第16話 なんか、変なスイッチ入りました?
昔ながらの大きな襖が4枚並ぶ部屋の入口。
古い旅館の奥座敷よろしく、周りを囲んだ廊下は外の景色を望む窓に面している。
木枠で縁取られた硝子を透過して降り注ぐ月明かりが、板床をきらきらと青く照らしていた。
「ほら、ついたぞ」
襖を蹴って部屋に入る。
健太郎の部屋は、昔の客間をそのまま使っていて広さは10畳ほど。
床の間や違い棚が
ただ、朝慌てて起きてそのままになった布団が一組、部屋の真ん中に敷かれていた。
そっと、布団の上に寝かせる。
首の後ろから腕を抜いて離れようとすると、健太郎が再び腕を回して、今度はぎゅっと抱き寄せてきた。
「ん? どうした?」
その行動に、思いもよらぬというか予測通りというか。とにかく次郎は戸惑った。首に巻きつかれたまま、必然覆いかぶさる格好で静止する。
健太郎は、今度は真っ直ぐに次郎の瞳を見つめた。そして耳元で囁く。
「行くなよ」
「ここにいて」と呟いて、そのまま次郎の顔を引き寄せる。
呟いた言葉が、頬を撫でる。健太郎の吐息を間近に感じて、次郎もさすがにその意図を理解した。健太郎の頬に手を添えて瞳を閉じる。二人は、どちらからともなく唇を重ねた。
幾重にも重なる濡れた音が、月の光だけが差し込む部屋に、静かに響く。
健太郎は、次郎の顔を包むようにすがりつき、自分を味わう唇を噛む。
吐息が漏れる度に離しては、また追いかけて。
時折絡む視線は、ひどく甘ったるい。
そしてまるで誘うように、キスの合間に次郎の手を掴んで、ゆっくり自分の首に添わせた。
ドクドクと脈打つ鼓動が、首筋に当てた掌から伝わってくる。
その感覚に、次郎はぐらりと理性が遠のくのを感じた。
柔らかい肌に、鋭い牙を突き立て、口の中に広がる芳しい血の香り。
何度も味わったあの快楽が、この薄い皮膚の下に流れているのだと想像すると、抗うことができない。そのまま、絡まるキスで濡れた唇を健太郎の首筋に押し当てた。
健太郎から小さな声が漏れる。
だがその刹那。次郎は闇を縫う鋭い殺気を感じた。反射的に払った手刀が、次郎を狙った刃物を弾き飛ばす。
カンッという乾いた音がして、月の光に煌めいたナイフが床の間の柱に刺さった。甘いキスを落としていた唇が、苦悶に歪む。次郎の意識は一瞬で緊張に張りつめていた。
「お前……――ッ」
ナイフを握っていた手の主に、目を見張る。
「ふふ、惜しーなー。あとちょっとだったのに」
自分を抱いたまま固まる次郎を見上げて、その男はにっこり笑った。
そして、間髪入れずに足を蹴り上げて腹を狙う。次郎は寸でのところで重なった体を引き離し後ろに飛びのいた。体を低く構えて男を睨む。
男の方も、蹴り上げた足の勢いを使ってくるりと起き上がった。
「何モンだ、お前……」
言って次郎は、狙われた首筋から、一筋の血が滴るのを感じた。
「ああ、その血。それが欲しいんだよね」
男は、さっきまで次郎を見つめて蕩かせていた「健太郎の顔」で、ニッと口端を上げて舌なめずりした。その仕草は、健太郎のものではなかった。
「俺の血……?」
開いたままだった襖にもたれて、指についた血を美味そうに舐める男を凝視しながら、次郎はもう何十年とお目にかかっていなかったある組織のことを思い出していた。
「まさかお前、
「やだなー。あんな奴らと一緒にしないでよ。俺はあんたと同じ化け物サイド。まぁもっとも、今回は
「奴らが狙うのは、“アンデッド”だけのはずだろ。俺みたいな純血種を狙うなんて、随分命知らずがいたもんだな」
「だよねー。ホント馬鹿だよ人間って。純血のヴァンパイア相手にするなんて、ただの自殺行為だよねー。でもなんか、あんたらが量産した“アンデッド”じゃ、事足りなくなったらしいよ?」
「へー。そりゃ商売繁盛で結構なことで」
一瞬も殺気を緩める気配のない男が、にこにこと親切に依頼主の動機をそう説明する。
「あいつらの事情なんて詳しくは知らないし興味もないんだけどね。でも、あんたには興味深々。人間なんかと組んだのもそのためだよ」
「ほー?」
「あんた、“オリジナル”なんでしょ?」
男は意味深に笑った。
その言葉に、次郎の表情が変わる。男を睨んだまま舌打ちした。
「さぁどうかな」
「アハハ、さすがに「はいそうです」とは言えないよね」
ふふふ、と楽しそうに笑う顔は、まるで悪戯を見透かされた子供のようだ。
「それよりお前は何の化け物なんだ。そんな完璧な“
楽しそうに笑いながら月明かりを背に受ける男の姿は、まぎれもなく“健太郎”だった。その瞳も、柔らかい髪や滑らかな首筋、すがりついてきた震える肩や腕もすべて健太郎そのもので、次郎は気づくことすら出来なかったのだ。
キスまで同じとはな。
唇の感触を思い出して、自嘲する。
「俺もあんたらと同じ“鬼”だよ。ただし純国産のね。あんたら洋モノと違ってむかーしからこの国に住んでるネイティブジャパニーズモンスター。ま、国産妖怪がみんな俺くらい化けられるかって言ったら、無理あるだろうけど」
俺、何気に大物だからね。と男はウィンクをして寄越す。
時代の流れとともに数を減らしていた日本古来の鬼。彼らの中には、姿を変えて人を襲う者たちが確かにいた。その
「鬼かー、道理で
「ふふふ~っ そんなに似てた?」
「その服どうしたんだよ」
「ああ、これ? これは本物の健太郎くんから拝借したんだ。さすがに同じ服を探すのは大変だからね」
「…………」
「あ、怒んないでよ? 俺が脱がせたわけじゃないから」
そう言いながらTシャツを引っ張って見せる。その度にチラチラ覗く細い腰には、以前健太郎が風呂に入っている時に見つけた小さな痣まで再現されていた。
「その痣は? いつ見たんだそんなとこ」
「ああこれ? 気づいた? 職人でしょー俺ってば! 2週間もここの銭湯通って観察したんだからー!」
そんな前から潜り込まれていたとは。次郎は険しく眉間に皺を寄せる。
「あ、怒った? 大丈夫だよ~健太郎くんに悪戯なんてしてないから。若くて可愛いとは思うけど~俺のタイプじゃないしね。それにしても知らなかったなぁ、あの天下の最強ヴァンパイア様が匂いフェチだったなんて! あれだろ? あんたらってすごく鼻がいいんだってね。ちゃんと健太郎くんの匂いした? 鼻くっつけて匂い嗅いだりしてさ~。マジで彼のこと狙ってたりして」
「いいから、さっさと健太郎の居場所教えろ」
「えー都合悪いとスルー? まぁいいや。ごめんね、健太郎くんがどこにいるのかは知らないんだ。服は渡されたの着ただけだからさ」
「なら知ってることを吐いてもらう」
突然次郎の声がワントーン下がり周囲の闇が深まりを増す。周りの空気の密度が急激に上がっていくのが、少し離れた男にもわかった。
「おっと。作戦は失敗したし、そろそろお
どこからか風が巻き起こり、部屋の中で回転を始める。次郎を取り巻く闇が一層深くなるにつれて、風は加速度的に速く激しくなっていく。風になびく艶やかな髪の間から見えていた瞳が、漆黒から血のような赤に変わり始めていた。
「ヴァンパイアとマジ喧嘩なんて勘弁ッ」
男が言うのと同時に、次郎が畳を蹴って音もなく襲い掛かる。喉笛を掴みにいった爪は一瞬早く退いた男の肌をかすめた。空を引き裂く鋭い音が響く。
「痛てて。健太郎くんちゃんと見かるといいね。時間切れになる前に……!」
「…………ッ!!?」
あっという間に窓際まで退がっていた男は、じゃあねと手を振ってガラスが弾ける派手な音と共に窓を突き破った。階下に飛び降りるのではなく、飛び上がって破風板を破り屋根の上へと飛び去る。すぐに男を追おうと窓に手をかけた次郎だったが、ぐっと思いとどまって動きを止めた。
「時間切れ……か」
何かを思い出したように、次郎は呟いた。周囲に吹き荒れていた風は、彼が落ち着きを取り戻すとともにするりと静まっていく。赤く淀みかけていた瞳は、ゆっくりと夜の闇に同化していた。割れた窓から、庭の桜の匂いと一緒に夜風が吹き込んで来ていた。
次郎は壊れた窓枠に腰を下ろして、荒れ果てた部屋を振り返った。そして、静かにため息を吐き出す。
「それにしてもこれ……。健太郎怒るだろーなー」
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