第31話 ダイエットの祟りは突然に。


座標は、山中の一点を指していた。

走り始めて1時間。健太郎が監禁されている場所は中心街よりはるかに離れた郊外。地図を見れば隣接する県よりもさらに向こうに矢印は刺さっていた。普通に車を走らせたのではゆうに3時間は切らない距離。それは一度市内におびき寄せられた次郎達からはひどく離れた場所だった。知らせを受けた大槻も同様に向かっているが、建物や道路を無視して真っ直ぐ直線に進める次郎の方が圧倒的に速い。


しばらく道沿いに走っていた次郎が、その先200メートルほどで突き当りに差し掛かるのを見て舌打ちした。今進んでいる道路はそのまま行けば大きく左に迂回する。真っすぐ進むには、正面にある小高い丘を登るしかなかった。


次郎のスピードはあっという間に丘を眼前に捉えていた。背後から走って来る車のヘッドライトにぼんやりと照らし出される斜面は、植えられた木も少なくすんなり登れそうだ。来た道と垂直に交わるT字路を突っ切り、歩道と車道を遮るガードレールをなんなく飛び越える。


降るような星空を背景に、真っ黒な影になった丘のシルエットが浮かび上がる。次郎はその斜面を一気に駆け上がった。頂上を踏んだ足元を夜の風が丈の短い草ごと撫でていく。少し開けた高台からは、周囲の街を一望することが出来た。


次郎は来た方向を振り返った。暗闇の海の中に、きらきらと輝く街の光が瞬いている。随分走って来たはずだ。反対にこの先は民家や建物もまばらになってくる。次郎は進む先へと向き直って、一気に光の数が少なくなるのを眺めた。上着も持たず出てきたせいで、肌の表面はすでに外気と変わらぬほど冷たくなっていた。だが、寒さは感じない。革手袋を脱いだ右手でスマホを取り出して、送られてきた座標を地図の上でもう一度確認した。


「あと何キロあるんだこれ……」


ルート選択をすると、余計な迂回をしなければならないため、始点と終点となる二点のみが表示されるように設定している。画面をつまむように縮小して、まだ遠く離れているその二つの点を見つめた。


健太郎の居場所を示す赤い印が、地図の上で点滅している。


「どこまで攫われてんだお前」


健太郎が消息を絶ってから、滝澤ビルを見つけるまでほぼ24時間。その間に、これだけの距離を運ばれていた。血を奪った後、次郎に自分たちを追わせず遠ざけるために、死神たちは車でも往復6時間以上もかかる場所にわざわざ健太郎を監禁したのだろう。約束されたのは深夜0時まで。それまでに救い出せば命は助けられると。休まず走ってもまだ三分の一も来ていなかった。


「くそ……」


体の中をじわりと走るような痛みに思わず唸る。奪われた量は大したことはないが、手当てもせずに全力で走っているのが響くのか、普段ならもう少し早く回復するはずの傷が少しも塞がらない。開いたままの傷口から、かなりの血が流れ出てしまっていた。


ダイエットが祟ったかなー……


健太郎が来てからひと月。次郎は一度も生き血を飲んでいなかった。代々自分を匿い続けた『鬼の湯』の主たち。跡継ぎになるはずだった娘が嫁に出たまま帰らず、もう何十年も桃と二人で暮らしてきていた。きっとこれで俺とこの湯屋との縁も切れるのだろうと、そう次郎は思っていた。


だが、そこに突然降って湧いたように健太郎が現れた。静かだった風呂屋はにわかに賑やかさを取り戻した。両親を亡くした悲しみがないはずはなかった。しかし健太郎はむしろそれを忘れようとするかのように、慣れない風呂屋の仕事に精を出した。毎日元気に怒鳴り込んで来ては、何かと自分の世話を焼く。怒ったかと思えば楽しげに笑い、泣いたかと思えば何でもないことで喜ぶ。誰に教えられたはずもないのに、健太郎のその姿は歴代の『鬼の湯』の主の姿を彷彿とさせた。自分の周りでぎゃーぎゃーとやかましい奴ら。だが永遠の時を生きる次郎にとっては、“それ”が悪くもなかった。そうやってなんでもない日常が、長い長い間繰り返されて来たのだ。終わるはずだった日常を、健太郎がまた繋いだのだ。


その健太郎の前では、生き血を飲むのは憚られた。ヴァンパイアと暮らしていることさえ何度説明しても理解できないあいつの前で、誰かを襲って見せたりしたらどうなってしまっただろうか。そう考えると、なんとなく夜の街には足が向かなくなっていたのだ。


「バカだなー俺も」


代わりに牛乳をがぶ飲みしていたのを思い起こして、塞がらない傷を押さえる。方位磁石のアプリを起動して、方角を確認した。指し示されたはるか先には、真っ黒な山地を望む。


必ず助ける。


スマホの画面に映されたデジタル時計は、とうに9時を回っていた。

次郎は来た時とは反対側の真っ暗な斜面を一気に駆け下りた。



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