第5話

 姫子は話をしている間ずっと握っていたわたしの手を離す。体育に参加しないわけ、一人暮らしの理由、服を脱ぎたがらないこともすべて父親の虐待が原因。その一言ですべて説明出来てしまうけれど、事態はそんなに簡単ではなくて、父親の病癖がいまだに姫子を苦しめている。

「最初に言ってよ。そしたら付き合ったりしなかったのに」

 強く目を閉じ、拳を握りしめて細い肩を震わせている姫子をうしろから抱きしめた。

「けれど、今はそんなことが気にならないくらい好きだから」

 初めてわたしから姫子の耳を舐め、顎の輪郭をなぞってから下唇を甘噛みした。彼女の求めを退けたことのないわたしは焦らすことなく、すぐに口づけを交わす。そして、背中のふくらみを撫でて、ひとつひとつにキスしていく。中になにかはいっているのかと思ったけれど、水や脂肪の塊のように柔らかくて弾力があった。

「私、一人のときはオナニーばかりしてるよ」

「知ってるよ、そのくらい。わたしも同じだし」

「火傷あと以外、オナニーでつけた痣なんだけど、それでも好きでいてくれるかな」

 火傷あと以外。その一言が引っ掛かった。どういうことか訊こうとしたわたしをキスで制し、姫子は立ちあがって部屋の隅にある机の引き出しから鍵を取りだした。そこに触ったら許さないから、と言って今まで開けることを許してくれなかったクローゼットに掛けてある南京錠をその鍵ではずし、中から竹刀と乗馬で使うような短い鞭を持ってきた。

「今からオナニーするけど、ちゃんと見てて。それを見たあとも愛してるって言ってほしい」

 竹刀をベッドに立てかけた姫子はローテーブルに片手を置いて、嬉々として鞭を振り上げる。なよやかな自分の手に鞭を打ちつけ、鞭が鳴らす、思わず目を閉じてしまうような破裂音のあと、声にならない悲鳴をあげながら背を仰け反らし、のたうちまわる。テーブルの脚に頭や腕をぶつけているにもかかわらず、その痛みが気にならないほどの激痛らしい。鞭とは関係ないところで痣ができていくところを、声をかけ、触れてもいいのかもわからないわたしは成す術なく見ている。テーブルとベッドの間でうずくまったまま動かなくなった姫子の顔を覗き込むと、涙を流しながら笑っている。歪な表情のまま、聞いたことのない低い声、中年男性を演じているような声で言う。

「ごめんな、痛かったよな、でも、お前を愛しているからこそなんだ。わかってくれるよな」

 青白い皮膚からは血が滲み出ており、赤黒いふくらみが現れる。姫子はそのみみず腫れを舐めながら、ショーツの上から秘部を擦るようにしてオナニーに耽っていた。毒々しいみみず腫れを見たとき、ぞっとしたことに私は愉悦を覚えていた。

「そういえば、犬を蹴ったことであなたまで飼い主に怒られたね。お仕置きに内腿も叩いておこうか。そうしなければ私の気が済まない気がしてきた」

 姫子は嬉しそうに舌舐めずりをしながら、投げ捨てた鞭を拾ってきた。叩ければ理由はなんでもいいらしい。ベッドに腰掛けて深呼吸すると、鞭を振り上げた。わたしはいつの間にかその手を握りしめ、ショーツの中に入っていた彼女の手も引き抜いて、彼女の自傷行為を止めていた。

「あなたが叩いてくれるんだ。それもそうだね。迷惑をかけられたんだから、折檻はあなたの手で行うべきだね。痛みこそ愛だもの。これで私たちのセックスが出来上がる」

 わたしが姫子に握らされた鞭を廊下に放り投げると、姫子は立てかけてあった竹刀を持たせ、わたしの手を愛液がついた手で包みこんで懇願する。

「あなたが叩いてくれないと、愛されてる実感が持てないの。恋人がいるのにオナニーばかりで自分を愛するのはもう嫌だ」

 姫子が父親に植えつけられた性癖は、彼が死してなお娘を苦しめている。わたしは姫子を想って自慰に耽っているけれど、彼女の頭の中は父親でいっぱいだ。一方的ではあるけれど、わたしとセックスだってしているのに、自演してまで父親を感じようとしている。恋人のオナペットが父親だなんてことが許せるはずもない。

 わたしのことを考えて、わたしでオナニーしてよ。


 膝の近く、姫子が自分で舐めやすい位置に竹刀を振り下ろす。剣道のような鋭い音ではないけれど、竹の乾いた音が響く。音を聞くだけで私の脚にも痛みが走った気がした。

「そんなのじゃ、全然ダメ。もっと強くして」

 パンパンパァン

 同じ位置を何度も叩くけれど、肌が赤くなるくらいで痣にもならない。姫子はシーツを強くつかんで、痛みを我慢している。けれど、叩くことをやめさせてくれない。もうやだよ。

「どうして! もっと私を愛して。強く強く愛してよ」

「ほかのことにしようよ。わたしたちのセックスはわたしたち二人の方法で完成させようよ。お父さんなんてどこかにやってよ」

「それはダメ。この方法しかないんだよ。これ以外じゃ感じない」

これ以上叩くことが、竹刀を通して伝わってくる柔らかい肉とその内側にある硬い骨の感触が嫌だった。わたしに叩かせるくらいなら、勝手にオナニーしていてほしかった。

鞭なら一度で満足してくれるのではないか、足を叩いた感触がわたしに伝わらないのではないか。わたしは竹刀を投げ捨て、廊下まで走って鞭を取りに行く。

 竹刀より重さを感じなかったので、自分の頭より高く手を振り上げる。破裂音のあと、わたしの手にはなんの感触もなく、これなら大丈夫だと思った。もう一度叩こうと姫子を見ると、彼女は膝を抱えて寝転び、自分の手を血が出るほど強く噛んで痛みに耐えていた。内腿の皮膚ははじけたように破け、血が滲み出ている。

「痛い、痛いよ」

 姫子は自分で叩いていたときと違って、笑うことなくただ泣いていた。わたしはやりすぎてしまったのだろうか。

「ごめんなさい。ごめんなさい。姫子のこと、愛してたから。何度も叩きたくなかったから」

 わたしが姫子に覆いかぶさるようにして抱きしめて謝っていると、姫子はわたしの下でもぞもぞと身をよじり、股間をまさぐりながら自分の内腿を舐めはじめた。わたしも姫子のショーツに手を入れて、初めて姫子を愛撫した。これがわたしたちのセックスなのだろうか。

 ごめんなさいごめんなさい。

 わたしたちは何のためにかもわからないまま謝罪し続け、落ちてくる涙で味が変わってしまった血を舐めていた。

 今日限りでこの病癖をやめさせねばならない。涙の中でわたしは決意した。そうしなければ、姫子が幸せになることは不可能だ。叩かれなくてもいい環境に慣れさせる。それが、彼女の病気を知っているわたしにできる唯一のこと。わたしだけにしかできないこと。

 傷を舐め終えたわたしが立ちあがると、姫子はもう一度叩いてほしいと言わんばかりの、物欲しそうな目でわたしを見つめる。わたしは、姫子はもう叩かれなくてもいいんだよ、ということばのかわりに、彼女を抱きしめた。


 パンパンパァン

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殴り愛 音水薫 @k-otomiju

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