第3話 湯男、健太郎。


 屋内の湿度がぐっと上がって、洗面器が壁や床にかこーんと当たる風呂屋鼓がそこかしこで響いている。

 店が唯一活気づく時間。

 みんな晩飯を済ませてテレビを観るのもそこそこに、日が落ちればまだ肌寒い春の夜をくぐって湯を浴びに来る。

 いつもなら桃さんが番台を務めている時間帯だけど、不良外人に誘われケーキを食いに行ったまままだ戻ってこない。

 仕方なく俺は番台の椅子に浅めに腰掛け、気持ち座高を低くしながら客入りの番をしていた。

 女風呂からは近所のご婦人方の豪快な笑い声が高らかに響いている。


 丸聞こえだよ山本さん……


 お盛んなことで羨ましい。と印刷屋の女房が楽し気に声を上げると、女風呂からまたどっと笑いが起こった。

 どうやら酒屋の八兵衛さんとこの孫夫婦に、早くも二人目の子供が出来るらしい。

 一人目との間隔を逆算したらどうのこうの……って


 下ネタかよ……


 キャッキャと下世話なお祝いムードに花を咲かせている。

 俺は壁にずるりともたれてさらに座高を低くした。

 風呂屋で働いてると女への幻想は微塵も抱けなくなる。

 これぞ裸の付き合いってことなのか。

 男も女も開けっ広げに語り合い、風呂上がりの牛乳片手にたわいもない話にみんなが耳を傾ける。

 老いも若きも不思議とこの空間を共有していた。

 生まれた時から都会育ち。ご近所さんはおろか、父方のじいちゃんばあちゃんが生きていた頃も滅多に会わない生活をしていた俺にとっては、もはやここはカルチャーショックの世界。

 友達とだって修学旅行以来一緒に風呂に入る機会なんてなかった。

 ましてや女の人なんて……


 ふいと女風呂の方に目をやる。

 といっても衝立で目隠ししていて、番台からは中が見えないようにしてあるんだが。

 普通に座ってても見えないとわかっていても、なんとなく気が引けて姿勢が低くなる。

 男が番台に座ってたらやっぱ落ち着かないだろ?

 と、気遣ってるのは俺の方だけかもしれないとも思いつつ、来週の講義で使う課題図書の頁をめくった。

 さっき山本さんがタオルで前隠しただけの格好で石鹸買いに来た時も、むしろ俺の方が悲鳴上げたしな。

 健ちゃんにだったら逆に見られたいわ~!なんて馬鹿笑い。

 セクハラだろ。

 21だぞ?まだまだ夢みたいお年頃なんだよおばちゃん。

 気を遣え!裸で歩き回るな!


「はー……」


 力ない溜息を吐いて、交代が来るまで俺は苦手な番台業務に耐えていた。


「あ、そうだ。桃さん来たら石鹸補充しとかないと。」


 石鹸にしろシャンプーにしろ、なぜか無くなるタイミングは皆同じなようで、今日は飛ぶように売れて番台の在庫が心許なくなっていた。

 番台下の棚に手を伸ばす。

 覗き込んで残りの数を数えようとしたときだった。


 ガラララッ


 女湯の方の扉が開く音がして、俺は慌てて顔を上げた。


「いらっしゃいま……」


 せ。

 思わず語尾を飲み込む。

 女優みたいな美人だった。


「…………」

「あの……」

「あ!?はい!!」

「大人ひとりで」

「は、はい!どうぞ!」

「あの……おいくらですか?」


 え?と困った顔をする美女。

 しまった思わず見惚れた!!

 ふわりと長い髪に、伏し目がちな長い睫毛。

 紅くふっくらした花びらのような唇。

 スラリと伸びた長い手足。華奢な肩。

 戸惑いながら財布を持つ手には、白魚のような細い指が添えられていた。

 よし!!指輪はない!!


「よ、400円です!」


 つい余計な確認までしながら俺は大人ひとり分の料金を伝える。

 彼女は財布を開いて1万円札を取り出した。


「じゃあこれで……」


 そっと番台の縁に置く。

 うぉっと!万札か!やべぇお釣りあるかな……

 うちの店では普段見慣れない万札に慌てる。

 小銭持って来てないってことは……常連さんじゃないよな。

 新規客?

 こんな美人ひとりで?

 近所でも見かけたことない顔だし……

 そんな遠くから見知らぬ風呂屋に入ってくるか?


 銭湯の利用客なんてそのほとんどが近所の常連客。

 一見の客なんてめったに入ってこないのが普通だった。

 じゃあなんだ?親戚の家に遊びに来たとか?

 いやそれならその家の風呂借りるだろ。

 なんでわざわざしかもひとりで……


 突然の美女の来訪にどうでもいい疑問が次々と頭をかすめる中、手提げ金庫の蓋を開けた。


「あ……っすみません!ちょっと釣銭切らし……」


 やっぱりない!と焦って顔を上げる。

 が、そこに彼女の姿はなかった。


「って、あれ!?」


 どこ行った?!

 慌てて視線をめぐらす。

 美女は女湯の衝立の向こうに消えようとするところだった。


「ちょ!ちょっと待って!!」


 急いで呼び止める。


「はい……」


 美女は戸惑いながら立ち止まった。

 気まずそうに目を逸らし、どこか落ち着かない様子。


「あの、お釣りまだなんで。えと、母屋で両替してくるので少し待っててもらえませんか?」

「え……あの……」

「すぐ取ってきますから。1~2分で戻るんで」

「いえあの……!!」


 急いで番台を乗り越えようとする俺を彼女は慌てて呼び止めた。


「え?」

「あの……お釣りは結構ですから……」

「……は?」


 なぜか顔を赤らめながら彼女は絞り出すようにそう言った。

 いや、意味がわからない。

 1万円だぞ?お釣り9600円だぞ?どんなチップだよ多すぎんだろ。

 ポカンとその場で固まる俺に、彼女はそっと近づいてきた。

 そして


「お釣りは結構です。あの、せ、背流しをお願いしてもいいですか?」


 ……背流し?


「あの、そういうことなんで……じゃあ、お願いしますね」


 顔を真っ赤に染め、震える声でそう言った彼女は足早に衝立の向こうに入って行った。

 後には、番台の縁に足をかけたまま固まった不格好な俺だけが残される。

 今のは……なんだ?


「背流しって……」


 漏れ出す小声で反芻した俺は、脳裏にふと次郎の声が蘇るのを聴いた。


 ― 背流し垢すりって言ってな。湯女達はそういう名目で奥座敷で一夜の夢を売ってたのよ。


「 ……………… 」


 えええええええええええええーーーーーー?!?!?!


 全身の毛穴から汗が噴き出す。

 悲鳴にも似た心の中の叫びが、俺の頭の中でこだましていた。










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