第26話 いや、普通に痛いからね?

 

 ズブリ。と鈍い痛みが背中から横腹を抉る感触がした。薄手のカットソーがじわりと温かいモノで濡れ広がっていくのがわかる。針と呼ぶにはあまりにも太い、ジャックナイフほどもある刃が傷口を大きく切り開く。鉄で出来たその器具の先には、強化プラスチックで出来たアンプルが付いていた。透明な筒の中に、押し広げられた開口部から、針の内部を伝って真っ赤な鮮血が流れてくる。突き立てている手首を掴んで、強く引き寄せた。



 ―― お願い、離さないで。



 背後からそう囁いたのは、園田温子だった。彼女の付ける華やかな香水が強く漂っていた。刺されたのは、震えながら背中にすがりついてくる彼女を振り返ろうとした時だった。鈍痛が貫く一瞬に、それまで頭の中で途切れ途切れになっていた疑念が一本に繋がっていく。

 引き寄せた細い肩に爪を突き立てて、次郎は女の耳元でしたりと笑った。


「やっぱりアンタか……」


 女は皮膚に鋭い爪が食い込むのを感じながら、痛覚など最初から持ち合わせていないかのように、掴まれた腕とは逆の手でアンプルを折って回収する。


「助けてくれてありがとう。王子様みたいだったわ」


 抱き寄せられ、身動き一つできない状況でも少しも焦る様子はない。


「もっとお姫様気分を楽しみたかったんだけど、貴方強すぎるのよ。こうでもしなきゃ、純血種から血を盗むなんて出来ないでしょ? 力ずくじゃ無理。そんなの最初から百も承知よ」

「なるほど……あの鬼とアンタ、ご丁寧に二重トラップってわけか」


 冷たい鉄の先端が肉をえぐっている。


「彼可愛かったでしょ? 私と彼とどちらか一人でも成功すれば良かったの」


 ギリリと掴んだ女の腕が紫に変色し始めている。言い終わるが早いか、一閃の銃弾が次郎の頬を掠めた。気を取られた一瞬に、女は体を反転する。関節が外れ、骨が折れる鈍い音がした。逃れる女を追う次郎を銃声が遮る。弾が飛んできた方を振り返ると、ジャレッドが長い獲物をこちらに向けていた。その隙に軽々と身をこなして、女はノーアードの隣に舞い戻る。


「お疲れさまです。ボス」


 “ボス”と呼ばれて、園田温子と名乗っていた女は外れた関節を自分で入れながら部下の労いに応えた。


「なんとか首尾通りね」

「ええ、次郎さんがあんまり強いんで、途中ヒヤっとしましたけどね」


 まとめていた髪を解いて、血液のアンプルを胸の谷間にしまう。


「それ、腕大丈夫です?」

「大したことないわ。すぐに治るから」


 全ては計画通り。強敵との衝突は最小限に抑え目的を達成すること。女は戦わずして“悪魔の赤い秘薬”と謳われるヴァンパイアの血をまんまと手に入れたのだった。こちらを真っすぐ睨む次郎に微笑む。


「それにしても、よく気づかれませんでしたね。次郎さん、きっちりノーマルと強化人間アーマード嗅ぎ分けられるみたいだったのに」


 ボスに9ミリのセミオートマを手渡しながら、ノーアードが次郎に目をやる。


「そのための香水だろ?」


 横っ腹を貫く太い針を引き抜き、地面に放り投げなげて、次郎は女の強すぎる香水を指して言った。


「ヴァンパイアの嗅覚が優れてるといっても聴覚程じゃない。そんな強い香水つけてうろつかれたら、さすがに普通の人間か強化人間アーマードかなんてわかんねーよ」

「そうでしょうね。ちなみにこの香水にはノーマルの女の血も少し混ぜてあるの。私の中に流れるわずかなヴァンパイアの血の匂いなんてわからなかったでしょうね」


 ノーアードに答えてやるついでに、匂いのからくりを次郎に教える。


「なるほど。手の込んだことで」

「でもさっきの口振りだと、薄々は気づいてたみたいね。どうしてわかったの? 私が裏切り者だって」


 マガジンの装填を確認してチェンバーに弾を送る。女は銃の感触を確かめながら自分の芝居の綻びを尋ねた。


「別に単純だろ。俺の血が目的だとして、健太郎に成りすまして狙うだけなら攫うのは健太郎だけでいいはず。それにあの鬼が失敗した時点で解放するなり始末するなりすればいい。でもお前らはわざわざわかりやすい暗号を残して俺をここへおびき寄せた。健太郎をエサとして生かしたままな」

「始末するだなんて。貴方の怒りは出来るだけ買いたくないもの。健太郎くんは丁重にお預かりしてるわよ」

「そらどうも」

「それじゃあ、ストーカーの一件が貴方と健太郎くんを引き離すためのフェイクだっていうのも、バレちゃってたのかしら?」

「ご丁寧にあの松浦って男の部屋には、ここへ辿りつくための図面が残されてたからな。見つからないようにわざわざ隠しファイルにしときながら、パソコン自体にはパスワードすらかかってなかった。見つけてくださいって言わんばかりに」

「さすがね。貴方にはちょっと演出が過ぎたようね」

「詰めが甘いんだよ。何よりそんな綿密な計画を立てて意中の女を誘拐しようとした割には、部屋にあったアンタの隠し撮り写真はどれも汚れてベタベタ。パソコンも図面も写真も全部仕込み。あの松浦ってのはただのフェイク用の駒で、おおかた金で身寄りのない適当な男を雇ったんだろ?」

「全部お見通しってわけね」


 次郎の推理を聞きながら、女は片方だけになっていたハイヒールを脱ぎ捨てる。


「あとはその靴な」

「あ、これ? いい演出だったでしょ? 片方だけ残された靴。シンデレラみたいで」


 楽しそうに白いハイヒールを掲げて見せる。


「いくら美容部員でも、仕事に汚れの目立つ白の靴は選ばない。ましてやストーカーをハメようって日にそんなヒールの高い真新しい靴を履いてくるなんて自爆行為だろ」

「意外に細かいところ見てるのね。だってガラスの靴のイメージならこんな感じでしょう?」


 そう言って、女は赤い爪で高いヒールの曲線をなぞった。


「あの図面も、アンタの部屋にあった暗号も。全部俺をここへ導くための布石。ただ暗号だけは、アンタ本人が自分で書き込んだのか、犯人がアンタの部屋に忍び込んで仕込んだのかがわからなかったから、裏切ってんのかどうかは最後まで五分五分だったんだよ」

「なら、半分罠だとわかってて来たっていうの?」

「どのみち人質取られてたら来るしかないだろ」


 ここへ来た目的は一つ。そう答えて次郎が声のトーンを変える。あとは健太郎を救えばそれでいい。ただ目の前の敵を捻り潰せばいいだけの話だった。

 再び臨戦態勢に入ろうとする次郎を前にして、女は怯む様子もなく「そうね」と笑ってドットに手のひらを向けた。ドットが一台のスマホを取り出して女に渡す。


「貴方は健太郎くんを随分大事にしてるみたいだものね?」


 手渡されたスマホを操作して、発信中の画面をこちらに向ける。


「せっかくだから、大切な健太郎くんとお話させてあげる」


 画面が通話中に変わる。そしてしばらく無言だったスピーカーの向こうから、聞き慣れた声が聴こえて来た。


『…………次郎?』



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