて、眩い閃光と共に駆け巡らん!」

 夜叉が俺の体に憑依する。他人には見えないが、煌煌と俺の体から光が放たれている。

「さあ、さっさと切り抜けな」

「ったくお前は。罰受けても知らねーからな。──ライトニング!」

 後ろの二人と早帆ちゃんに聞こえない程度の声で呟く。金色の光が煌めいた瞬間、俺たちの騎馬が今早帆ちゃんが戦っている相手の後ろに移動する。

「わわっ」

「へっ?」

 夜叉の魔法は金。その能力は体を金のように強固にするものから、今のように金が放つ光と同化するものまで多岐に渡る。

 特徴は、その全てが戦闘用のものであり、それ以外の用途はない。今の瞬間移動についても、短距離は移動出来るが、長距離の移動には向かない。移動先の位置にあるものが特定出来ない状態で行うと、同一座標に二つの物体が存在するという自然にはあり得ない状態になり、後から割り込んだ物体が排除される。即ち、移動した先に物体が存在した場合、見るも無惨なバラバラ死体の出来上がりってわけだ。

「早帆ちゃん。チャンス!」

「もらったー!」

 後ろの二人は何が起きたかわからない様子だが、何故か早帆ちゃんは平気な様子だった。

「オッケー。取ったよー! 木寺くん、足すっごい速いんだね!!」

「いや、ははは……」

 ちょっとやり過ぎたな。こっちに向かって走って来てた騎馬の子達ですら、ぼーぜんとしてるし。後ろの二人も手に力が入っていないのがわかる。

 これはこれで危ない、と思っていたところで。

 パァン! 終了のピストルが鳴った。と同時に、残った全員が開始位置に戻る。

 残ったのは赤3組、青5組、白2組の計10組らしい。この面々でトーナメントを行う。

「木寺くん。さっきのって何がどうなったの?」

 永遠が自分に起きたことがまだ信じられないというような表情でこちらに聞いてくる。

「いやー、まああれだな。火事場のクソ力ってやつだ」

 自分でも思えるくらい、相変わらずごまかし方が下手だな、俺。

「へえ……。全く走った感覚がないのに、気づいたら移動してたよ。僕達もそれなのかなあ」

「そうだな。意外と俺ら、本気出せば短距離走とかイケんじゃないか」

「うん。なんかちょっと、自信出たかも」

 すまん。永遠。その自信はいずれ裏切られることになろう。だから間違っても運動得意だなんて言うんじゃないぞ。

「……なあ、宿主」

 瞬間移動後、早々に俺の体から抜け出ていた夜叉が話しかけてくる。

「あ、ごめん、俺ちょっとトイレ行ってくる」

「うん、行ってらっしゃい」

 決勝トーナメントを作るまで多少時間がある。早帆ちゃんも青組の友達と喋りに行ったままだし、少しなら大丈夫だろう。

「なんだよ。俺があそこで喋れないのはわかるだろ」

 トイレを通り過ぎ、体育倉庫の裏まで行ってから夜叉に話しかける。

「気分を悪くしないで聞いて欲しいんだ。あの女……早帆って言ったっけ? あの女に関わるのはよした方がいい」

「なんでだよ」

 急に何を言い出すんだこいつは。

「さっきアンタも見たろ? あの瞬間移動にも平気で対応した。それにアタシは見てたけど、あいつのハチマキの取り方。普通じゃない。手を近づけると自然にハチマキの方が吸い付いていってる」

「……」

 確かに色々と不自然だとは思ってたさ。でもそれを認めたくない感情がはっきりと俺の中にあったんだ。

「敵か味方かはわからない。けど、ハッキリするまで暫く様子を見た方がいいよ」

 夜叉がガラにもなく優しく俺を諭す。しかしそれでも俺は認めたくなかった。

「たまたまだろ? そんなこと、あるわけな……」

「目ぇ覚ませ! 万一それでお前に危険が及んだら、アタシたちが困んだよ! 自覚しろよ宿主!」

「頼んでねーよ!!」

 夜叉が俺の襟首を掴んで、今にも殴り掛かろうかと思わんばかりの表情で叫ぶ。

 夜叉の言うことが正しいのは頭ではわかっていた。

 だが俺の口から漏れ出た言葉は、理解とは正反対の感情に任せたひどいものだった。

「お前らが勝手にそう思ってるだけだろ! 所詮精霊なんて、宿主が死んだところで別の宿主を探すだけじゃないか! 心配するフリなんかしてんじゃねーよ!」

 すっと、夜叉が俺から手を離す。

「お前……本気でそれ言ってるのかい?」

「……ああ」

 もはや引っ込みがつかなかった。

「アタシの見込み違いだったようだねえ。人間の女にかまけて何が正しいかも見失うなんざ、魔導士失格だよ、お前。悪いが私はこの契約、解除させてもらうよ」

 夜叉は髪についた金の髪飾りを投げ捨てる。

「……勝手にしろ」

 俺がそう言うと、夜叉はあっという間に明後日の方向に飛び去っていった。

 地面に転がっている髪飾りを拾い上げる。

「わかってるよ……俺だってさ」

 でもまだ俺は幻想を抱いていたかったんだ。圧倒的に低い確率だとしても。それを認めてしまったら、俺の中にある何かが崩れてしまう気がしたから。

 髪飾りをハーフパンツのポケットに入れて、俺はグラウンドへ戻っていった。


「よーし! 決勝だー!」

 早帆ちゃんが声を上げる。俺たちは順調に勝ち進み、遂に決勝で、蘭の組との一騎打ちになった。

「……」

「どしたの? 木寺くん。なんか浮かない顔だね」

 永遠が後ろから声をかけてくる。

「いやいや、ちょっと疲れただけ」

「大丈夫? 木寺くん。もう少しだから、がんばろっ!」

 早帆ちゃんの笑顔が上から俺に向けられる。だが見上げると、どうしてもその笑顔が作り物に見えてしまって、すぐさまもう一度前に向き直った。

「……うん。頑張ろう」

 何に頑張るのだろう。もちろん騎馬戦を頑張る。だが頑張って得られるものは何だ。あんなに求めていた彼女の笑顔が、今は能面でも見ているかのようにひどく空しい。

 もし彼女が普通の人間じゃなかったら?

 俺は彼女を好きじゃなくなるのか?

 そもそもどうして俺は彼女を好きだったんだ?

 様々な想いが去来する中、決勝は有無を言わさず始まる。

「っておいこら」

 俺たちの前にいるのが蘭の騎馬。それはわかる。わかるが、

「あら? なんでしょう、有栖様」

「なんでしょうじゃねえ! お前それ何する気だ!!」

 蘭の騎馬の隣にはケルベロスが召還されていた。

「そりゃあもうその女を亡き者に……いえいえ。何のことを仰っているのかわかりませんわ」

「わかりやすいごまかしをありがとうよ。いいからさっさとしまえ!!」

 どうやら前回同様、普通の人間には見えないように姿を消しているらしいが、ケルベロスの爪や牙を、普通の人間が食らったら間違いなく即死だ。

「いえいえ、ここからが本当の牙戦なのです」

「くだらないダジャレ言ってごまかそうったってそうはいかねえ。いいから早く──」

「木寺くん」

 頭の上から声がする。

「大丈夫だから。早くやっちゃお? ね?」

 何が大丈夫なんだろう。

 早帆ちゃんがどんな顔をしているのかが怖くて、俺は上を向けなかった。

「じゃあ決勝を始めるぞー。よーい」

 パァン!ピストルが鳴って、決勝が開始された。

「行きなさい! ケルベロス!! あの女を亡き者にするのよ!」

「お前は一回精神科に診てもらえ!!」

 叫びながら避けようとする。

 ……ってか今の俺の足じゃ、絶対に避けられない!

「早帆ちゃん、危ない!!」

「だいじょーぶ」

 早帆ちゃんがとんでもない速さ、そして気にして聞いていなければ聞こえない程度の小さな声で呪文らしきものを詠唱する。

「え」

 途端にケルベロスの動きが止まる。いや、むしろこれは……。

「こっちに……懐いてる?」

 ケルベロスが早帆ちゃんにすり寄っている。

「な、何をしているの! ケルベロス!! さっさとやっておしまい!!」

 もはや周りに聞こえるのもお構いなしで蘭が叫んでいる。

 一向に動かない決勝戦と、蘭の意味不明な言葉に、周りの人達はただ呆然としていた。

「早帆ちゃんは──」

「さ、木寺くん! 相手を倒すよ!」

 そう言う早帆ちゃんを見上げた。

 その瞬間。

 俺の意識はまるでテレビのスイッチを切るように、いきなり断絶された。


「う……うぅ……」

 気がつくと、何やら周りがバタバタしていた。

 あれ? 騎馬戦は? どうなった!?

「早帆ちゃ……」

 振り向いて見ると、早帆ちゃんが友達に肩を抱かれながら泣いていた。

「一体何が……」

 まだ少しぼんやりする意識を振り払うように首を振り、顔を前に戻す。

 と、そこには、

「……蘭!!」

 蘭が頭から血を流して倒れていた。慌てて駆け寄るが、担架で運ばれていくところで近寄れなかった。どうやら救急車を呼んだらしい。

「事故なんだから、早帆のせいじゃないよ」

「うん……でも智亜ちゃん、可哀想で……私があんなに張り切らなかったら……」

 後ろから声が聞こえる。どうやらその話を聞いていると、早帆ちゃんと騎馬戦でもみ合った拍子に倒れて怪我をした『ということになっている』らしい。

「有栖くん!!」

 グラウンドから退場し、クラスの位置に戻ってきていた俺に、純先輩が駆け寄ってきた。

「純先輩……」

「有栖くん、一体どうして……。ケルベロスは有栖くんにも見えてただろ? なんで止めなかったのさ」

 キミらしくもない。と先輩は怒ったような声を出す。

「さっき……目を見たんです。そしたら、急にふっと意識が飛んで──」

「誰の?」

 言わなければならないことはわかっていた。でもそれを少しでも先延ばしにしたかったから、俺は無意識にその人の名前を言わなかったのかもしれない。

「俺たちの……騎馬の上の女の子……」

「あの子も魔導士?」

 認めざるを得ない。蘭が召還したケルベロスを手懐け、俺の意識を奪った。そんなことが普通の人間に出来るのなら、人間界はもっと混沌としているだろう。

「だと──思います」

魅了チャームかな。だとするとかなり高位の魔導士だね。精神系の魔法は難しいんだ……ってボクもそこまで詳しくはないけど。しかも有栖くんのような魔導士にかけるのはより一層大変なはずだよ」

 魔導士には魔法が効きにくいはずだから。と、目線を早帆ちゃんにやりながら呟く。

「俺は……俺には出来なかったんです」

「何が?」

 純先輩は早帆ちゃんから目を離さず、俺に問いかける。

「彼女を信じることも、疑うことも」

 信じていれば顔を上げることはなかった。

 疑っていればそもそも参加していなかった。

 中途半端な想いのまま中途半端に行動したから、結果、色んな人──や精霊を傷つけた。

「俺……最低です」

 夜叉はこの結果を予想していた。だから嫌われることを承知で彼女の危険性を俺に告げた。なのに、俺は──。と、純先輩が俺のうなだれた頭に優しく手を置く。

「大丈夫。皆そんなに強くないよ」

 そのまま頭を撫でてくれる。

「キミは確かに失敗したのかもしれないね。でもさ、ボクなんて失敗続きだよ? 前にも言ったけど、精霊は契約してくれないし、身長は……相変わらず伸びないし」

 まあ、それは失敗じゃないね。と控えめな笑顔で純先輩は言う。

「失敗したらやり直せばいい。失ったなら取り戻せばいい。命まではそうはいかないけれど、逆に言えば生きてさえいれば、やり直しは効くはずさ。大事なのは、同じ過ちを繰り返さないことだね。ボクだってそうさ。もう二度と、大事な人を失いたくない。だから、」

 純先輩は俺の頭から手を離し、早帆ちゃんをにらみつけながら続ける。

「もし彼女が有栖くんに手をかけるなら、絶対に許さない」

 普段からは絶対想像できないような表情をして、純先輩は早帆ちゃんを睨んでいた。早帆ちゃんは『泣くフリ』こそやめたようだが、友達に肩を抱かれたままぼんやり自分の椅子に座っている。

「とりあえず、蘭さんの様子を見に行こうと思う。キミも来る?」

「……行きます」

 まだ気持ちは混乱していたが、蘭の様子は気になる。さすがに命に関わるほどではないだろうが、怪我した場所が場所だけに、障害が残るようなことになったら大変だ。

「じゃ、行こう」

「はい」

 一度振り返って早帆ちゃんの様子を見てから、俺たちは蘭の運び込まれた病院へ向かった。


「はい、あーん」

「あのー、すいません、先生。怪我の方はいいんでこいつの精神を一度検査してもらえますか。きっとどこかに異常があると思うので」

 心配して損した。体育大会を放り出して蘭の運び込まれた病院へ来たところ、そこにいたのは頭こそ包帯に巻かれて痛々しい様を見せているものの、俺が病室に入った途端飛びかかってくる元気な女子高生だった。

「いやですわ。そんなもの検査しても、レントゲンでは私の愛情は測りきれませんわよ。有栖様」

「いや、そもそもレントゲンって何かを測るものじゃないから」

 話題を逸らししつつ蘭に持って来た林檎を自分で食べる。

 蘭に絶対安静を言いつけて先生が出ていった。

「ははは……。でも、大丈夫なの? 大分ひどくやられたように見えたけど」

 純先輩が真面目に心配する。いい人だなあ、ほんと。

「ええ。……まあ、怪我よりも、ケルベロスが私を裏切ったという事実の方が、私には辛いですわね」

 蘭は本当に辛そうな表情を浮かべる。召還魔導士において、魔導士と召還される者の間には、婚姻レベルでの重い契約が交わされている。人並みに表現するなら付き合っている相手が目の前で浮気したレベルと言えるか。

「そのことだけど……。早帆ちゃ……彼女はあの直前、魔法のようなものを詠唱していた。だから裏切った云々というよりは、彼女の魔力の方がお前よりも上だった。そういうことだろう」

 俺だって自分で言っていて未だに信じられないが。そもそも彼女が魔導士だったなんて。

「迂闊でしたわね。彼女はある意味厳重にマークしていたのですが。恋のライバル的な意味で。まさかたかだか数ヶ月でこんなに多くの魔導士と人間界で出会うなんて、思いもしませんでしたわ」

「……同感だな」

 こいつに厳重マークされるって、ある意味ストーカーより嫌だろうな、と一瞬よぎったのはさておいて、今思えば、俺の妙な浮つき具合も、彼女の魔法の効果だったのかもしれない。いや、真偽はわからないが。

「とにかく、彼女に直接コンタクトを取ってみよう。ボク達だけで悩んでいても始まらないよ。蘭さんに怪我させたのはいただけないけど、元はと言えば先に仕掛けたのは蘭さんなわけだし。彼女がまだ悪意を持った魔導士だと決まったわけじゃない」

 『いい人』の純先輩らしい発言だな。と俺は思った。

 俺だってそう信じたいが、それこそ純先輩が言った通り、同じ失敗を繰り返すのはごめんだ。

「にくにくし過ぎて嫌々ですわ! あの女! 次会ったら魔法なんて使う前に叩きのめして差し上げます!」

「掛け算に使う頭があるなら、お前はまず常識をわきまえろ」

 お前が否応無しにはっ倒されるぞ。ったくもう。

「心配して下さるのですね。お優しいですわ。やはり愛故に、ですね。いつでも私は貴方の愛を受け入れる覚悟はありましてよ」

「俺が心配してるのは、お前の頭と周りへのとばっちりだ!」

 せっかく見た目は前に比べて随分女の子らしくなってきたというのに、喋るとこうだからなあ。

「一旦、ボクと有栖君で彼女に話しかけてみよう。それでもし、悪意を持った魔導士だったとしたら」

 純先輩が先ほどとは打って変わって、今まで見せたことのない怖い表情を見せる。

「ボクが潰す」

 俺はその戦慄せんりつを覚える程の表情を見ながらもまだ迷っていた。

 『いい人』の純先輩にもこんな怖い表情があるように、早帆ちゃんにも裏の顔がある。

 俺はそれを見たくなかったし、存在すら認めたくなかった。

「……まあ、とりあえず、俺はちょっと精霊に謝ってきます。彼女に対する意見で仲違いしちゃって。契約解除されちゃったんで」

 というか俺が意地を張っただけなんだけど。と、ポケットから金の髪飾りを取り出す。

「うん。早く行った方がいいよ。もし他の宿主と契約しちゃったら、その精霊はもう、有栖くんの元には戻って来ないかもしれないんだから。……なんて。ボクが言うことじゃないかもしれないけどね」

 水走は確かに俺の元を去り、純先輩と契約した。

 だがそれは水走の意志であり、先輩が悪いわけじゃない。

 それでも、水走がもう俺の元に戻って来ないことには変わりないのだ。

「人間でも精霊でも、気持ちがすれ違うのは、決して悪意から生じるものだけじゃないよ。むしろ相手のことを思い込み過ぎるほど、相手の気持ちは見えにくくなる。すれ違った気持ちは、時が過ぎれば過ぎるほど、離れていってしまうんだ」

 先輩の両親は先輩のことを想い過ぎて、先輩を独りにしてしまった。

「どこをどう探せばいいかもわからないんで、家に戻って他の精霊と相談してみます」

「私は精霊界にはうといのですが、魔界や冥界ならある程度、土地勘があります。もし必要とあらば、いつでもご指示下さいませ。有栖様」

 暫く黙っていた蘭が少し辛そうな顔をしながら言う。

 その表情を見て初めて、蘭が俺に心配させまいと無理をしていたことに気づいた。

「うん。……サンキュな」

 夜叉だけじゃない。十六夜ともすれ違ったままだった。このままだと、本当に皆離れて行ってしまうのかもしれない。そんな不安を抱え、俺は病室を後にした。


「うーん、それは心配だなぁ。あ、イカ食わねえならもらうぞ」

「お前は少し緊張感というものを持て!」

 俺の精霊勢ぞろい──というにはあまりにも寂しい状況だった。招集をかけてリビングに揃ったは俺と織姫と焰だけ。土曜日の大蛇おろちがサボるのはまあいつものことだとしても、十六夜が姿を見せないのはやっぱり変だった。

「木霊は?」

「十六夜に着いて行っておるようじゃの。まあ妾らは自分の曜日以外は基本自由に過ごしておるでの。都合がつかなくともそう不思議ではない。気に病むなよ、宿主」

「そーそー。頭使うと腹減るぜ」

「もういいよ、お前残り全部食え」

 奮発して寿司を取ったりしてみたのだが、全部この火の玉小僧の胃袋に収まりそうだった。そもそも精霊に胃袋なんてあるのか? 知らんけど。

「何とかして夜叉の居場所を探したいんだ。最悪連絡が取れるだけでもいい」

 俺は懇願こんがんするように織姫と焰に語りかける。

「と、言われてもの。妾らは自分の曜日しか魔法を使えん故、金曜日ではこっちで空を飛ぶことも出来んわい」

「むぐむぐ……高速移動もな。有栖ーお茶くれー」

 どんっ! と多少イライラしながら湯のみをテーブルに置く。

「何とか……どうにかならないのかよ! お前らなら──」

「おいおい、宿主よ、それはお門違いというものじゃぞ。自分の失態を儂らに押し付けられてイライラされても困るわい」

 織姫が少し不機嫌そうな顔でこちらを見る。

「いや、そんなつもりは──」

 ない。と言い切れなかった。

 イライラしているのは自分に対してだが、無意識にこいつらなら何とかしてくれると、それが当たり前だと、そう思ってしまっていたのかもしれない。

「やれやれ。見込み違いじゃったかのう。まあ、他の連中はどうだか知らんが、妾は単なる腰掛けで代理じゃ。お主に面白みがなくなったら、いつでも解除るからの。……これはいつもの冗談ではなく、警告じゃと思うて相違ない」

「まあオイラはどっちでもいいけど。あれだ、辛気くせーのは勘弁だな。ぱーっと楽しめないなら他行くぜ」

「そんな……そんなもんなのかよ」

 俺たちは──俺たちの関係は。と言いかけて、自分が夜叉に言った言葉が頭によぎる。

「お前らが勝手にそう思ってるだけだろ! 所詮精霊なんて、宿主が死んだところで別の宿主を探すだけじゃないか! 心配するフリなんかしてんじゃねーよ!」

 自分の都合の悪い時は突き放すくせに、自分勝手になぐさめてもらおうとして。心配してくれないことに苛立って。

「ま、『そんなもの』になるかどうかはお主次第じゃの。前にも言うたように、きちんと周りに目を向けることじゃ。悪いが妾らは今回の件については一切手を貸さん。これくらい、自分で解決せいよ、宿主」

 いつもの薄ら笑いはすっかり影を潜め、無表情でそう言い放つと、織姫は焰を連れてゲートの中に戻って行った。

「どうすりゃ……いいんだよ……」

 俺はそのままリビングの机の上に突っ伏した。今更ながらに自分の無力感を呪った。知らず知らずの内に、俺は錯覚していたのかもしれない。魔導士はただの媒体であり、憑代よりしろに過ぎない。なのにその憑代が、精霊の力を自分のものと勘違いしてしまっていた。

 言いようのない不快感が脳内を占領し、俺は迷いの渦に飲み込まれていった。


「本当にそれでいいのか?」

「……はい」

 目の前の月の精霊はその覚悟をはっきりと口にする。

「お前の今までの功績を考えれば、先の行動など不問にしても問題ない。まあ対外的に何か罰を与える必要はあるじゃろうが、普通に罰を与えても罰金刑で済んでしまう程度のものじゃぞ?」

 もったいない。儂はそう思った。当然じゃ。地球外のものに関わる精霊というのは精霊界でもレア中のレア。増してや、月の精霊など、何万といる精霊を統べる儂でも、生きている間にこいつとこいつの母親にしか会うたことがない。

「もう、決めたことです」

「……なるほど。ならばこれ以上は問うまい。確認じゃが、他の人間と契約する気もないのじゃな?」

 意志は堅いようじゃが、何とか変えられないものかと思う。たかだか人間一人のために、その絶大なる魔力を捨てるなど、馬鹿げている。

「はい」

「わかった。ではお前の望むようにしよう。じゃがその履行りこうはその人間と契約解除してからじゃ。いくら儂でも、よほどの重大犯罪でもない限り、個々の精霊と人間の契約には関与できん。また、そんな前例を作るわけにもいかんのでな」

 そこまでプライベートに立ち入ると、さすがに精霊の中から反対が起きよう。規律というのは治安を守るために存在するものであって、決して統治者の想いに沿わせるためのものではない。

「わかっています。自分で決着をつけます」

「なら、解除が出来たらまた来るがよい」

「はい」

 月の娘は決意を秘めた瞳ではっきりとそう口にすると、しっかりとした足取りで部屋を出て行った。


「はっ」

 気づくと部屋が真っ暗になっていた。なんだかんだで疲れてしまっていたようで、リビングで寝入ってしまっていたようである。

「ん?」

 体を起こすとするりと床に何かが落ちた。

「制服……の上着?」

 しかも女子用の。

 一瞬純先輩かなと思ったが、まさか他人の家の中に無断で侵入したりはしないだろう。ちゃんと鍵はかけてある。

「十六夜……か」

 それしか考えられなかった。起き上がって電気をつける。

「ミィー!」

「木霊?」

 暗くてよく見えなかったが、どうやらリビングの隅っこに木霊がいたようである。

「なんだ? その紙」

「ミィ! ミィー!」

 木霊が折り畳んだ紙を俺に差し出している。

「えっと……なになに」

 俺は木霊を抱え上げて自分の頭の上に乗せ、紙を受け取って開く。


『有栖へ 女の子は例外なく甘ーいお菓子が大好きなのです! 特にイライラした時は効果てきめん! 最近出来た駅前のクレープ屋さんは大人気で夜遅くまでやってるから、わたしだったらふらーっと寄っちゃうかも? なんてね。』


「ミィ?」

 木霊が不思議そうに俺を見る。

 差出人のないその手紙が、俺の胸に熱いものをこみ上げさせ、身体が少し震えていたからだろう。

 独りじゃない。

 俺の失敗はまだ、取り返しがつかないわけじゃないんだ!

「……行ってみるか」

「ミィ!」

 木霊がびっ! と敬礼をする。

「お前も……行くのか?」

「ミィ!」

 俺の頭の上からジャンプしてテーブルに飛び乗り、敬礼をしたままこちらを向く。

「下手したら、お前だって罰受けるぞ?」

 今日は金曜日。木霊は姿を消せない。それに、今回の件は俺のせいなのだから、人間でも精霊でも他のやつらに迷惑はかけたくない。

 ……既に一回織姫たちに迷惑をかけそうになってしまったが、もう二度と。

 木霊はそれでも敬礼のポーズを崩さず、こちらをじっと見つめていた。

「ぼやぼやしてると時間なくなるし──」

 木霊が頑に着いて行こうとする理由はわからないが、その目からは、強い意志を感じた。こいつなりに夜叉のことを心配しているのかもしれない。

 自分のことじゃない、他人のために無理をしようとしている。

 そう思った時、気づいた。

 俺は今回ずっと、自分のことしか考えていなかったことに。

「……おし、決めた。お前がもしバレたら、俺も精霊王のところに謝りに行ってやる」

 それが通用するのかどうかは知らないが。まずそもそもコミュニケーション取れるのか。精霊の王様だろ? 日本語なんて理解してくれるのかな──英語は自信ないぞ。俺。

「ミィ!!」

「わわっ」

 木霊が俺の胸に飛び込んで来た。抱きとめて抱え上げると、その目は俺に『頑張ろう』の意志を伝えて来た。

 本当は『行こう』とか、『早くしろ馬鹿』だったかもしれない。

 言葉を話せない木霊がどう思っているかなんて、俺には正確には知りようがない。

 でも、言葉はなくても伝わる想いはある。

 大事なのは周りをきちんと見ることだと、織姫が、木霊が、十六夜が、そして、夜叉も教えてくれた。

「よっし。今日は大奮発だぜ!」

 そう言って、俺は木霊を抱えたまま、玄関から飛び出した。


「こんなもんで……むぐむぐ……気を引こうったって……んぐ。そうはいかないんだからな!」

「いーから。食うか喋るかどっちかにしろ」

 駅前──からは少し離れた公園のベンチ。

 幸い人がいなくて助かった。夜は若干肌寒くなってきたせいかもしれない。

「ああ? 食うに決まってんだろ。有栖がこんなに気前がいいなんて、地球がひっくり返ったって二度とこないんだから」

「ミィ!」

「どこまでケチだと思われてるんだ俺は」

 チョコレート、メープルバター、キャラメル、ベリー&ベリー、ガトーショコラのクレープを既に完食した夜叉は、次に抹茶白玉あずきに手を伸ばしていた。

「しっかし……んぐ……あの店員の顔ったらなかったな」

 夜叉はクレープを頬張り、笑いながらそう口にする。

「いや、そりゃそうだろ。男が一人でこれだけのクレープを注文してたら」

 夜叉はクレープ屋にはいなかった。その手前の電柱の影から物欲しそうな表情でじーっとクレープ屋を見ていた。声をかけて逃げられてもアレなので、夜叉のことはそのまま放置して、店まで行って、とりあえず大量のクレープを注文してみた。

 出来上がった大量のクレープを抱え《木霊は頭に乗せた》、歩き出すと同時に、目の前に不倶戴天が飛び出した。

「アタシにそれを寄越すか死ぬか、好きな方を選びな!」

 よだれだらけの顔で何格好つけてやがる。悪鬼羅刹が聞いて呆れるわ。

 ってことでまあ、近くの公園に寄って、人目につかないように餌付け作戦を実行していたわけである。

「ミィー」

 木霊は木霊で土の中から栄養を吸い上げている。ああ、全員これくらいエコなら俺の財布ももっと膨らんでいるはずなのになあ、と、諭吉のなくなった財布を覗き込む。

 ──今月大丈夫か、これ。

「食いながらでいいから聞いてくれ。……さっきは、その、悪かった」

 夜叉は聞こえているとも聞こえていないとも取れる表情で、明後日の方向を向いたまま、クレープを頬張っている。

「お前はちゃんと俺のことを心配してくれていたのに、無責任なことを言って、お前を傷つけて」

 そのくせ必要な時には勝手に頼りにして。

「もし許されるのなら……もう一度、契約して欲しい。お前の力が必要なんだ」

「……ふんっ。アタシの力なんて人殺しにくらいしか使えないよ」

 夜叉はクレープを食べ終わったようで、そっぽを向いてそう呟く。

「それは使い方次第だ。どんな力だって、使い方を間違えれば人を傷つける」

 包丁だってそうだ。便利なはずの道具が悪意を持った人間の手元に渡っただけで、人の命を奪う鋭利な刃物に変貌する。

「俺はもう間違えない。……って言えたら格好いいんだけど、まだ弱い。間違えるかもしれないし、失敗するかもしれない。だから」

 その都度お前がこうやってくれればいい。と、不倶戴天を引き寄せ、刃の裏側で自分の頭を叩く。

「なんだよ。この虚空夜叉様をただの教育係にしようってのかい?」

 夜叉はこっちに向き直り、不倶戴天の刃を俺の喉元に近づける。

「……だめか?」

 俺は一歩も引かず、瞬きもせずしっかり夜叉の目を見据えてそう問いかける。 

 暫く緊張した空気の中そうしていたが、夜叉がふっと息を抜く。

「……条件がある」

 夜叉は後ろに振り返ってそう言った。

「なんだ?」

 俺に出来ることならする。早帆ちゃんを諦めることだって今なら出来る。

 俺に必要なのは、想い人ではなく、想われる仲間なんだって。

「月一回でいいや。アタシに極上のスイーツをおごること。いいね?」

 そう言いながら振り返った夜叉は、いつもの凄惨な笑みをこちらに向けて、

「出来ないってんならこの場で殺してやるよ。さ、どっちか好きな方を選びな」

「……考えるまでもない」

 俺は上着のポケットから金の髪飾りを取り出し、夜叉に近づいて髪に取り付ける。

「我、汝ら精霊と約を求める者なり。その力、この身をかけて現世へ導きたもう。……生活が続けられる程度でお願いします」

「我、その盟約に従い、汝と契りを交わさんとす。……毎食キャベツが食えるくらいは残してやるよ」

 そんなわけで。体育大会の金曜日、俺は精霊とちょっとだけケンカをし、いい仲直りをしたのだった。 

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